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登録記念物-摩尼山の歴史性と景観の回復(7)

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焼けた地蔵堂

 摩尼山鷲ヶ峰の立岩脇に建っていた地蔵堂は昭和13年(1938)に参拝者の失火により焼失している。その記事が『因伯時報』昭和13年11月12日に掲載されているので、このたび翻刻した(下線筆者)。
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 摩尼寺奥の院 
   地蔵堂全焼 
     いつ焼けたか誰も知らぬ
      貴重な仏像も灰に

 因幡の名刹、鳥取市覚寺大字立岩摩尼寺奥の院地蔵堂が何時の間にか全焼してゐることを、茸取(きのことり)が発見届出でにより鳥取署より千熊巡査部長が十日午後現場に出張調査したところ、全焼した地蔵堂は間口二間、奥行二間、木造平屋建黒瓦葺一棟で、外に山林約十歩をも焼失しており、損害は地蔵堂三百円、木製座像丈三尺二寸の本尊地蔵大師百円、木製立像丈三尺五寸の左脇立帝釈天百円、松の雑木三円計五百三円で、出火時刻は去る八日午後六時頃と認められてゐる。
 地蔵堂には常に参詣者があり去る六日の日曜日の如きは一日に五十人の参詣者があって、其の後も一日に十名余の参詣者があったが、この堂には堂守はおらず、堂にはろうそく立ての設備なきため参詣者が堂前側木製格子戸の辺りにろうそくを立て、これに火を点いたまま下山し、其火が格子戸に燃え移り、遂に堂を全焼したものと見られてゐるが、地蔵堂の焼失中を発見した者はだれ一人としてなく、焼失後松茸狩人が発見したものであって、木像窃取の上これが犯跡をくらますための放火ではないかと疑問もあり、堂内の木像安置箇所を掘返したところ金属製の像の宝冠及び持物等が現はれたので、窃盗の疑問も解消、全く参詣者の失火と見られてゐる。
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2018県環申請プレゼン資料(浅川)_01地蔵堂01


 かくして摩尼山鷲ヶ峰(賽の河原)の地蔵堂は昭和13年11月8日に焼失したのだが、その後復旧され、昭和40年ころまでこの地に建っていたと聞く。明治の絵葉書にみえる地蔵堂(↑)は焼失前の状況を写したものであり、上の記事の記載に対応するはずである。そこで、古写真と新聞記事の内容から明治期の地蔵堂の構造形式等を整理してみた。

  地蔵堂: 間口2間×奥行2間、木造平屋建黒瓦葺1棟
   正面中央間 格子戸  正面両脇間 花頭窓
   側面建具 舞良戸    妻飾 木連格子
   向拝一間 繋虹梁=海老虹梁
  仏像: ①木製座像丈三尺二寸の本尊地蔵大師
      ②木製立像丈三尺五寸の左脇立帝釈天
  注意事項: 鐘楼は焼けていない。三十三観音石仏11基も切妻瓦葺屋根に覆われる。


境内の類例-三祖堂

 地蔵堂の復元を検討するにあたって、摩尼寺境内で最も参考にすべき類例は三祖堂である。三祖とは最澄、空海、円仁の三大師をさす。屋根は方形造で地蔵堂と異なるが、2間四方の正面中央間1間に向拝をつける平面構成は地蔵堂と同じであり、向拝柱と身舎柱をつなぐ繋虹梁を海老虹梁とする点も地蔵堂とよく似ている。三祖堂はもと山上にあったと伝えるが、どこに存在したかは不明である。いまの建物は昭和36年(1961)の新築だが、虹梁・組物・木鼻・内外陣境の花頭窓を伴う間仕切り壁などは前身建物もしくは他の古い建物から継承している。地蔵堂の復元にあたって看過できない資料である。
 三祖堂については、新年になってから分析します。【続】


2018県環申請プレゼン資料(浅川)_02三祖堂

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魯班13世

Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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