トンレサップに帰ろう(4)
訃報
8月25日夜、訃報を受信した。成都から西寧に飛び、そのまま車で日月峠と青海湖を経由して夜半に到着した都蘭での出来事である。高橋一学長が急逝されたのだ。自分でも想像していないほど衝撃を受けた。よく喧嘩した仲だが、大変お世話になったと素直に思っている。学長は数少ない私の理解者であり、支援者であった(と今にして思う)。どうしても弔電が打ちたい。しかし、第一報には葬儀の予定が決まっていないとある。とりあえず、同僚に弔電の代打をお願いしたが、本心はちがった。ラサで必ず弔電を打つ。
青海省の都蘭は標高3200mの高地にある。あたり一面は草原で、遊牧民がほぼ距離を同じくして分散しつつ宿営地を営み、そこで何千頭ものヤクと羊を放牧している。翌朝ゴルムドに向かうことになっていた。ゴルムドから青蔵鉄道に乗って車中泊し、ラサに着くのは2日後のことである。青蔵鉄道は標高4200~5300mの高原を往来する鉄道である。コンパートメントには酸素を吹き出すボンベ口が4ヶ所設けてあった。
27日の早朝、車中で目覚めると、日本からの客人はみな鎮痛な表情をしている。酸素不足による頭痛に悩まされ、食欲をなくしていたのだ。わたしは唯一例外的に食欲があり、何杯も粥のお代わりをした。すでに体が高地に順応し始めていたのである。ラサに着いて、後頭部に鈍痛を感じはしたが、他の日本人に比べればはるかに元気であり、なにより食欲が旺盛にあった。日本では制限している澱粉・糖類をラサでは貪りくらった。血糖値を上げないことには話にならないからである。ホテルはなかなか高級で、ワイファイの通信状況は良好であり、学長の葬儀は東京でおこなわれるという新たな報せを受信した。その夜、NTT東日本にアクセスし打電に成功した。「いまラサ(拉薩)の星空を仰ぎながら、極楽往生を祈るばかりです」などという文言を呟いていると、横で聴いていた会長が素っ気なく答える。
星は全然みえませんねぇ、楽しみにしてたんですが・・・
同日、ダライ・ラマ重体のニュースがネットを駆けめぐった。ダライ・ラマが逝去すれば、ラサは再び暴動の嵐となるだろう。帰国できなくなるかもしれない。そういう怖れをいだきながら、じつは、個人的には、ダライ・ラマはすでに亡くなっているような気がして仕方なかった。信玄急逝時の隠蔽工作のようなものである。中共の陰謀を阻止するためには、ダライ・ラマは永遠に生き続けなければならない。
朗報
こうした暗雲を覆い尽くすような朗報が出国直前にもたらされていた。母校のスーパー・グローバル・ハイスクール(SGH)の課題研究において、指導した「トンレサップ湖に学校をつくろう」プロジェクトが、校内評価の結果、優秀賞に輝いたという報せが届いていたのだ。とても嬉しかった。還暦の年に少しだけ母校に恩返しができたような気がしたのだ。嬉しかったから会長に何度も自慢した。
ブータンから帰国した9月下旬、課題担当教員と代表生徒1名の表敬訪問を受けた。その生徒は大学の建築学科を志望していると聞いて仰天。わたしのやっていることに興味をもったようだが、もちろん偏差値が高いので、近畿方面の有名大学の建築学科をめざしている。しかし、その女子生徒の話を聞いてみると、工学部建築学科より、旧生活科学系(いまは人間環境/環境デザイン系)のほうが似合っていると感じたので、大阪市大などの住居系を推薦した。そして、ぜんぶ落ちたら環境大の一般後期をうければいいよ、というと、本人は笑顔になったが、先生の表情は少々曇ったような気がした。頭が良いだけでなく、コミュニケーション力の高い逸材で、喉から手が出るほど欲しいと思ったが、偏差値が高すぎて、来てくれないでしょうね・・・
大学HPに掲載された以下の記事もあわせてお読みください。
浅川教授が指導した鳥取西高SGH課題が優秀賞を受賞しました
http://www.kankyo-u.ac.jp/tuesreport/2017nendo/20171002/
来春には、最優秀作・優秀作の正式な発表会が催されることになった。まことに結構なことだが、受験勉強に影響がでないことを祈っております。
