登録記念物-摩尼山の歴史性と景観の回復(9)


摩尼寺三祖堂
すでに何度も述べてきたように、摩尼山鷲ヶ峰に所在した地蔵堂跡の復元にとって最も参考になる類例は中腹の境内に現存する三祖堂である。三祖堂については、『思い出の摩尼』(2015:p.13)に短い報告をしている。構造形式・細部様式をいまいちど整理しておこう。
(6) 三祖堂 正面2間×側面2間 方形造 桟瓦葺 昭和36年(案内板)
角柱土台建 桁天のり(組物・木鼻なし) 一軒疎垂木 縁なし
向拝角柱(礎盤付) 出三斗・実肘木 海老虹梁 木鼻 中備蟇股 一軒疎垂木


三祖堂は最澄・円仁・空海を祀る二間四方の仏堂で、かつては山上にあったというが、どこにあったのかは誰も知らない(奥の院のどこかであった可能性は高い)。昨日述べたように、繋ぎに海老虹梁を使う点は龍門寺巡礼堂より禅宗様的だが、側柱に組物はなく、台輪を通していない。向拝は出三斗(皿斗付大斗)とする。海老虹梁の手先延長方向と虹梁型頭貫の外側に木鼻をつけるが、絵様をみると、海老虹梁の渦が丸くてやや古式を示す。木鼻は明治で海老虹梁は幕末かとも思ったが、絵様を凝視するに、渦の彫り幅は同じにみえるので、同年代を反映する可能性もある。2014年に国有形登録文化財になった本堂・山門・鐘楼と比較すると、本堂は幕末の安政7年(1860)であるのに対して、山門は明治22年(1889)、鐘楼は明治25年(1892)まで下る。本堂と山門・鐘楼には明治維新をはさんで30年前後の時間差があるのだが、この間はいわゆる廃仏毀釈の時代であり、仏堂の新築・再建等は難しかったと思われる。したがって、三祖堂の古材を使って建てた建物の年代は幕末か明治中期のどちらかであろう(後述)。なお、三斗組上の桁は見かけのもので、内側を実肘木の上側で切り落としている。二間四方の本体は組物のない住宅風であり、向拝のみ派手にして付けたし、全体を仏堂風にみせている。こうした作風は鳥取城下町などに分布する一般の仏堂と同じである。


↑↓向拝まわりのみ派手につくる




建具は以下のとおり。
正面: 2間を四枚引違戸
側面: 手前側1間を板ガラス引違戸(2枚)、奥側1間を木舞壁。
背面: 三祖にあわせて3柱間に分け、いずれも木舞壁とする。
寸法は正面・側面とも総長4,000mm(13.2尺)。正面向拝の柱間1,990mm(6.56尺)、側面前側の柱間1,980mm(6.53尺)、側面奥側の柱間2,020mm(6,67尺)、向拝柱の出1,544mm(5.1尺)であり、1間=6.5(~6.6)尺に復元すべきか。柱は4.5寸角。
内部は奥の半間を仏壇とし、三祖並列で祀る。正面(最澄)開放、左右に花頭窓をあしらう。ここの建具は古式にみえる。垂直方向の矩計や花頭窓は実測していないので、正月初詣のついでに初仕事としますか?
ちなみに、龍門寺巡礼堂との寸法比をみると、巡礼堂は三間(6,190mm)四方、三祖堂は二間(4,000mm)四方なので、後者は前者の65%縮小とみなせる。この縮小率は、地蔵堂跡の復元にあたって有効な数値となるであろう。


↑三祖堂内部 ↓疎垂木の枝割

*このページの写真は昨年12月12日に岡垣・宮本くんが案内板設置場所の下見をして撮影したものである。