男はつらいよ-ハ地区の進撃(7)


チュンドゥ寺
空撮後、ゾング家の裏手にあるチュンドゥ寺を訪れた。昨日述べたように、チュンドゥは村の守護神である。ポン教の悪霊が仏教(瞑想)によって浄化されデイティとなった。その守護神を祀る村の大寺が、2015年4月25日のネパール大地震(M8)で大きく損傷した。ネパール大地震の影響はブータン各地に及んでおり、ティンプーのワンディツェ寺の修復事業やツァリゥ寺の整備も大地震の被害と不可分に関係しているという。
チュンドゥ寺の修復に国の補助金は投入されていない。ハーテ(Haatey)村の村人の寄進だけで、今年2月から修復が始まった。ガイドのウタムさんによると、ハ地区には裕福な人が多く、パロやティンプーで事業に成功している人もいる。そういう人たちが多く寄進したにだろう、とのこと。修復工事の棟梁シガさん(60)はプナカ城などで大工の腕を磨いた。ワンディツェ寺と同様、ここでも古材を再利用しようとしていない。ワンディツェの場合は古材を保管し、将来的には展示しようという計画があったようだが、チュンドゥにはそれらしき古材もみあたらず、仏像・仏画・仏具は平屋のジムカン(長屋)に移して仮の本堂としていた。


軽く意見を述べてみた。「日本では、古材の使える部分は残して新材と融合するようにする。そうすることで、文化財の価値を保てるという考えがあるのですが、ブータンではしないのですか」と。シガさんは真面目に答える。「そういうことも考えたのだけど、経費の関係で難しい、ということになり、すべて新材に変えることにしたんだ」。それで、議論は終わり。ブータンにある僧院本堂のほとんどが200~300年前に建てられたものばかりで、一様に劣化が進み、耐久性の危惧が案じられている。古材を使いつつ修復する技術を持ち合わせていない点から新材を多用する方向性になっているとのことであった。
ブータンは一国まるごと世界遺産になってもおかしくないほど自然資産・文化資産に恵まれているが、これだけ古寺の新装再建が進んでいる姿をみると少々心配になる。ただ、ブータンは未だ「近代」という時代枠に達していない、とも考えられるので、つまり、江戸時代のような社会なので、再建という行為そのものに歴史的・文化的価値があると評価できるかもしれない。
本堂は正方形で宝形造の平屋に小さな楼閣を2段立ちあげる。近隣の宮殿ウチ型高層建物ではなく、むしろパロのキチュラカン本堂に似た形式である点には注意すべきであろう。仮本堂となった長屋には二つの部屋があり、奥にグル・リンポチェやサブドゥル・ナムワン・ナムキュル、十一面観音など本堂で祀っていた仏像を置き、手前の部屋に村の守護神チュンドゥが厨子の中におさめられていた。




黒い僧院-ラカン・ナグポ
午後からはラカン・ナグポという僧院を訪れた。ナグポは「黒い」という意味であり、たしかに本堂の外壁を黒く塗る。これまで瞑想施設ドラフの壁を黒く塗る例はいくつもみてきたが、本堂の壁が黒いのははじめてみた。ドゥク派の僧院で、建立年代はおそらく17世紀以降。僧侶は現在二人しかいない。道場というよりも村の鎮守のような存在であり、夕方、多くの村人が参拝にきていた。本尊は弥勒菩薩(ゾンカ語:Jowo Jampa)。グルやサブドゥル、四天王の像も併祀し、壁画にはチェギ・ゲップというチベット仏教の王様?に相当する人物も描かれていた。また、ドラドチェンというこの地の守護神も祀っている。論理はチュンドゥと同じである。ドラドチェンは村の守護神である。ポン教の悪霊が仏教(瞑想)によって浄化され護法尊となったのだ。こういう僧院は川に近接する場合が多い。ラカン・ナグポの場合、前方が河流の三叉路になっている。三叉路の周辺で洪水が頻発したのかもしれない。洪水を引き起こすのが悪霊であり、そうした悪霊を浄化するために黒い僧院を建てたのだろうか。
また、本堂の背後には「ツォメンの池」と称する井戸館がある。ツォメンとは、ブータン神話に登場する「上半身は人間、下半身は蛇の姿をした妖怪」である。蛇は地下を象徴し、水を司る神霊とされる。ツォメンの神話は中央ブータンのワォンディボタン県が発祥といわれている。


河原の石風呂
夕方、石風呂ドツォに入った。民宿前の川岸に小さな小屋があり、帰宅時には準備万端整っていた。寅さんのTシャツに着替えた先生はキンレイに導かれてシングル風呂、遅れて向かった学生2名はツィン風呂へ。シングルとツィンの間に焼け石を放り込む槽がある。河原で焼いた人頭大の石をここに放り込んでいく。この焼け石からにじみ出てくるアルカリ成分が毛穴に染み込んで汚れを芯から体外に排出する。だから石鹸などはいっさい使わない。さらに、この日はヨモギの葉が大量に湯に浮いていた。ヨモギはケンプという。皮膚に良い薬草だとされる。こうした薬湯に半時間ばかり浸かる。苦しくなったら、いったん湯から出て体を冷やし、また湯に浸かる。値段は一人1200ヌル(1500円ぐらい)と高いが、薬効は高く、先生は頻尿が治ったと仰っていた。


版築壁の起源と拡散
石風呂の後、ロビーでビールを飲んでいると、日本人4名ご一行が到着。しばらくして、食堂におりると、なんと先生の同業者の方たちであった。「版築の民家の研究」が目的だそうである。前日、版築の民家を調査したばかりで、先生は「ブータンの版築はいつまで遡るんですか」と質問されていた。「タントン・ゲルポの時代(14世紀)まではまぁ確実に」と一人の方が返答された。先生は、昨年アムド地域(中国青海省)を踏査されたあたりから「版築の道」についても考察されていたようで、仮説を披露された。以下のような伝播のプロセスである。
1)版築の起源は中国中原新石器時代の最終段階、龍山(ロンシャン)文化期まで遡る。
2)黄河源流域の青海(アムド)は黄河を媒介にして中原・華北・甘粛との結びつきが強く、仰韶(ヤンシャオ)文化が浸透している。その後の文化も龍山類似文化として捉えうるものである。したがって、どの段階においてか分からないが、中原方面からアムドに版築の技法が伝わった可能性は高いであろう。
3)現在、アムド地域には版築の民家が非常に多い。これは遊牧民が定住化した民家であり、遊牧民の「冬の家」の通年居住化の可能性がある。
4)アムドからチベット・ラサ方面に版築が拡散していった可能性がある。それがいつの時代かは分からないが、チベット仏教ゲルク派の伝導と関係あるかもしれない。ゲルク派の総本山はラサ近郊にあるが、ゲルク派の創始者ツォンカパ(1357 - 1419)はアムドの生まれで、母親が祀っていたストゥーパの近くにタール寺を開いた。タール寺は西寧の近郊に所在し、いまやアムド最大の寺院である。
5)要するに、おそらく版築は中原方面に起源し、それが黄河を経路として青海(アムド)まで伝播した。さらにそれが、ゲルク派の普及とともにラサ方面まで達した可能性がある。
6)中国型の版築は、チベットから南下した諸派がブータンにもたらした可能性が高い。
こういうお話をされたように記憶している。(くらのすけ15)