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座談会「遺跡整備とオーセンティシティ」(4)

図15長屋王邸の復元模型_15 図14


高すぎる大極殿の基壇と免震装置

 浅川  図14は2013年に竣工した第一次大極殿の復元建物です。平城遷都1300年祭の舞台として、セントクンが大活躍した施設としてよく知られています。構造形式は朱雀門と同じ二重入母屋造で、容積は朱雀門の2.5倍ぐらいあります。1/100模型(1993年完成)の前後から基本設計の途中(2000年)まで係わりました。基壇を再発掘したこともあり、基壇の復元を担当したんですが、階段を古代風の矩勾配(45°)にしようとするとずいぶん高くなります。そんなに長い羽目板の石を確保できないので、二重にしたんです。ところが、二重基壇は7世紀の様式だとずいぶんお叱りを受けました。今では反省してるんですが、この高ぁ~い基壇のおかげで、その内側に免震装置をおさめることができた(図15左下)。特別史跡/世界遺産の遺跡の上に巨大な免震装置を埋め込んでいる。ここまでして復元したいのか? あるいは、復元すべきなのか?? 
 大極殿の建物自体、相当な重量があるわけですが、免震装置でさらに重くなる。工学的なシミュレーションによると、こうした上部荷重はベタ基礎により遺構に影響を与えないという分析結果がでました。しかしながら、竣工後の遺構をみた者はいないですからね。建物を解体して遺構面を確認したらバギバギに割れているかもしれない。何百年か後、解体修理がおこなわれて、免震装置を差し替えるときがくるまで、遺構がどのように変形しているか、だれも確認できないわけです。
 司会  大極殿はリバーシブルではない?
 浅川  推定「宮内省」は何歩か譲ればリバーシブルだと言えないわけではないけれど、朱雀門と大極殿は何百歩譲ろうがリバーシブルではありませんね。半永久的な構造体によって、オーセンティックな遺構に蓋をしてしまった。全国的にみてもきわめて特殊な復元建物を文化庁(と奈文研)は世界遺産の上に建て、その事業はいまも継続しています。
 濱田  わたしは大極殿の風景に結構感動したほうなんですが、たとえば、学生さんの反応はどうなんでしょうか。  
 浅川  毎年「歴史遺産保全論」という講義で朱雀門と大極殿の話をします。考古学・建築史にはあまり興味のない理科系の学生がほとんどですが、講義内容に誘導されている部分がないとはいえないにしても、批判的な感想が多いですね。まず大極殿1棟に150億円もの経費を使っていることに驚きます。「税金の無駄使いじゃないか」という反応は必ずある。最近の学生は修学旅行などで平城宮を訪れた経験のある者が多く、そのときの記憶を辿りつつ、「どこか違和感があり、印象に残らない」「感動できない」「もういちど行きたいとは思わない」などの感想が過半を占めますね。


図16長屋王邸の復元模型_16 図15


復元の不確実性

 浅川  もうひとつの問題は、大極殿の遺構がほとんど残っていない、という現実です。基壇・階段の地覆石の痕跡以外なにもない。奈良時代後半に大極殿が東側に移り、当初位置には推定「西宮」などの再開発が繰り返されたばかりに旧基壇土はほぼ削りとられ、柱礎石の痕跡はすべて飛ばされています。ですから、多くの2次資料を使って平面と構造形式をなんとか復元した。藤原宮大極殿や大官大寺講堂に近似するであろう平面については、まだ許容の範囲であるとして、上屋を二重入母屋に復元できる確たる根拠はありません。
 図16は、3つの異なる大極殿の復元結果を比較できるようにしたものです。上は平城宮第一次大極殿院の復元模型。鈴木所長(当時)の指導の下、岡田先生のアドバイスを受けながら、奈文研の遺構調査室が復元しました。わたしは回廊と東西楼を担当しました。大極殿本体は二重入母屋造になっています。下左は大阪市教委が復元した後期難波宮(平城宮の副都)大極殿のCG。唐招提寺金堂スタイルの一重(平屋)寄棟造にしています。下右は伊東忠太が設計した平安神宮外拝殿。平安宮大極殿を3分の2の大きさに縮小したものです。同じ大極殿を主題としながら、このように、作者によって復元建物の意匠と構造は異なってしまいます。とりわけ、平城宮第一次大極殿院のように、遺構の痕跡が極端に少ない場合、どうにでも復元できますね。設計を担う人物の志向によって復元建物の姿は大きく左右される。




