マンダリン・マカオ(2)

鄭観応と鄭家大屋
鄭観応は清末~民国初の思想家・実業家である。広東省香山に生まれる(現在の中山市)。幼少期、童試(科挙の受験資格である国立学校の学生になるための試験)に失敗した後、父親の薦めもあり上海で商売と英語を学ぶ。1880年、洋務運動を推進した李鴻章より上海機器職布局と上海電報局の総裁に任命され、1883年には輪船招商局の総裁に昇進したが、翌年辞任。いったんマカオに隠棲するも、1891年に開平煤砿局総裁に抜擢され、翌年には輪船招商局総裁に返り咲いた。


鄭家大屋はマカオ隠棲期(1884-)の住まいであり、建立年代を上の論文では1881年ころとするが、屋内展示パネルによると、様式上1869年以前に遡るとのこと。マカオに残る最古最大の中国式住宅で、総面積は4000㎡、奥行120m、部屋数60以上に及ぶ。最盛期には居住者300人を超えたという。トオリニワが極端に大きくなったような幅広の通路が敷地の片側を貫く。これを「轎道」という。轎道の片側に接して2階建の居住ブロックが縦に何列も並ぶ。ブロックとブロックの間に小路(巷)を通すところもあり(↑)、住宅が都市の圧縮のような趣きがある。あるいは、住まいに都市を埋め込んでいるという言い方のほうがよいかもしれない。


各ブロックには必ず中庭を伴う。廬家のように天井(てんせい)式の場合もあるが、むしろ北方四合院の院子(ユアンヅ)、すなわち大型の中庭を多用している。ステンドグラスは目立たないが、壁を白亜に塗って一部の窓にはアーチを設け、2階に石柱を並べる。あきらかにコロニアル・スタイルであり、異国情緒が溢れている。西洋もしくはインドの影響とみることができるだろう。小屋組は南方的な穿斗式ではなく、北方的な擡梁式とする(↑右)。

↓↑アーチ式の窓
