上方往来河原宿の調査(2)

旧鍛冶屋さんの調査
8月3日(木)。河原宿を再訪し、夏休みの課題として取り組む予定だった二軒の矩計図+立面図を作成しました。当初は町並み組のみで挑む予定でしたが、結局、四年全員での演習になりました。
元鍛冶屋さんだったS家は、矩計図をだっしょ君、立面図を私が担当しました。私は断面図を描いたことがないので、時間内に仕上げることができないと判断し、立面図の方に立候補しました。作業と同時に家主さんに詳しいお話をうかがいました。S家は、存命ならば今年93歳のおじいさんが子供の頃から建っていたそうです。とすれば、築後90年以上である可能性が高いですが、明治期でおさまるのか、幕末期まで遡るのかは不明です。袖壁が付いている左(南)側の建物は元米屋で停車のためセットバックしています。この建物と鍛冶屋さんのオモヤは廊下で繋がっているように見えます。以前は廊下で繋がっていたが、今は塞いでしまって繋がっていないとのことです。右(北)側の建物は元は洋服屋さんでした。

↑S家(左)と元洋服屋(右) ↓元米屋(S家の南隣)



格子の残るシモタヤ
1・2階に格子を残すM家は、矩計図をみひろさん、立面図をきびたろうさん、格子のディテールをOK君が担当しました。M家は上方往来の中で唯一格子が残る家なのですが、格子の細かさにきびたろうさんは苦戦していました。M家は明治33年(1900)の建立ですが、北隣の大型町家T家も同年の建築であることが世帯主からのヒアリングであきらかになりました。腕木の編年(明治後半)とぴたり合っています。二階が著しく高いので、先生は昭和戦前に茅葺きから高二階に改造されたものと思っておられましたが、二階も当初のままだそうで、建立当初は大きな町家ができたもんだと、近郷から見物客が押し寄せたという。


よく観察すると、軒を連ねるM家とT家の二階高jはほぼ同じであり、庇の奥行がT家のほうが長いためT家が高くみえることがわかりました。中二階としてはM家対面の学習塾(↑)がモダンに改造されているが、いちばん低く、建立年代はおそらくM家・T家より古くなると想像されます。
調査は一階のみと予定していましたが、家主さんのご厚意で二階も見せていただきました。南側に欄干があり、座敷飾りのある畳部屋もありました。暑い日だったので、蒸し風呂状態だったそうです。かっきーさんは両方のお宅の聞き取りを頑張ってくれました。


途中でS家の奥様から差し入れをいただき、休憩をはさみながらラストスパート!
朝10時半から作業を始めましたが、結局お昼ご飯をはさみ16時過ぎまでかかりました。散々作業のスピードが遅いと先生から指導を受けていましたが、本当に一日仕事になってしまったので返すお言葉がありません。

樋口神社
調査後、M家に近い樋口神社の境内を訪れました。近世初期、河原宿はこの神社の周辺から町が形成されていったと云われています。先生の見解では、樋口神社の本殿・拝殿は近代の建物のようですが、天保十一年(1840)の銘を刻む石灯籠があるので、神社自体が幕末まで遡るのは確実です。
その後、河原城にあがって、集落の全景を狙うのですが、潅木が成長していて邪魔になります。ついに、男子2人が肩車をして、霊石山・千代川・上方往来のすべてが収まる写真を撮影してくれました。調子にのってみひろさんものんちゃんを背負いました(→こちら)。
暑い中、皆さんお疲れ様でした。(ぱでぃ)


↑樋口神社拝殿 ↓本殿と石灯籠

