FCセクストン東西対抗オフサイド講座 レポート(1)

12月8日(金)午前10時40分より、本学第14講義室で篠田謙一氏(国立科学博物館)の講演会を開催した。実質2週間ばかりの準備で、広報に手間取ったが、地元紙にとりあげられた6日以降、参加申込者が急増し、会場には50名以上の聴衆が詰めかけた。主催者としてホッとしている。篠田氏の講演内容はもちろん質の高いものであり、評判も上々であった。
講演会の概要を3回にわけてレポートしたい。まずはイントロから。
FCセクストンとは何か
篠田さんとわたし(浅川)が大学に入学した1974年、ふたりとも別々にどこかの同好会でサッカーをやりたいと考えていました。その候補の一つが京都大学文学部サッカー同好会だったんです。名前からしてすでに弱そうな印象が拭えませんね。当時、文学部サッカー同好会は廃部寸前の危機的状況にあったんです。メンバーは文学部6回生が数名のみで、とても1チームを構成できるような状態ではなかった。ちなみに、6回生というのは、少なくとも文学部においてさほど珍しい人たちではありませんでした。学生運動の余波もありますし、なにより授業料が年間36,000円という安さだったものですから、あせって社会に出る必要はない。のんびり大学生活を送って作家でもめざすか~ぐらいの緩い雰囲気が文学部にはありました、確実に。
そうしたなかで、学内再弱同好会チームの再建に先輩方が乗り出した。そして、新人募集のチラシコピーを考えたんです。これが強烈でした。
電話イッパツ即レギュラー!
たしか『サッカーマガジン』か『イレブン』に掲載されていたサッカーショップの広告をもじったコピーだったと記憶するのですが、新入生の多くは、このチラシに目をまるくして飛びついた。我先にと電話をかけてしまったんですね。そうして、この学年の優秀な経験者が文学部サッカー同好会に集結した。週に1~2回だけ農学部グラウンドで練習する同好会なんですが、このチームは本当に強かったんです。県代表クラスの学生が数名いたのと、監督を務めた6回生の萩原茂さんという先輩が、当時の日本では例外的といえるほどのサッカー通で、人心掌握が上手かった。結果、連戦連勝のチームに生まれ変わり、京都大学学内リーグ(春季・秋季)を何度も制覇していったのです。
その後、京都社会人リーグに加盟して4部から1部にまで駆け上がるのですが、加盟にあたって新たなチーム名を考える必要があった。そのチーム名称が「F.C.セクストン」です。イングランド・リーグの老舗、チェルシーやQPR(クィーンズ・パーク・レインジャーズ)で監督を務めていたデイブ・セクストンの名前を拝借したというのですが、わたしなど、セクストンのセの字も知らなかった。このチーム名をめぐり、ある朝事件が勃発します。
社会人4部リーグに加盟したばかりのころ、戦績が京都新聞に掲載されていたのですが、そこには「FCセックスマン」と書いてある。みなひっくり返り、こりゃ不味いぞってことになりまして、チーム名を改めた。改めたといっても、FCセクストンをドイツ語読みして、「FC(エフツェー)ゼクストン」に変えただけなんですが、その後は変態チームと勘違いされることもなくなりました。

このさいですので、デイブ・セクストンという人物について少し調べてみました。彼はプロボクサーの息子です。ぼくさ〜 ボクサーの息子なんだ、、、なんちゃって(独笑)。サッカー選手としては、ウェストハムでデビューし、その後、ルートンタウン、レイトンオリエントなどを経て、クリスタルパレスで選手生活を終えています。最高の成績は3部リーグ(今の2部?)での優勝だったとのことですから、選手としては突出した存在とまでは言えなかったわけですが、アーセナルのコーチなどを経て、指導者として頭角をあらわします。


1967~74年にはロンドンの名門チェルシーの監督を務めます。1969-70のシーズンにFAカップで優勝し、翌年のカップ・ウィナーズ・カップで欧州チャンピオンになっています。我々が大学に入学した1974年にはQPRに移籍しました。その後のことはよく知らなかったんですが、調べて驚いたことに、1977-81にはマンチェスター・ユナイテッドの監督に引き抜かれ、一年目のスーパーカップで優勝しています(リバプールとの引分優勝)。さらに晩年はイングランド21歳以下代表チームの監督を長年務めます。82年と84年に欧州選手権で優勝していて、まさに、知る人ぞ知るイングランドの名将なんだと今ごろ分かった次第です。
F.C.セクストンは毎年同窓会をやっています。そこでサッカー三昧の二日間を過ごすわけです。とりわけ東西対抗戦は最高に盛り上がるのですが、わたしは奈良から鳥取に職場を変えてからほとんど同窓会に参加しなくなりました。それで、仲間たちがこの10月21~22日に鳥取で同窓会を開いてくれたのです。会場はわたしが準備しました。用瀬総合運動公園の芝生グラウンドを予約したのですが、あいにく秋雨前線と台風18号のおかげで屋外でのプレーを断念し、佐治小学校の体育館をお借りしてフットサルをすることになりました。試合は10-8(延長戦も含めると11-9)で篠田さん所属の東軍が浅川所属の西軍に勝利しました。ところが、篠田さんは靱帯断裂の大けがを負われ、いまも杖をついておられます。わたしは言ったんです。みんな気持ちだけは若いけれども、肉体は間違いなく衰えている。無理な運動しちゃいけない、と・・・
というわけで篠田さんは、FCセクストン東西対抗戦のリベンジに鳥取を再訪されてきたというわけなんです。【続】
