FCセクストン東西対抗オフサイド講座 レポート(2)


古墳時代前期の大型倉庫群
-松原田中遺跡の布掘掘形と地中梁から-
1 松原田中遺跡の布掘建物
湖山池南西部の平地に位置する松原田中遺跡で古墳時代前期の造営と目される布掘の掘立柱建物跡が多数みつかった。2010年度に2区で1棟、2013年度に3・4区で5棟、さらに2015年度に盛土3・5・6区で9棟が検出され、これら15棟は布掘建物0~14と番付されている(↑右)。15棟のうち8棟(布掘建物0・3・4・6・7・10・11・12)の布掘掘形に地中梁が残っている。ASALABは2014年度、布掘建物0・1・3・4の復元に取り組んだが、今年度ようやく報告書が刊行されることになり、正式な論文として大改稿したところである。じつは本日(12月8日)が入稿日であり、まさにほやほやの研究成果をここにお届けする。
この研究は布掘遺構の復元的考察を試みるものだが、とりわけ気になるのは遺構の年代観である。布掘掘形から出土した土器片などから古墳時代前期の造営年代が示唆されているが、地中梁の年輪最外資料が弥生時代後期の年代を示しているからである。このため上部構造の復元にあたっては、青谷上寺地遺跡出土建築部材(弥生中後期)の復元研究との関係もあり、弥生時代後期の上屋構造をベースとして設定し(弥生後期様式)、それに4~5世紀の家形埴輪の様式・要素を加味することで古墳時代前期の姿(古墳前期様式)を模索する。

2 布掘建物の年代と遺構変遷
(1)遺構の年代と変遷
いずれの布掘掘形においても弥生土器の細片が多く出土するが、少量ながら古墳時代前期の土師器の破片を含む。発掘調査では掘形と抜取穴を区別せず、両者一体の遺構を「溝」と認識しているだけなので、包含される遺物が造営年代(掘形)を反映するものか、廃絶年代(抜取)の上限を示すものかは不明である。その一方で、たとえば布掘建物3(4区)の場合、布掘溝に切られるいくつかの土坑などからも古墳時代前期の土器が出土しており、布掘建物3は古墳時代前期(以降)に造営され、廃絶したと考えられるという。ただし、6棟の布掘建物はすべて共存したわけではなく、3期程度の遺構変遷を想定すべきであろう。遺構の重複関係と方位を重視する場合、たとえば、
4区1棟(布掘建物5)→2・3区3棟(布掘建物0・1・2)→4区2棟(布掘建物3・4)
という変遷が想定される。一方、竪穴住居と複合する建物0を古式とみなす場合、たとえば、
2区1棟(布掘建物0)→3・4区3棟(布掘建物1・2・5)→4区2棟(布掘建物3・4)
という変遷を想定することも可能かもしれない。


(2)地中梁の年輪年代測定
布掘建物3の掘形で出土した地中梁(№1870・1871)から厚さ約20mmの輪切り資料を3点得た。うち1点は年輪数171を数え、材はスギの芯去・心材型である。これを奈良文化財研究所が計測した結果、最外年輪の年代は西暦66年と判定された。心材型であるため、西暦66年は伐採年代の上限として捉えられる。輪切り資料のうち2点は総合地球環境学研究所にも送付し、酸素同位体比年輪年代測定を依頼した。測定の結果は、№1870(103年輪)が西暦15年、№1871(137年輪)が西暦56年であった。3つの年代はいずれも弥生時代後期にあたり、年輪数の多寡を踏まえれば、奈文研と地球研の測定値はほぼ一致をみたと言える。
紀元1世紀代という年輪年代の測定結果は土器の編年によって推定された古墳時代前期という年代観とあまりにもかけ離れている。№1870・1871の最外資料の外側にさらに200~250年の年輪が存在したことになる。両木材は心材型の芯去材であり、そのような木取りは難しいけれども、ありえないわけでもない(↓)が、それにしても、年輪年代と土器年代の差は遠すぎる。一部の布掘建物については、古墳時代前期に納まらず、弥生時代終末期(以前)にまで遡るのではないか、と思う所以である。3期ほどに変遷する布掘建物のうち、最古の時期にあたる遺構は弥生終末期(以前)に造営された可能性を完全に否定できないのではないか。



