男はつらいよ-ハ地区の進撃(9)


酔人ケンパ
9月2日(土)。住職が不在でもあり、ヒアリングの時間が短くなって、ジュムテン寺の調査は11時過ぎには終わった。先生やケントさんは、民宿に帰りたがっていた。昼食を民宿でもう一度、キンレイとの別れをもう一度、という思惑である。それをガイドはあっさりつっぱねた。わたしたちは首都ティンプーをめざしていた。途中、ハの街を経由する。ハの街は民宿と反対方向にあった。山からおりてT字路があり、ミニバンは躊躇することもなく、街の方向に折れていった。
ハの街でカップラーメンを2パック買った。計12個のトムヤンクン・ヌードルである。ブータンでトムヤンクン・ヌードルを食べるのをとても楽しみにしている。これも調査のルーティーンである。ただ、時間がまだ早いので、昼食は道中どこかでとることにした。
そこからが地獄である。ガイドのウタムさんが選択した帰り道は、景色は良いが、蛇行が激しい。往路がスキーの大回転とすれば、復路は回転である。ケントさんはまもなくぐったりして体を動かさなくなった。先生が心配して一時間ごろ停車し休憩をとる。先輩は車を下りるだけで精一杯、草地にへたりこむしかなかった(↑右)。そのまわりに蓬が群生していた。前夜の石風呂に混ぜてあったこの薬草をブータンではケンパといい、さっそくサンプルを採取した。
再び乗車するまで半時間はかかっただろう。そこからまた回転ドライブの連続で40~50分走り、ようやく小さな街にでた。食堂に入る。カップラーメンだけではもちろん許してもらえないので、モーモ(蒸餃子)を注文し、唐辛子の天ぷらも食べた(そこでぼくと先輩は熱い口づけを交わしたのです)。ところで、先生は「餃子と版築」の関係について考察をめぐらしておられた。餃子もまた、中原→アムド→ラサ→ブータンという伝播経路を想定しうるという。

瞑想洞穴ジャンカネ
トムヤンクン・ヌードルと唐辛子の激辛が先輩の体を浄化したらしく、わりあいすんなりと車に戻られた。そこからまた回転ドライブが続いたのだが、まもなくガイドは車を停めた。崖の上に瞑想洞穴がみえたからだ(↑)。たしかに、正面の崖の上に洞穴があり、石積みの壁などが残っている。ティンプー西郊のツァリゥ寺の山上に残るドラフの遺跡によく似ているが、こうして遺跡化したのは2015年4月の大地震以後のことだという。それは「ジャンカネ」という固有名称をもつ有名な瞑想場であった。昼食をとった街の近くにジャンチュチョリンという僧院があるのだが、ジャンカネは特定の僧院に付属する瞑想場ではない。悪霊の浄化を付近の住民により依頼され、高僧がここで瞑想をしたと言われる。あたりを見渡せば、道路の右肩には深い渓流が流れ、うねっている。やはり洪水が関係あるのかもしれないと思った。


ちょうど一人の老人が通りかかり、いろいろお話をうかがうことができた。しばらく歩いていると、こんどは岩陰が何ヶ所かあり、その裏側には洞窟もあるようだ。洞窟につながる空気抜き兼灯り取りの穴が設けられている。また、瞑想中に水分補給するための水場(わき水)もあった。これらすべてが瞑想場である。いまは蛇などを恐れて、人々は近づかなくなっている。あり、ここでも瞑想修行がおこなわれていた伝承があります。


ドゥブジラカン-城から僧院へ
山道の蛇行は少しずつ径を大きくしていった。カーブは回転から大回転に変化していき、それとともにケント先輩の体調も回復していった。ハ地区からパロ地区に入る直前、有名なドゥブジゾン(城)が遠方にみえた。深い深い渓谷に3方を囲まれた自然の要害であり、いまはラカン(僧院)として使われている。ラカンとなるにあたって囲壁の位置を変えている。高層の楼閣ウチはゾンの時代には囲壁の中心に位置していた。いま囲壁はウチの左右に取り付く格好になっており、ウチが門のようにみえる(門ではない)。
ゾン(城)がラカン(僧院)に変化していくパターンは定型化している。今回の調査では、ティンプーのワンディツェ寺が類例と言える。この史的理解はとても重要なものだ。サブドル・ナマン・ナムキュルが17世紀前半に全土を制圧して天下一統をなしとげる以前から、諸地域に城が存在した。日本の戦国時代のようなものである。それがサブドルによる統一後、再編成されていく。日本いえば、「一国一城令」とか「廃藩置県」にあたる制度改革が実行される。一つの地区に城(地方政府)は一つだけとなるが、他の城は廃城ではなく、僧院に機能を変えていくのである。
これは建築史的にも重要な問題である。本来、瞑想修行の道場であった僧院に高層楼閣(ウチ)型の本堂が持ち込まれる。それ以前に本堂が存在したか否かは宗派や寺格により異なるところもあるだろうが、ウチ形式の重層本堂の誕生については、ゾンの継承、あるいはゾンの影響を考慮しないわけにはいかないだろう。

