縄文-建築考古学、再び(6)


西鹿田中島遺跡 復元住居現場原寸仮組
群馬県みどり市の岩宿に近い西鹿田中島遺跡(縄文草創期)の史跡整備事業は着々と進んでいる。6月23日(金)、今回は超底浅で無柱穴住居の現場仮組を指導した。昨年9月末の博物館敷地内の仮組は2/3スケールであったが、今回は遺構直上での原寸仮組であり、復元工事前の最重要工程に位置づけられる。なお、遺跡上でのなめし皮被覆はおこなわず(他の場所で実施)、骨組のみの展示となったが、木材の耐水性を高めるため防腐剤を注入するため、いったん完成した架構を解体して近畿の業者にすべての木材を持ちこむことになっている。


もちろん三脚の組み上げから始めたのだが、コナラ材を長目に伐採していて屋根勾配がきつくなりすぎたため、木材の下端を80センチ切り落として、頂部の股木をかみあわせた。ところが、股木のほうは短めであり、3材の接合に難があったので、少なくとも2材については股木の長いものにさしかえることにして仮組を進めた。平面が正円ではなく、わずかに長軸ながめの楕円形であるため、3脚に1脚加えて実質上四脚構造になる。この四脚めの斜材を前回は「長材」と呼んだ(↓)。そして2本の「短材」で「長材」を支える。結果、ここにも三脚構造が出現するので、楕円形平面に不規則なふたつの三脚が配されることになる。


作業は10時過ぎから始まり、一時間経ったあたりで、麻央さんの逝去が何気に知らされた。わたしにとって小林麻央とは「恋の空騒ぎ」である。恋からとは小林姉妹であり、あのころの映像を視たいのだが、youtubeでは削除されてしまったようだね。
現場で動揺がひろがるなか、WC社長だけは蚊帳の外で生存されており、しばらくして、「えっ、浅田真央亡くなったの?」とかなんとか宣って-麻央さんには申し訳ありませんが- 笑いの渦がひろがった。
さて、下はいつもの「出張証明写真」です。今回は史跡名を刻んだ石柱標識の値段が気になりましてね。訊けば140万円だったというので仰天。摩尼山でも登録記念物の標識を製作しなきゃいけないから再び動揺しました。ところが、帰鳥して会長にたずねると、「大御堂」では10万円だったというので胸をなで下ろした次第です。それにしても、この値段の差はなんなんだ!?

下は芝生道に使われていたローンガードナーという芝生保護材です。こういうのも、摩尼山の奥の院や立岩で使わなきゃいけなくなるのではと思い、撮影してきました。じつは、それだけ摩尼山の問題がせっぱ詰まり始めていたのです。それは口にするのもはばかられるほど重大事になり始めていて、わたしのメンタルを蝕んでいましたが、昨日(28日)夕刻、解決されたという知らせが2方向からあり、ストレスから解き放たれて、突発的にハッスルし眠りに落ちたのでした。



午後から垂木がけ。材料はエゴ。皮付きの黒木にして古めかしさを表現したいところだが、防腐剤含浸のため白木となった。黒龍江オロチョン族の円錐形テントでは、三脚だけでなく垂木も股木付にしており、昨年9月の仮組でもそうしたように記憶しているのだが、今回は八割以上が直材であり、2本ばかり股木が角のように飛び出した。この2本の股の部分は構造的に意味がなくとも残したほうがいい。股木構造のシンボルとして。


木舞材は前回同様、細いエゴである。しかし、当初から若干の疑問を抱いていた。テントに近似する皮葺き住居に木舞は必要なのであろうか。テントと同じ垂木のみでもよいかもしれない。少なくとも設計図で予定されている8段もの木舞は多すぎるように感じていた。エゴという材はとても柔軟性があり、円形・楕円形平面の住居の木舞材に相応しい。しかしながら、垂木にエゴを巻き付けたときの反力は相当なもので、前回の仮組復元では、土に差し込んでいた垂木を外側に跳ね上げたので、周堤で押さえ込んで垂木を原位置に戻した経験がある。


その反省をもとに、わたしはエゴをあまり長く使わないよう予め指示したのだが、WC社長は前回と同じく2.5スパン単位の長さとし、垂木位置と左右の木舞が相互に重なり合う位置で縄結びするよう指示した。まぁ、やらせてみるべ。前回結束バンドを使った接合部分はビニール紐の男結びとした。本番では麻縄(↓)を使うといい、直径10mmと6mmのサンプルをみせていただいた。6mmのほうが良いと思うが、縄文土器の縄目に似ているかどうか気になる。

午後4時半過ぎ、木舞は7段で完成した。偏見かもしれないが、円錐架構が外にひろがろうとする遠心力に充ち満ちていて、垂木の基礎となるピットに歪みが生じそうに思えた。個人的な感想を述べるなら、木舞は4段で十分だろう。4段で皮葺きできるし、反力をおおいに軽減できる。
股木と木舞に課題を感じた1日であった。




↑記念撮影