3.遺構解釈と基礎の復元
松原田中遺跡の布掘建物跡については、2014年度卒業の学生が卒業研究として取り組んだ。遺構解釈と基礎の復元については こちら を参照していただきたい。布掘建物3の地中梁(↑)は7m以上の長い材で、左右の掘形で平行関係を保ちながら斜めに傾いている。また、建物3の西側に近接する建物4では、中央にあるべき梁が東端にスライドしている(↓左)。動きかたは異なるけれども、布堀建物3・4は同時に衝撃的な水平力(強風・地震など)をうけて倒壊した可能性が高いであろう(↓右)。
残り2棟(布掘建物0・1)の遺構解釈および復元についてはブログでは割愛する。


4.上屋構造の復元考察
布掘建物3は地中梁の上に輪薙込(わなぎこみ)反転型の仕口で柱を立てる高床の三間倉に復元した。入口形式はおもに稲作系民族建築を参照し平入形式とみなした。まずは青谷上寺地遺跡出土建築部材を全面的に駆使した弥生後期様式を考えた(↓左)。これをベースにして、ケラバの出を長くして転びのきつい破風を付加し、水切り状の台輪を取り付け、壁を板校倉風から真壁に変更したものを古墳前期様式案とした(↓右)。山陰の先史建築史の位置づけとしては、「青谷上寺地から長瀬高浜(↓中)に至る過渡的形式」として位置づけられる。

布掘建物4は中央間が著しく狭く、左右の収蔵室の入口のようにみえるので「双倉(ならびぐら)の原型」として位置づけた。古代の双倉といえば、まっさきに東大寺正倉院正倉が思い浮かぶ。それは単純な三室の校倉ではない。校倉は両脇の間で、中央間は板倉になっている。法隆寺綱封蔵(平安初)になると、中央間は軸組構法まるみえの入口部分にすぎない。こうした入口部分の原型として建物4の中央間を位置づけられないものだろうか。そういう発想のもとに青谷上寺地遺跡の建築部材を使って下の復元案を作成した。伊勢神宮御饌殿が入口部分を介して並列したような外観である。この中央間がひろくなれば正倉院正倉や綱封蔵のような平入3間倉に発展していくように考えることもできるかもしれない。


下図の左半分は、青谷上寺地遺跡建築部材データで復元した妻木晩田遺跡の高床倉庫(弥生後期)である。こうした弥生集落の倉庫は原則1間×1間の平面で、梁間寸法は2.0~2.5mにとどまる。桁行2~3間の倉庫と推定される遺構も存在するが、梁間はやはり1間で、その寸法が3.0mを超えることはまずない。それに対して、松原田中の布掘建物は平面が1間×3間で、梁間は2.9~4.0mと長くなる。弥生時代には特殊な大型建物にのみ例外的に採用された「布掘+地中梁」の技法が、古墳前期になると、高床倉庫に導入され、梁間が3mを超えて大面積を確保できるようになったということである。クラはもともと財の象徴としての意味を担うが、この時代になって、財力誇示のステータスシンボル的意味が強化されたといえるだろう。
ところで、こうした大倉庫を集中させることの意味は何なのであろうか。講演では、貴州トン族(中国)、イフガオ(フィリピン)、対馬のコヤとベー(場)、奄美大島大和浜のボレグラを引用して松原田中と比較した。これらの集中式倉庫群はいずれも居住施設から離れた場所に隔離されており、主屋が焼けても穀物は焼け残る「防火」の機能を共有する一方で、イフガオでは「稲の神」の守護する神聖な閉鎖領域でもあり、稲の収穫にかかわる祭祀と直結している。こうした類例のなかでとくに気になるのは奄美のボレグラ(群倉)である。かつて大和浜には80棟以上の高床倉庫が集中的に建てられていた(今は8~9棟のみ残る)。内陸の住居群から離れた海浜地域にクラを集中させたのは、やはり防火を期待してのことだろう。松原田中の倉庫群も湖山池の湖畔近くに立地している。かつての湖岸がどのあたりにあったのか、また住居群がどこにあったのかは不明ではあるけれども、湖水による防火を意識した配置である可能性を今のところ否定できないであろう。【続】

【参考文献】
浅川・宮本・中田(印刷中)「松原田中遺跡の布掘掘形と地中梁に関する復元的考察」『松原田中遺跡 Ⅲ』鳥取県教育委員会