登録記念物-摩尼山の歴史性と景観の回復(5)


賽の河原のファルスの意味
「奥の院」遺跡からさらに200mばかり山道を歩き続け、鷲ヶ峰の立岩に再会しました。このあたりの平場一帯を「賽の河原」とも呼びます。今回の調査内容は以下のとおりです。
①インパルス(測距・測角儀)で測り残した部分の補足測量
②立岩の全景、とくに背面側のドローン撮影
③賽の河原のレベル測量
④鐘楼跡の実測


3年生は今回初めての測量実習でした。まずは先生の指導の下に、③賽の河原のレベル測量をおこないました。ちなみに「賽の河原」とは、幼くして死んでしまった子どもたちが父母の供養のため石を積んで塔をつくる三途の河原です。鬼がそれを壊しにやってくるのですが、地蔵菩薩に救われて子どもはまた石を積む。賽の河原に沿って地蔵堂を配するゆえんですね。参考までに述べておくと、英語で賽の河原を Children's Limbo というそうです。子どもをはっきり示しているところが興味深い。Limboの意味は「辺土」。だから、 Children's Limbo とは「子どもの辺土」。天国にも地獄にも行けない子どもたちがいる排除された境界の場所です。一方、日本語の「賽」は、賽の神から来ている。賽の神もまた境界の神ですが、いわゆる道祖神ですから、ファルスと結びつく。ながく摩尼山につきあってきて、あの屹立した巨大木彫ファルスの意味がようやくわかりました。
それはそれとして、レベル測量のデータは等高線の作成のために使います。


3年生がレベルに苦闘している間、4年生は①インパルスの補足測量を進めており、レベル終了後に3年生もインパルスの測量に合流しました。午後4時を過ぎたあたりから雲行きが怪しくなってきましたが、風はさほど強くなく、だっしょ君は②ドローンの飛行に着手。きびたろうは④鐘楼跡の実測に作業を切り替えました。


↑インパルス補足データ ↓ドローンで撮影した立岩



鐘楼跡地の実測
鳥取市歴史博物館と県立博物館に、昭和戦前の鷲ヶ峰立岩周辺を写す古い絵葉書が残っています。その古写真の左手にみえる比較的大きな建物が地蔵堂(少し前まで閻魔堂と考えていた)、右側に平屋の鐘楼が写っています。この鐘楼は昭和18年(1943)の鳥取大地震で被災し、老朽化のため十数年ほど前に撤去されたそうです。現在は鐘楼の礎石が当初の位置に残っており、鐘楼の柱材・貫材などが礎石の上だとか立岩の脇に積まれています。
雨が迫ってきた4時半ころ、先生に命じられ、急ぎ鐘楼跡の平面図を実測しました。採寸は先生もサポートしてくださいました。鐘楼の礎石は一辺55センチ程度のほぼ正方形で、中央にダボ穴をあけています。柱の下面と礎石の上面をダボでつないでいたことが分かります。柱は角材で上下2段の貫で四本柱をつないでいたようです。卒論では、地蔵堂と鐘楼をあわせて復元したいと考えています。


4年生は鐘楼跡実測を進め、3年生はインパルス測量を終えて、ドローンの操作を教えてもらおうとしていた矢先、悲劇は起こりました。いきなり大雨が降り始め、全員撤収せざるを得ませんでした。登りよりさらに歩きづらくなった山道をときどき滑って転んだりしながら、必死に下りました。かなり大変でしたが、3年生にとってこの日は初めて使う機材の使い方を知れたり、美しい景色を見れたりしたので、収穫の多い一日となったと、ポジティブに思うこと にします。
雨が降ったのは、きっと誰かが五輪塔のかけらを蹴っとばしてしまったからなのでは…と勝手に思っています。【完】(あやかめ&きびたろう)

↑↓鐘楼跡
