登録記念物-摩尼山の歴史性と景観の回復(8)


龍門寺巡礼堂
摩尼山鷲ヶ峰の地蔵堂を復元するにあたって参考に値する類例を探したところ、『鳥取県の近世社寺建築』(1987)の中で最も近い外観を有するのは会見町(現南部町)の龍門寺巡礼堂であることを、きびたろう君がつきとめた。たしかに、入母屋造仏堂の正面中央に向拝をつけ、左右の脇間に花頭窓を設える外観は地蔵堂とよく似ている。『鳥取県の近世社寺建築』の文章はとても短いので、この際だから全文引用しておこう(一部の文字を繁体字にし、西暦を付加するなどの改変あり)。
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83 龍門寺 西伯郡会見町天万748 真言宗醍醐寺派
巡礼堂 正面三間 側面三間 入母屋造 向拝一間 桟瓦葺
天保6年(棟札)
角柱土台建 頭貫木鼻 台輪 出三斗 一軒疎垂木 妻飾木連格子
向拝角柱 連三斗 繋虹梁 一軒疎垂木 四方切目縁
龍門寺は永享2年(1430)、醍醐寺三宝院末流真言修験宗として護国山常福寺を創建してはじまる。明治の神仏分離令により廃寺となり、大正8年(1919)龍門寺として復活する。
伯耆霊場第6番札所で、本堂の前方右脇に西面して建つ。
巡礼堂は方3間仏堂で、前1間を外陣、後2間を内陣として、内陣床高を外陣より1段上げて内外陣境を引違戸で間仕切る。外陣中央間の側・入側柱頭部を虹梁で繫ぐ形式は中世風である。側廻りの柱上出三斗の手先の斗に肘木を組んで出桁を受ける手法は珍しい。柱頭に粽をつけ、台輪や花頭窓など禅宗様系の意匠を用いて全体に木細く、天保6年(1823)の建築にしては穏やかにまとめている。
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昨年12月24日の午後、龍門寺を訪れ、短時間ではあるけれども、巡礼堂の調査をした。ヒアリングによると、今から11年ばかり前、住職の交替があった。新しく赴任した現住職は堂宇の傷みを修補すべく、巡礼堂の屋根・壁・建具などに大きな改修を加えた。一点、報告書と矛盾する発言あり。本堂・巡礼堂とも、もとは茅葺きであったが、雨漏り等ひどいので本堂は鉄板で被覆し、巡礼堂はスレート葺きにしたとのことだが、報告書(1987)掲載の巡礼堂の写真は上の記載どおり桟瓦葺になっている。桟瓦からスレートに葺材を換えたというのが正しい理解であろう。


報告書の記載にあるように、台輪・花頭窓・柱頭粽(および向拝柱の礎盤)は禅宗様系だが、繋虹梁は海老虹梁ではなく、虹梁型頭貫と同じ標準のタイプにしている。対して、摩尼寺境内の三祖堂や古写真にみる地蔵堂は曲がりの強い海老虹梁を採用しており、この点のみに注目すると龍門寺巡礼堂よりも禅宗様の色彩がやや強いと言えるが、組物などは素朴に抑えている。さらに微細な部分ではあるけれども、向拝柱上の大斗を皿斗付大斗にしており、これは三祖堂と共通する。


↑内外陣境。角柱に粽をつける。 ↓向拝の大斗に皿斗をつける。




まず方3間の平面寸法について分析する。1尺=303mmとして、本体の平面は6,190mm(20.4尺)四方。柱間寸法は、
桁行: 左右の脇間 1,850mm(6.1尺) 中央間249mm(8.2尺)
梁行: 仏壇側1間 210mm(6.9尺) 手前2間 409mm(13.5尺)
向拝柱の出は『鳥取県の近世社寺建築』に記載がないので、現地で実測した。
側柱-向拝柱(内法寸法) 1,880mm 向拝柱130mm角 側柱175mm角 であり、
側柱-向拝柱(心々寸法) = 1,880 + (130+175)/2 = 2042.5mm(6.7尺)
となる。ちなみに、縁の出は860mm(2.8尺)である。
龍門寺巡礼堂は3間四方、摩尼寺地蔵堂及び三祖堂は2間四方なので、単純に上に示す寸法を2/3の比率で縮小すれば、平面寸法・部材寸法を復元できるが、じつは摩尼寺の場合、1間が6尺か6尺5寸かは未確定であるので、次回以降、三祖堂と地蔵堂・鐘楼跡地を分析することで正確な縮尺率を導き出したい。【続】


↑この書き殴りの矩計スケッチを清書して縮小すれば摩尼寺地蔵堂の断面として使えるが、繋虹梁は海老虹梁に換え、組物は出三斗ではなく、平三斗で納めるのがよい(出桁・切目縁は無しとする)。縮尺率については2/3程度だが、さらに考察する。


↑巡礼堂内部 ↓本堂外観