大極殿の構造的変化

 眞田  3つの復元案をみて、平安時代の大極殿が平屋、奈良時代当初の大極殿が二階建というのは不思議に思えます。両者反転の可能性はありませんか。
 浅川  構造形式が複雑→単純の方向で変化を遂げたことになるから、たしかにおかしい。『続日本紀』に大極殿を「重軒」と記す部分があります。だから、大極殿は2階建だとする推定があっていいわけですが、それは奈良時代後半の記載だから、第一次ではなく、第二次大極殿をさしているんですね。第一次大極殿は藤原宮からの移築説が有力で、『続日本紀』によると、恭仁宮に移築され、最後は山城国国分寺に施入される。規模は大きいですが、移築しやすい建物なんですから、二重ではなく、平屋の可能性が高いだろうと思っています。平面は真隅ではありません。桁行は17尺等間ですが、身舎梁間は18尺等間でして、唐招提寺の金堂ではなく、講堂にイメージが近い。だとすれば、平屋の寄棟ではなく、入母屋ではないか。平屋建入母屋造であるとすれば、平安神宮外拝殿の形式がそれにあたります。
 一方、平城還都後、東地区に建設された第二次大極殿は平面規模が第一次の2/3に縮小されますが、柱間寸法は桁行・梁行とも13尺等間になります。ここで寄棟の可能性が生まれる(入母屋でないとは言えません)。そして、第二次が「重軒」であるとすれば、二重寄棟か二重入母屋に復元できます。こうした奈良時代後半の姿が平安宮に受け継がれた可能性がある。つまり、「年中行事絵巻」に描かれた平安宮大極殿は二重寄棟もしくは二重入母屋であったのではないか。
 松尾   『口遊(くちずさみ)』の大屋誦が気になります。
 浅川  そうですね。平安中期の『口遊』に「雲太、和二、京三」と書いてあります。建物を大きさの順に並べると、一番が出雲大社(雲太)、2番目が東大寺大仏殿(和二)、3番目が平安宮大極殿(京三)だというわけですが、それだけ大きな大極殿が平屋であったとする伊東忠太説には納得できません。「重軒」すなわち二階建であったはずです。それに対して、解体移築しやすい平城宮第一次大極殿は平屋であったというのがわたしの考えです。
 司会  指導側のみなさんはどういう意見だったのでしょうか。  
 浅川  坪井さんは「平城(首都)は二重、難波(副都)は一重という序列があったんや」と委員会で強く主張されましたし、鈴木さんも大きい(高い)ものでなければいけないと思われていました。施工するゼネコンはもちろん大きいほうが儲かります。下っ端の主張する「平屋説」など、だれも相手にしてくれませんでした。 【続】


図17長屋王邸の復元模型_17 図16

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職員は復元という名の大規模な再開発に賛意をもって仕事していたわけではありません。反対意見のほうが多かったし、院政を敷くOBたちに反発を感じていました。すべては政治(政治家と行政)が押しつけてきたことです。国営公園については、私の卒業後のことですので詳しくはありませんが、「えらいことになった」という連絡をもらう一方で、「御前のところも国営公園にしてやろうか」と申し出る幹部もいました。連載は続けます。GW中に再開したいと思っています。よろしくお願いいたします。
プロフィール

魯班13世

Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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