男はつらいよ-ハ地区の進撃(12)

キチュラカン
9月4日(日)。バンコク行きのフライトは午前を所望していたのですが、この日は午後の便しかない、ということで、半日ヒマができてしまいました。いろいろ考えたあげく、キチュラカンを参拝することにしました。キチュラカンはソンツェンガンポによる吐蕃建国時(7世紀)の創建と伝承されており、中央ブータンのジャンバラカンと並ぶ由緒正しき古刹です。すでに、先生は2回、ケントさんは1回、この古いラカンを訪問されているのですが、不思議なことに、いちばん古いとされる内陣・内々陣に入ったことがないそうです。前夜、書店で大型の図録『キチュラカン』(英文)を買ったこともあり、今度こそ内陣に入って本尊を拝み、木造建築部分を観察しようということになりました。

門をくぐると参道があり、五色布で彩られ、二人の女性が道を清掃していました。どうやら、翌日にプージャ(法要)を控えているようです。参道は短く、境内に入ると本堂を背面から望むことができます。正面にみえる三重の建物は新しく、右側近くにみえる平屋建切妻造の素朴な建物が古いのだとウタムさんは説明します。この平屋の部分にこれまで入ることができなかったのです(住職が留守で鍵がかかっていた)。新しいほうは第4代国王妃が30年前に建設プロジェクトを立ち上げ今に至ります。
永遠の蜜柑
中庭に入ると、古い本堂の前に蜜柑の樹が植えてあります。これは異様な風景です。蜜柑と林檎はそれぞれ寒暖の指標ともいうべき果物だからです。ブータンの場合、少なくとも標高2,000m以上の高地では、たしかに林檎園がたくさんありますが、蜜柑をみることはありません。教授の記憶でも、キチュラカン以外で蜜柑を目にしたことはないそうです。さらに、ウタムさんは「この樹には年中蜜柑の実が生っている」と言います。つまり、寒い冬でも、蜜柑の生る風景(↓)をみることができるわけです。


古い本堂の内陣はあいていました。そこにいくつかの仏像が鎮座していますが、さらに奥の内々陣の中央奥に本尊弥勒菩薩を祀っています。このたび調査した多くの僧院の本尊が弥勒菩薩であったことは、ひょっとするとキチュラカンの影響かもしれないと思いました。また、弥勒の左右には棚が2~3段で組まれており、数えられないほどの仏像が祀られているのを網戸越しに確認しました。内陣には十一面観音がいくつも祀られ、その手前にトルマを配しています。また、高僧が延々と跪いて祈り続けた足跡が床板にくぼみとして残っています。なお、柱配置は内陣・内々陣ともに2本柱形式です。
キチュラカンの内陣・内々陣は予想を超えて素晴らしいものでした。これまで参拝したどの僧院よりも壮麗かつ重厚だと先生も感心されてました。


↑古い本堂内陣の屋根(切妻造平屋建)

もうひとつ気になったのは、キチュラカンが建物の塗装装飾に群青色(インディゴ)を多用している点です。これまで見てきた僧院ではインディゴの印象は薄かったため、中庭に入って最初に違和感を覚えました。ウタムさんによれば、初代から3代の国王まで宮殿の装飾にインディゴを多用していた歴史があるとのことです。
平屋建本堂の年代観
今回の調査では、民家・僧院とも城(ゾン)の影響が強いことを知ることができました。とくに、城(宮殿)の高層楼閣ウチが民家・僧院に強い影響を与えています。しかし、キチュラカンの内陣および内々陣の部分は平屋になっています。これは楼閣式の本堂が成立する以前の古い形式であるとも考えられます。昨年の放射性炭素年代測定により、ソンツェンガンポゆかりのジャンバラカン(ブンタン)本堂内陣柱の最外年輪の年代は以下のような結果が得られました。
ジャンバラカン本堂内陣2本柱【AMS単体】
最外年輪年代(部位不明)・樹種不明
1526-1555 cal AD (16.3%)
1632-1666 cal AD (74.4%)
1784-1795 cal AD ( 4.7%)
ジャンバラカンの本堂内陣の柱材はおそらく1632年以降の伐採である可能性が高く、若干遡ったとしても1526年以降であることが判明したわけですが、上の状況からみて、平屋の屋根をもつジャンバラカンやキチュラカンなどの古刹の創建年代を16~17世紀以降とみなすのは拙速でしょう。多くの寺が「修理」という名の「(木部)再建」を進める傾向があることを考慮するならば、ジャンバラカンは16~17世紀以降の「再建」という見方が有力になるだろうと思われます。キチュラカン内陣・内々陣の部材の伐採年代がおおいに気になるところです。【完】 (くらのすけ15)

↑キチュラカン参拝後、機織りを見学した。いざり機が発展したような素朴な織り方。絵本「命の着物(1)」参照。

↑パロのコテージ前にて。左端はドライバーのジョンさん。とても親切な人でした。ブータンのドライバーに外れはありません。