仏陀-水とペチカとパリンカと(2)

ここで吉田健人君のことを少々述べさせていただこう。吉田君は私学時代の建築・環境デザイン学科最後の入学生の一人であり、2年前に大学院修士課程に進学して同科最後の在校生となった。わたしが本気で建築を教えた最後の学生でもある。学部2年後期(2012)からゼミに在籍し、手始めに摩尼山のルートマップを作成した(今も門前茶屋で配布されている)。3年からはブータン調査に参加し、卒論は「フィールドワークに基づくブータン洞穴僧院の基礎的考察」に取り組んだ。当人は倉吉の長谷寺などで調査を積み重ねていたので、日本の社寺建築で論文を書くことを望んだが、その場合、2年先輩にあたる中島俊博君の修士論文との重複が大きくなる。結構な時間を割いて、ブータンの論文に切り替えるよう説得した。幸か不幸か、吉田君の卒論は建築・環境デザイン学科最終年度(2014)の学科賞金賞を受賞し、以来、ブータン調査に不可欠の存在に成長していく。結果として、かれは第2次(2012)から第4次(2016)に至る4度のブータン調査すべてに係わった。

ブータン以外でも、2015年9月には中国青海省(アムド)のチベット仏教寺院と遊牧民の予備調査に同行した。わたしと二人の修行の旅であった。昼のフィールドワークに加え、毎夜、かれの卒論の大改訂に取り組み、大学の紀要に投稿しようとしていたのである。吉田君は実測作図能力に優れ、仕事のスピードも速く、総合的にみれば能力の高い学生なのだが、唯一の弱点は文章表現力であった。卒論文章の校正はとても骨の折れる仕事であり、わたしも大変だが、指導を受ける側がきついのは言うまでもない。
そして、このたび4年半におよぶ研究室活動への貢献に感謝し慰労するために、スロバキア・ハンガリーの町並みと木造建築(大半は世界遺産)をめぐるツアーを企画し、同行してもらった。


ブラチスラバの中世都市と城郭、フロンセクの純木造教会(17世紀)、バンスカ・ビストリッツアァとバンスカ・シュテアヴニツァの鉱山都市の町並み、ホーロッケーの農村、ブダペストの町並みなど、どれもこれもが刺激的な歴史遺産である。その前提として風土がなにげに山陰地方と似ている。雪深い丘陵地域であり、小麦など穀物栽培に向いているとはいえないので、洋梨・林檎・プルーン・アプリコットなどの果実栽培、豚・牛・羊などの飼育が盛んである。これらの果実を活かして、土地の人びとは果実酒をつくる。ワインのような醸造酒ではなく、グラッパのような蒸留酒である。芋や麦を材料とするのではなく、果実そのものを蒸留してスピリッツ(焼酎)を生産するのだ。日本の場合、果実酒は、果実と氷砂糖を焼酎につけ込んだ甘い酒だが、果実そのものを蒸留する東欧の果実酒は甘みがほんのりと芳ばしく残る程度で、甘すぎることは決してない。普通のウォッカよりも優雅な香りと味がする。ハンガリーではこういう果実焼酎をパリンカといい、おしゃれな瓶にいれて結構な値段で売っている。


定年退職した男性は別荘兼用の蒸留蔵を構え、そこでの酒造りを晩年の生き甲斐とする。酒造りにはみな一家言をもっている。玄人はだしの蘊蓄である。バンスカ・ビストリッツアァに近いセベチェレビィ村の酒蔵を訪れ、客間で試飲させていただいた。試飲はたちまち宴会に格上げされる。わたしたちのホストはカストロ元首相によく似ていた。饒舌なカストロさんは銀色の顎髭をなでながら、アルコール度数52度の洋梨パリンカを次々飲み干し、わたしたちのグラスにも注いでくる。酒のアテは皿盛りのチーズとハム。もちろんお手製である。こいつぁとても敵わないと即断したわたしは、吉田君に日本代表の座を委ねることにした。かれは酒が強いので、顔色が変わらない。洋梨パリンカを5杯以上飲んだだろう。その後は半ば意識を失い、車中で風景を楽しむこともなく、ひたすら酔眠を貪った。

