ブッダが説いたこと(五)


今枝先生来鳥講演速報!
11月18日(土)、第3回仏ほっとけ会(ほとけほっとけえ)として今枝由郎先生(京都大学こころの未来研究センター特任教授)の講演会「ブッダが説いたこと」が県民ふれあい会館講義室で開催され、約80名の聴衆が来場ました。地元鳥取だけでなく、島根、広島、岡山、兵庫など県外からの参加者がかなり含まれています。
今枝先生は、まず池上彰の著書『仏教って何ですか』(飛鳥新社・2014)を取り上げられ、池上氏が日本の仏教を非常にネガティブで暗い宗教であるという先入観をもっていることを前提として述べられました。池上氏だけでなく、一般的な日本人も同様のイメージを抱いていると思われます。ところが、西欧の知識分子たちはむしろ仏教を非常にポジティブな知的財産としてとらえています。以下の3名を例にあげられました。
フリードリッヒ・ニーチェ (1844-1959)
仏教は歴史が我々に提示してくれる、唯一の真に実証科学的宗教である。
アルベール・アインシュタイン(1870-1955)
仏教は、近代科学と両立可能な唯一の宗教である。
アンドレ・ミゴ(1892-1967)
ブッダは、信仰を知性に、教義を真理に、神の啓示を人間の理性に置き換えた
最初のインド人である。

こうした日本(および中国?)と西欧の認識の異なりは、どこから来るのでしょうか。それは「お経」にあるのではないか、と先生は考えられたようです。若いころから、いろいろなお寺を訪ねて住職に訊ねる。「このお経の文章はどういう意味なのでしょうか」と。それに答えられる僧侶は一人としていない。それが日本(や中国)の実態なのです。ブッダが逝去してから今に至るまで長いながい時間が流れ、伝承としてのブッダの言葉は成文化し、注釈され、考察され、漢訳されて難解な経典に変わりました。難解になりすぎて遂には意味のとおらないものにまでなったしまったのです。だから、どんな高僧も、お経になにが書いてあるのか、分からない。

これに疑問を覚えた先生は、サンスクリット語やパーリア語で書かれた古代インドの仏典を自ら読みこみ、その意味を理解しようと考えられ、最古の仏典とされる『スッタニパータ』『ダンマパダ』を日常の用語だけ使って(仏教用語は排除して)自ら翻訳されています。そこに書いてあることは決して難しくない。たとえば、このたび購入させていただいた『スッタニバータ』の「犀の角の経」には、以下の一節があります。
じつに朋友を得るのはよいことである。
自分よりすぐれ、あるいは自分と同等な朋友に親しむべきである。
こうした朋友が得られなければ、罪や過ちのない生活を楽しみとし
犀の角のようにただ独り歩め。(今枝訳 2014:p.30)
こうした訳文に慣れ親しんできた欧米人と、いたずらに難解であるがゆえに意味の解せぬ漢訳仏典を棒読みしてきた日本人とでは仏教に対するイメージが真反対になるのも致し方のないことでしょう。欧米では、こうした初期の仏典が「成功者のバイブル」にさえなっている。企業などで成功したいなら、ブッダの言葉を学ぶべきだというわけです。
以上は、講演のつかみなど、ごく一部にすぎません。こうした内容が淡々と語られていきました。その内容が難解でなかったとまでは言いきれませんが、その語り口は、観音菩薩のごとき、寛容で穏やかなものであり、わたし個人の感想を述べるならば、良質の音楽を聴いているような感覚に近いものでした。
あれほどの本物の研究者がわたしたちの前でお話しくださったことが現実であったのか、いまでも不思議でなりません。夢のなかでの出来事のように時間は過ぎ去っていきます。
【附記】 開場から開演までの時間と休憩時間に今年もデジカメ画像のスライドーショーを映し、音楽を流すことに決めていた。スライドは日本・ブータン・チベットをランダムにミックスさせたコラージュだが、音楽は昨年と同じブータン僧院の声明にしようとして、ケースの蓋を開けたらCDが消えていた。いつものことである。他のCDケースに紛れこんでいるのだろう。しばらく考えて、ピエール・ベンスーザンを流したい衝動にかられた。ジプシーとシャンソンとケルトとジャズがごちゃまぜになった、あの高度に洗練されたギター音楽がチベット仏教の世界に似合うと直感したのである。そもそも今枝先生はすでにフランス国籍を取得されているわけだし、フランス人のギタリストは決して不似合いではなかろう。アンドリュー・ヨークを2曲突っ込んだが、それ以外の14曲はベンスーザンの3枚のアルバムからチョイスした。おそらく聴衆は無意識に心地よい音楽を聴いていただけで特別な印象を抱いていないだろう。それが成功の証である。もし耳障りならクレームがあったはずだもの。そう思っておこう。
以上は、講演のつかみなど、ごく一部にすぎません。こうした内容が淡々と語られていきました。その内容が難解でなかったとまでは言いきれませんが、その語り口は、観音菩薩のごとき、寛容で穏やかなものであり、わたし個人の感想を述べるならば、良質の音楽を聴いているような感覚に近いものでした。
あれほどの本物の研究者がわたしたちの前でお話しくださったことが現実であったのか、いまでも不思議でなりません。夢のなかでの出来事のように時間は過ぎ去っていきます。
【附記】 開場から開演までの時間と休憩時間に今年もデジカメ画像のスライドーショーを映し、音楽を流すことに決めていた。スライドは日本・ブータン・チベットをランダムにミックスさせたコラージュだが、音楽は昨年と同じブータン僧院の声明にしようとして、ケースの蓋を開けたらCDが消えていた。いつものことである。他のCDケースに紛れこんでいるのだろう。しばらく考えて、ピエール・ベンスーザンを流したい衝動にかられた。ジプシーとシャンソンとケルトとジャズがごちゃまぜになった、あの高度に洗練されたギター音楽がチベット仏教の世界に似合うと直感したのである。そもそも今枝先生はすでにフランス国籍を取得されているわけだし、フランス人のギタリストは決して不似合いではなかろう。アンドリュー・ヨークを2曲突っ込んだが、それ以外の14曲はベンスーザンの3枚のアルバムからチョイスした。おそらく聴衆は無意識に心地よい音楽を聴いていただけで特別な印象を抱いていないだろう。それが成功の証である。もし耳障りならクレームがあったはずだもの。そう思っておこう。