平城宮ぶらのすけ

こんにちは。研究室4回生くらのすけです。分け合って7月末に奈良へ行って参りました。ブログは下書きに早くからアップしていたのですが、先生が紀要論文執筆とオリンピックに熱中されておりまして・・・8月そこでの内容を述べさせていただきます。
今回は平城宮跡についてです。和銅3年(710)、元明天皇が律令制にもとづいた政治をおこなう中心地として、それまでの都だった藤原京から遷都し、新しい大規模な都をつくりました。平城京のモデルとしたのは、その頃もっとも文化の進んでいた唐(中国)の長安でした。平城宮跡は敷地面積120ha、甲子園球場の約30倍の広さを有する国の「特別史跡」となっています。天皇の住居、政治や国家的儀式を行うための建物のほか、数多くの役所、宴会遊興のための庭園などが置かれており、これらは昭和30年(1955)以来、40年以上に及ぶ発掘調査により明らかになりました。平成10年(1998)、「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されました。
第一次大極殿
大極殿は宮内で最も重要な建物で、即位の儀式や元日の朝賀には天皇の玉座である高御座(たかみくら)が置かれていました。間口44m、奥行20m、屋根の高さ27mで、平城宮の中でも最大の建物です。復元に際しては発掘データや現在残っている奈良時代の建物など参考に多くの専門家が研究して、平成13年(2001)から9年の歳月をかけ平城遷都1300年である平成22年(2010)に完成しました。先生がこの復元プロジェクトに係わっていたことは講義を聴いた学生はみな知っています。
遺構は基壇の地覆溝の後が残っているだけで、柱配置もじつは分かっていないそうです。そうした遺構を上からふさぐ形で大極殿が建っています。大事な遺構は地下で保存しているとのことですが、これだけ大きな建物の真下にあって、本当に健全な姿で維持されているのでしょうか。復元事業の費用は1棟150億円も投入されています。オーセンティシティが残る遺構を潰してまで復元する必要があったのか考えさせられるところです。

東院庭園
平城宮は、他の日本古代宮城には例のない東の張り出し部分をもちます。この部分は「東院」あるいは「東宮」と呼ばれていました。昭和42年(1967)、8世紀の庭園遺跡が発見され、平成7年(1995)から平成10年(1998)にかけて復原されました。この「東院庭園」の復元事業にも先生は係わっていました。「歴史遺産保全論」講義では、復元的な平城宮東院の整備と遺構露出系の毛越寺庭園跡・一乗谷朝倉庭園跡が比較され、先生は自分が係わらなかった後者の方を高く評価されていたように記憶しています。
東院庭園の地形復原整備では遺構を守り、微妙な形状を表現するため、薄い小石・土盛による保護を原則としています。洲浜遺構と類似した小石を池に厚さ10cm程度敷きつめ、奈良時代の州浜を再現しました。築山は奈良時代の実物をそのまま陳列しています。庭石ですは様々な地方から取り寄せているとのことで、それが重要な意味を成すそうです。
「中央建物」は、復元平面が法隆寺伝法堂前身建物と良く似ていることから、これに従って復原しました。さらに、角柱の四隅を切りおとし断面が八角形に見える「大面取り」を施した柱が出土したことから、面取り部材を用いた古代の現存建物を参照して、部材のほとんどに面取りを施しました。また、この建物を結ぶ橋が直線的に、北東の待合所をつなぐ橋が湾曲にそれぞれなっています。支える柱の間隔も、前者が一定で後者が不均一とされていますが、これらは根拠に基づいてそうしているとのことでした。先生がこの2月、久しぶりに訪問されたときは檜皮屋根の葺き替え中で素屋根に覆われていたそうですが、今は葺き替えが終わって建物の全景を拝めます。先生も嬉しそうでした。
庭園の東南隅にある「隅楼」は、見つかった柱は断面が正八角形で、柱の底には石や木の礎板を据えています。また、底面から30cmの位置に貫を通して根がらみを十字形に配しています。こうした地業・基礎の手の込んだ作業からこの建物が2階建てであったと考えられ復原しました。ただ、屋頂部の「鳳凰」については、建物に比して大きすぎるという批判があるそうです。



(左)隅楼と曲池 (右)曲水の宴を催した遣水

東院庭園前の内部や周辺では、多彩な植栽が施されています。これも「復元」の一つだそうです。おもに花粉分析の成果を活用します。地層に分布する花粉を分析することで、奈良時代に繁茂していた植物を再現できるのです。考古学的な復元研究には自然科学の方法が応用されていることを知り、驚きました。こうした植栽の整備は発掘作業員さんが、現場で作業がないときにおこなうそうです。
遺構と現代の交わり
平城宮跡を近鉄線が横切っています。かつて特別史跡に指定してないころ、あたりは田んぼが広がっていました。そのころ近鉄電車が敷設されたのです。先に近鉄があり、のちに周辺の農地が史跡になった。ですから、先生は近鉄が立ち退く必要はないと仰いました。土地の歴史性をアピール史跡は史跡として独立しているわけではなく、近代に開発された施設やインフラと共存してるわけですが、その姿を評価すべきだというのが先生のスタンスです。さらにお話をうかがうと、鳥取市内の「史跡」でもそうした近代施設の排斥運動がおきているそうです。先生はこういう風潮に対して強く反対しておられました。私も同じ意見で、両者が共存できる途を探るべきべきだと思います。