*図9 世界文化遺産「バンスカ・シュテアヴニツァ」(1993登録)。
スロバキア最古の鉱山都市(銀山)
図10 世界文化遺産「ホーロッケー」(前出、ハンガリー)の民家レストランにて
図11・12 世界文化遺産「ホーロッケー」のパローツ様式民家
図13・14 セベチェレビィ村(スロバキア)の別荘兼酒蔵でのもてなし
図15 蒸留機?

鳥取は梨の産地であり、すでに梨ワインの醸造に取り組んでいるが、甘すぎるからか、必ずしも高い評価を得ているわけではなかろう。実際に味わってみて、梨酒は蒸留酒パリンカにしたほうがはるかに上品で良い味がすると思った。家内の実家一族が佐治で梨園を経営しており、毎年クズ梨がたくさんでるので、それを使って梨パリンカの蒸留製造ができないものか、いちど話し合ってみようと思い、洋梨のパリンカを買い込んで帰国したところである。そういえば最近、佐治でもプルーンを栽培しているので、プルーンのパリンカ(小瓶)も買ってきた。
昼間から酔っ払って極楽にいる吉田君ではあるけれども、夜中にはまた地獄に突き落とされる。本報告の過半を占める修論「乾向山東隆寺大雲院の建築遺産に関する研究-仏堂・厨子の特質と指図の復元-」の改訂が毎夜の日課となったからである。結果として回顧するならば、青海での卒論校閲をはるかに上回る苦行の旅となった。最後のほうはふてくされているようにさえみえたが、修行の結果として生まれたのが報告書(近刊)第Ⅱ部である。

こうして不満たらたらと校正を続けているわたしではあるけれども、吉田なき後のゼミ活動を考えると頭が痛くなる。この4年間、中島-吉田という建築専攻の修士課程学生が番頭を務めてくれたからこそ、多くの業績を世に送り出すことができた。そのことを百も承知しているからである。ひょっとすると、2016年度で研究室の活動は事実上終焉を迎えるのかもしれない。そういう怖れをひしひしと感じている。しかしながら、武田君や木村君の書き上げた美術史系の卒論は、わたしの指導力の範囲を超えたレベルに達している。今後もこうした建築系以外の卒論が学生の自主性にしたがって醸成され、紡ぎ上げられることで報告書になっていくことを秘かに願っている。


ちなみに、オーストリア・ハンガリー二重帝国の副都ブダペストは、帝都ウィーンに比肩しうる壮大な歴史都市であり、高層の様式建築が軒を連ねる町並みは圧巻というほかない。わたしや吉田君には似つかわしくないメガシティである。さして書き留めておきたいこともないのだが、地名の由来には少々驚いた。ブダペストとはスラブ語の水(ブダ)とカマド(ペスト=ペーチカ)の複合語である。水と火(カマド)が人間生活の根源だと認識される点は中国の陰陽五行にも通じるところがあるけれども、ブダ(水)の音声が仏陀と聞こえるところもなにやら因縁めいている。それは冗談として、パリンカをつくるには良質の水が欠かせない。それをカマドの火で蒸留するのだ。自らの晩年の目標を梨パリンカの蒸留製造にむけることはできないか、と結構真剣に考えた。そんな東欧の旅であった。同行し、日本代表としてパリンカを飲んでくれた吉田君に深く感謝したい。
図16 セーチェーニ鎖橋
(世界文化遺産「ブダペストのドナウ河岸とブダ城地区およびアンドラーシ通り」)
図17 路面電車と世界遺産の町並み(ブダペスト)
図18・19 夜のブタペスト(レストラン)


↑ホーロッケー村民家のカマド(ぺチカ)


↑ホーロッケー村民家の寝室(左)とカマド(右)

↑↓ホーロッケー村の町並みと民家

