落葉-板井原その後(1)


ストロー化現象
11月23日(水)。勤労感謝の日に智頭町の県選定伝統的建造物群保存地区「板井原」を4年生以上で訪れました。研究室として最後に板井原を訪問したのは、2012年11月中旬のことです。そのときの記録の題目が「落葉」です。
板井原は平家の落人集落伝説をもつ山里としてよく知られています。いわゆる秘境の一つですが、昭和42年に開通した板井原トンネルによって智頭町市街地への移動が容易となり、常住地を平地に移して板井原に通われる方が増加し過疎が一気に進行しました。私の脳裏には新幹線開業により大都市への移住が進行し、沿線地域の過疎化をもたらす「ストロー化現象」がよぎりました。
屋根の近代化
板井原は昭和40年ころまで、養蚕と炭焼きと焼畑と藍染めを主な生業にして暮らしていました。いまはスギの林業が最も重要な産業のように思われます。民家は2階が高い高2階型ですが、これは2階で養蚕をするためです。低地でみられる2階建と比べて、あきらかに2階は高いです。ただし、もとは平屋の茅葺き民家であったとも言われています。養蚕が発展するにつれ、茅葺き民家では屋根裏で作業がしにくいため、茅葺き屋根を高2階に改造していきました。屋根材は木片葺きからトタン葺きに変化し、最近では県・町の補助により雪の落下防止のためのストッパー付の鉄板葺きに代わっています。4年ぶりに再訪され教授もこの変化には驚いておられました。

炭焼きと水車小屋
炭焼きはかつて当地域では最大の収入源であり、良質な炭を作っていたが、昭和30年に衰退してしまいました。しかし平成15年(2003年)に智頭町などの助成で窯を復活させたものの、本日見た限り、現在では使用されていないのかもしれません。窯の近くに建てられた水車小屋も、水車に水を引き込む樋がこわれておりこちらも使用されていません。使われていない2つの建物を見て虚しさを感じずにはいられませんでした。


↑(左)集落唯一の茅葺き民家「藤原家住宅」 (右)股木を利用した腕木 ↓水車小屋と炭焼き窯




こうこと名水
すでに述べたように、板井原では昭和40年ころまで焼畑をおこなっていました。その焼畑地は現在ではスギの植林地に変わっています。焼畑は行われていないものの、大根や藍の栽培は継続されています。この地域で作られた大根は土がついたまま乾燥させ糖漬けにした「板井原こうご」は妹尾河童の『河童のタクアンかじり歩き』 (文春文庫・1992)でも紹介されています。また、この地区を流れる赤波川源流域の水は飲用可能であることが5年ごとの環境測定によって保証されています。ケントさんはペットボトルを2本持参しており、わたしが水汲みの大役を担いました。


Go for Broke, Again !
残念なことですが、板井原はすでに「限界集落」を通り越して「廃村」寸前の状態にあると言わざるをえません。いまでは日夜、この村に定住するのは1世帯1名になってしまいました。智頭の町に住みながら板井原の畑仕事に通う半定住者はまだ少なくありませんが、その数も減ってきています。報告書『文化的景観の解釈と応用による地域保全手法の検討 -伝統的建造物群および史跡・名勝・天然記念物との相補性をめぐって-』が刊行された2010年以前では、まだ数世帯から五右衛門風呂の煙が立ち上っていましたが、いまは煙をみることがまれになっています。屋根だけは近代化していますが、実際は空き家も多く、人が住まなくなった住居の劣化が著しく進行していました。
先生は何度も「15年前に重伝建になっていれば状況はちがった」と嘆息されていました。最近選定された重伝建と比較するならば、板井原は決して劣っているわけではないと仰います。また、稲作をおこなわない山里の養蚕型高2階民家も文化財価値を再評価すべきだということです。まだ遅くない。板井原はもういちど「重要伝統的建造物群保存地区」あるいは「重要文化的景観」への申請に再チャレンジすべきではないでしょうか。
あたって砕けろ、もう一度!

