縄文-建築考古学、再び(1)


西鹿田中島遺跡
喋りたがりのわたしがほぼ沈黙を保ってきた仕事があります。一昨年より群馬県みどり市の西鹿田中島遺跡の整備に係わってきたのですが、なにぶん復元住居は最近カゼアタリがきつい。少なくとも10年はもたせろ、というお上からお達しがあったそうです。お上のお達しに地方は弱いのね。わたし自身、たしかにあちこちの遺跡整備で土屋根住居を腐らせてきたわけですが(山田上ノ台で防水処理は完璧になりましたが)、今回は縄文草創期の毛皮屋根の住居を提案したものだから、さらにカゼアタリが強くなった。ついに市側は国からの補助金ではなく、市の単費でこれを建設することに決めたのです。が、わたしは疑心暗鬼に陥っておりました。市は復元住居を建てないつもりではないか?

西鹿田中島遺跡の整備では、4棟の竪穴住居跡が地上表現されることになっているが、屋根などの上部構造まで復元するのは11号住居跡のみである。11号の平面は正円に近い楕円形で、長軸約3.8m、短軸約3.2mを測る。遺構検出面は旧地表面に近いと推定され、竪穴の深さは15~20㎝程度。穴底は平坦面が少なく、皿状にくぼんでいる。柱穴とおぼしきピットはみつかっていない。時代は定住開始期である。くぼんだ楕円形の住居跡を、旧石器(岩宿)時代の遊動社会から縄文時代の定住社会へ移行する過渡的な状況を示すものととらえ、浅い竪穴の上にテントをかけることにした。
こういう素朴な平面の構造復元は難しい。完全な正円なら三脚もしくは四脚の典型的な円錐形テント構造でよいのだが、長軸と短軸が60㎝しかちがわない楕円形の屋根をどうすべきか。この問題を考えるため、2015年の正月早々、東京人形町のウッドサークル社(WC)で復元構造を検討した。もう少し長軸が長いと三脚をふたつおいて棟木をかける構造に復元できるのだが、これだけ正円に近いと、三脚が相互にぶつかりあう。そこで、大きな三脚と小さな三脚を複合させることにした。言葉で表現するのは難しいので、上の図をご覧いただきたい。


なめし革
屋根葺き材の考え方について述べておく。北方の狩猟採集民は、夏のテントは白樺などの樹皮マット、冬のテントは鹿の毛皮を骨組に巻き付ける。西鹿田中島の復元では、両者を併用することにした。それは学術的に意義あってのことではない。復元住居のメンテナンスのためである。まず垂木の外側に樹皮マットを巻き付け、それに通風機能のある防水シート(たぶんデュポンのシート)を被せる。さらにその上から毛皮を巻くのである。こうすると、外側からは毛皮葺きにみえ、内側からは樹皮マット葺きにみえる。そして、中間の防水シートにより、雨水を排除できる。
WC社が上図を作成した段階では、乾燥させた鹿の毛皮をそのまま使うことにしていたが、委員会で鞣し革にするほうがよいということになった。西鹿谷という地名から想像されるように、鹿の毛皮はかなり獲れる。問題はその毛抜き、すなわち鞣しである。みどり市の我が舎弟は、今春より毛皮を明礬の液にひたして毛を抜く鞣しの作業を続けてきた。ざっと50枚を鞣し終えた。しかし、復元住居にはもっと多くの鞣し革が必要なのだという。


9月9日(金)、岩宿博物館の敷地内で11号住居の実験的建設が始まった。原寸ではない。平面を遺構の2/3として架構を組む。平面を2/3に縮小すると、面積は二乗で4/9、体積は三乗で8/27となる。つまり、結構おおきめの模型を制作するということだ。材料は8日午前のうちに作業員さんが近くの山でミズナラ、イヌシデ、エゴノキなどを伐採された(↓)。当日は午後から台風の影響で雨が強くなった。わたしが岩宿博物館についたのは夕方のことである。エゴノキ以外の材種についは、じつはみな不案内であった。推定ミズナラ、推定イヌシデである。

まず大きなほうの三脚を組む。建物の構造であり、堅牢なミズナラ、イヌシデを使う。設計図の2/3の長さでこれらの材をカットする。もちろん上端をY字状の股木とする。 【続】

↑構造材の採寸・カット ↓股木
