登録記念物-摩尼山の歴史性と景観の回復(10)


鷲ヶ峰地蔵堂跡の復元方法
すでに何度も述べてきているように、鷲ヶ峰の立岩と平場(賽の河原)の間にL字形の基壇風の高まりがあり、北側に地蔵堂、南東側に鐘楼が建っていた。また両者の中間には西国三十三観音石仏の第1群11体(第1~11霊場)が低い切妻の瓦屋根に覆われていた。こうした風景が明治の絵葉書に写しこまれている。その写真の撮影年代については、明治末の山陰線開通を記念して編集された「因幡国喜見山摩尼寺略記」(1912)に地蔵堂等が描かれていることから、明治45年(1912)以前と考えてきた。しかし、よく考えてみれば、三十三観音石仏の寄進年があきらかなので、その年代を上限として理解できる。田中新次郎『因幡の摩尼寺』(鳥取県民俗研究会、1958:p.59)によると、鳥取市元魚町大谷文治郎所有の石仏40体が明治29年(1896)摩尼寺に寄進されており、そのなかに「西国三十三ヶ観世音菩薩三十三体」を含む。これらの石仏は「廃寺ノ尊像」であり、石仏の刻銘から制作年代は文化年間まで遡るが、摩尼寺への寄進は明治後期まで下るのである。田中の依拠する資料は「摩尼寺宝物帳」であり、信頼性は高いといえる。このことから絵葉書の撮影年代は明治29年(1896)以降ということになる。絵葉書に映された地蔵堂・鐘楼は撮影された年には鷲ヶ峰に存在していたわけだが、建立年代は撮影年代以前としか言いようがなかろう。

上にみる地蔵堂の構造形式はすでに本連載(7)において因伯時報の記事とあわせて考察したが、このたび改めて当該部分をクローズアップして観察すると、角柱土台建 二重の長押 桁天のり(組物・木鼻なし) 向拝柱(礎盤付)上に出三斗・木鼻(に中備蟇股?)などもみてとれる。加えて、摩尼寺三祖堂・龍門寺巡礼堂などの類例から推察して、以下のような構造形式・細部様式に復元できよう。類例からの推定部分は赤字とする。
地蔵堂: 間口2間×奥行2間、平屋建 入母屋造 黒瓦葺 平入 縁なし
角柱土台建 二重の長押 桁天のり(組物・木鼻なし) 妻飾 木連格子
正面中央間 格子戸 正面両脇間 花頭窓
側面前側1間 舞良戸 側面奥側1間 木舞壁に小窓付か
向拝一間 向拝柱(礎盤付)上に出三斗・実肘木・木鼻 中備蟇股
こうして整理してみると、地蔵堂(↑)と三祖堂(↓)はやはりよく似ている。屋根に入母屋と方形の違いがあり、三祖堂の建具が新しくなっている以外は瓜二つと言ってもよいぐらいであろう。とりわけ地蔵堂の復元にあたっては、三祖堂の海老虹梁と仏壇の花頭窓が使える点、非常に有用である。


次に寸法を考察する。上図は岡垣くんの実測作図によるものである。当初は基壇上の建物跡を閻魔堂と推定しており、現在の閻魔堂の平面を縦・横回転させて比較したのだが、縦横いずれも基壇からはみ出してしまった。上図はこのたび岡垣くんに依頼して三祖堂の平面と基壇遺構を対比したものであり、これだとぴたりと納まる。問題は基準尺だが、頼りになるのは基壇上に残る向拝柱の礎石しかない。ところが、この二つの礎石は、昭和13年の火災焼失後に再建された新しい地蔵堂の基礎であり、明治期のものではないという憾みがある。しかししかし、今回はこれに頼るしかない。岡垣くんの実測によると、向拝柱の柱間寸法(心々)は1,960mm(6.47尺)である。三祖堂の向柱間は1,990mm(6.56尺)、閻魔堂は1,969mm(6.50尺)を測る。手測りの誤差を考慮するならば、いずれの柱間計画寸法も6.5尺とみるべきであろう。すなわち、地蔵堂等においては、1間=6.5尺の基準尺を用いていたと考えたい。
この前提のもとに地蔵堂の平面を復元すると以下の寸法になる。赤字は三祖堂から借用した寸法を示す。
地蔵堂: 方二間 13尺(3,939mm)×13尺(3,939mm)
側面・背面の1間 及び 向拝柱間(正面格子戸中央間) 6.5尺(1,970mm)
正面左右の脇間 半間=3.25尺(985mm)
向拝柱の出 5尺(1,515mm)
復元平面図(案)を以下に示す。

上屋の寸法については、酷似する三祖堂の矩計をとって基礎とするが、入母屋造の屋根は龍門寺巡礼堂を参照すべきであろう。巡礼堂の寸法を採用する場合、部材寸法を65%縮小する。屋根のほかでは花頭窓を参照せざるをえなくなるかもしれない(↓)。明治の絵葉書にみる地蔵堂の屋根は、勾配が非常にきつくなっている。瓦屋根の基準勾配5/10よりも草屋根の矩勾配10/10に近づけるべきであろう。野小屋の影響とも考えられるが、龍門寺本堂・巡礼堂と同様、当初は茅葺き屋根であった可能性もあるだろう。
前回も述べたように、三祖堂の花頭窓・矩計の実測を急がねばならない。


↑龍門寺巡礼堂花頭窓略測