車井戸矢板の年輪サンプル採取


鳥取城の整備と第40次調査
11月16日(水)。鳥取城跡第40次発掘調査地で、車井戸の年輪年代測定サンプル採取を行いました。鳥取市では、平成30年代前半の完成を目指し、鳥取城のメインルートにあたる大手登城路の復元整備計画を構想しており、毎年その事前発掘調査をおこなっています。整備計画では、登城路上にある擬宝珠橋、正面玄関にあたる中ノ門、本丸への入口となる太鼓御門を復元(再建)し、石垣や塀を含めて江戸時代末の景観に復元する予定です。擬宝珠橋は、コンクリート造から木造に復元するそうです。鳥取県民としては鳥取城も復元してもらえると、花見の季節に見栄えしてうれしいなと思ますが、ご存じのように、わたしたちの先生は「反復元」の代表格だそうです。


今回サンプルを採取した車井戸は、藩主の飲用等に使われていた城内各所の井戸の中でもとりわけ重要なものでした。当時は地面を掘れば水は湧いていましたが、鉄分が多く混じっているため、飲用水として使える場所は限られていたそうです。そのため、茶道などに使われた御前井と、御用水(藩主飲用等)の車井戸は最重要の井戸であったと言われています。絵図をみると、車井戸には瓦葺きの覆屋が設けられ、その名の通り滑車を備え付けていました。御前井同様、石組井戸枠と発掘前は推定されていましたが、今回の調査の結果、木製の桶が三段重ねされた大型井戸であることが分かりました。また、明治時代になると、陸軍が井戸に直接水道管を挿し、取水している記録が残っています。

↑岡嶋正義が文政12(1829)年に著した『鳥府志』に描く2つの井戸


矢板の年輪サンプル採取
11月8日に鳥取城整備の全体委員会が開催され、そこで先生が井戸の掘削年代を知るてがかりとして、出土した矢板部材を対象に科学的年代測定をしてみてはどうか、という意見をだされたそうです。通常、放射性炭素年代測定は江戸時代後半になると、複数の年代候補が信頼性20~30%で出る傾向があるので、使うべきかどうか難しいのですが、昨年の大雲院本堂の測定結果は衝撃的でした。2σ暦年代範囲で以下の測定結果を示しています。
大雲院 内陣入側柱【ウィグルマッチング】辺材型・スギ
1670-1686 cal AD (信頼限界95.4%)
辺材型で1670-1686年ということであれば、伐採年代は1700~1710年ころと想定され、棟札に書かれた享保六年(1721)の完成年代とみごとに整合する。この成果を評価するならば、井戸の掘削年代が1700年前後であるとすれば、矢板を年代測定する価値はあると考えられたのです。矢板列の木材には長所と短所があります、長所はなにより樹皮の年輪を残していることです。一方、短所は年輪数が多くても30年輪にとどまるため、ウィグルマッチ(3点計測)は不可能であり、一般的には外側の樹皮を対象とした1点計測のAMS法で測定するのですが、今回は確度を高めるため、いちばん内側といちばん外側のふたつの年輪サンプルを採取することにしました。なお、サンプル採取ヶ所は矢板番付のうち、サンプル№02、№14、№17、№34、№39の5ヶ所です。


3年生は発掘現場に下りるのも初めてなら、年輪サンプルの採取も初めてです。ケントさんの実演を見よう見まねでサンプル採取に取り組みました。年輪が詰まっている矢板を探して、二人一組で採取に臨みます。まずラベルを書いて、対象の矢板を撮影し、マチ針で年輪を5年輪ずつプロットしたました。そして、カッターと彫刻刀を用いて内側と外側の一年輪分のサンプルを採取しました。最後に、採取した部分とラベルを撮影し、サンプルをアルミホイルにくるみ、ジッパー付ビニール袋に収めて作業が終わりました。
矢板は湿っていて、サンプルの採取はやりにくかったです。また、目が詰まって細かいので、1年輪だけ採取するのが大変でした。初めて年輪採取をしてみて、文化財の軽微な破壊に関わっていることを実感し、緊張しました。これからサンプル採取する機会が増えるので、この緊張感を忘れず今後も挑みたいと思います。(ぱでぃ)

↑№17

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