8月25日夜、訃報を受信した。成都から西寧に飛び、そのまま車で日月峠と青海湖を経由して夜半に到着した都蘭での出来事である。高橋一学長が急逝されたのだ。自分でも想像していないほど衝撃を受けた。よく喧嘩した仲だが、大変お世話になったと素直に思っている。学長は数少ない私の理解者であり、支援者であった(と今にして思う)。どうしても弔電が打ちたい。しかし、第一報には葬儀の予定が決まっていないとある。とりあえず、同僚に弔電の代打をお願いしたが、本心はちがった。ラサで必ず弔電を打つ。
青海省の都蘭は標高3200mの高地にある。あたり一面は草原で、遊牧民がほぼ距離を同じくして分散しつつ宿営地を営み、そこで何千頭ものヤクと羊を放牧している。翌朝ゴルムドに向かうことになっていた。ゴルムドから青蔵鉄道に乗って車中泊し、ラサに着くのは2日後のことである。青蔵鉄道は標高4200~5300mの高原を往来する鉄道である。コンパートメントには酸素を吹き出すボンベ口が4ヶ所設けてあった。
27日の早朝、車中で目覚めると、日本からの客人はみな鎮痛な表情をしている。酸素不足による頭痛に悩まされ、食欲をなくしていたのだ。わたしは唯一例外的に食欲があり、何杯も粥のお代わりをした。すでに体が高地に順応し始めていたのである。ラサに着いて、後頭部に鈍痛を感じはしたが、他の日本人に比べればはるかに元気であり、なにより食欲が旺盛にあった。日本では制限している澱粉・糖類をラサでは貪りくらった。血糖値を上げないことには話にならないからである。ホテルはなかなか高級で、ワイファイの通信状況は良好であり、学長の葬儀は東京でおこなわれるという新たな報せを受信した。その夜、NTT東日本にアクセスし打電に成功した。「いまラサ(拉薩)の星空を仰ぎながら、極楽往生を祈るばかりです」などという文言を呟いていると、横で聴いていた会長が素っ気なく答える。
星は全然みえませんねぇ、楽しみにしてたんですが・・・
同日、ダライ・ラマ重体のニュースがネットを駆けめぐった。ダライ・ラマが逝去すれば、ラサは再び暴動の嵐となるだろう。帰国できなくなるかもしれない。そういう怖れをいだきながら、じつは、個人的には、ダライ・ラマはすでに亡くなっているような気がして仕方なかった。信玄急逝時の隠蔽工作のようなものである。中共の陰謀を阻止するためには、ダライ・ラマは永遠に生き続けなければならない。
朗報
こうした暗雲を覆い尽くすような朗報が出国直前にもたらされていた。母校のスーパー・グローバル・ハイスクール(SGH)の課題研究において、指導した「トンレサップ湖に学校をつくろう」プロジェクトが、校内評価の結果、優秀賞に輝いたという報せが届いていたのだ。とても嬉しかった。還暦の年に少しだけ母校に恩返しができたような気がしたのだ。嬉しかったから会長に何度も自慢した。
ブータンから帰国した9月下旬、課題担当教員と代表生徒1名の表敬訪問を受けた。その生徒は大学の建築学科を志望していると聞いて仰天。わたしのやっていることに興味をもったようだが、もちろん偏差値が高いので、近畿方面の有名大学の建築学科をめざしている。しかし、その女子生徒の話を聞いてみると、工学部建築学科より、旧生活科学系(いまは人間環境/環境デザイン系)のほうが似合っていると感じたので、大阪市大などの住居系を推薦した。そして、ぜんぶ落ちたら環境大の一般後期をうければいいよ、というと、本人は笑顔になったが、先生の表情は少々曇ったような気がした。頭が良いだけでなく、コミュニケーション力の高い逸材で、喉から手が出るほど欲しいと思ったが、偏差値が高すぎて、来てくれないでしょうね・・・
大学HPに掲載された以下の記事もあわせてお読みください。
浅川教授が指導した鳥取西高SGH課題が優秀賞を受賞しました
http://www.kankyo-u.ac.jp/tuesreport/2017nendo/20171002/
来春には、最優秀作・優秀作の正式な発表会が催されることになった。まことに結構なことだが、受験勉強に影響がでないことを祈っております。