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登録記念物-摩尼山の歴史性と景観の回復(17)

財産台帳にみる地蔵堂

 昭和17年の「寺院資産台帳」に地蔵堂・位牌堂の記載はなく、いま注目している建物としては、ただ祖師堂(おそらく三祖堂のこと)のみ確認できる。しかし、明治31年の「寺院所有物明細帳」には、三祖堂・位牌堂に加え、地蔵堂もリストに含まれている。

  地蔵堂  桁行二間 梁行二間 坪数四坪 延享元年建設

 昨日紹介したように、この台帳附録の指図には、法界場を挟んで向かって左に地蔵堂、右に三祖堂を対称に配している。両者は方二間の同規模とし、地蔵堂は延享元年(1744)、三祖堂は享保三年(1718)の建立とされる。さらに注目すべきことに、岡垣くんは台帳の他に「喜見山摩尼寺記録」(年代未確認)という文書の複写を閲覧している。原本は覚寺の宮脇陽雄さんが所有しておられ、市編纂室がそのコピーを所蔵しているという。読みやすい行書体の部分といかにも古文書らしいくずし字の部分が混在しており、地蔵堂に係わるくずし字の部分を会長(の奥様)に翻刻していただいた。

   地蔵堂建立之事
  一 此度当寺本堂東江弐間
     四方茅葺ニして 地蔵堂一宇
     建立仕度儀候、此段奉願候以上
     寛保三年五月□日  □□□□□ (折り目で読めず)

 【会長注釈】不慣れなので会長の音読を付しておく。
   (地蔵堂を)建立つかまつりたく儀そうろう、この段ねがいたてまつりそうろう
   〈本堂の東、2間(3.6m)離れた所に、方形で茅葺の地蔵堂を建立したいので、
   (許可を)お願いいたします。〉


 さらに、明治31年の台帳に記載された地蔵堂本尊の記載は以下のとおりである。

   地蔵堂本尊地蔵大士  座像大ハ三尺二寸
    由緒。当像ハ延享元年甲子六月唯識院湛洞自坊ニ安置ス菩薩
    諸人結縁ノ為寄附スル者ナリ。



 寛保三年(1743)に建築申請し、延享元年(1744)に竣工?

 1)地蔵堂の位置は本堂から東方向に2間離れた場所である。ここは文久二年(1862)に位牌堂が建立されるので、その際、地蔵堂は法界場の右脇に曳き家された可能性があるだろう。
 2)地蔵堂は「四方茅葺」と表現されている。明治の絵葉書にみる鷲ヶ峰の地蔵堂のような桟瓦葺ではなかったということである。


0110三祖堂03花頭窓02 
↑↓三祖堂内外外境の花頭窓は享保三年(1718)に遡るか。正面の最澄像の前は開放とし、向かって左側の空海像、右側の円仁像の前に花頭窓を設える。
0110三祖堂03花頭窓01



明治中期以降の普請事業からみた地蔵堂など

 国鉄山陰線の全通を記念して摩尼寺境内の最奥部、すなわち法界場の手前に善光寺如来堂が新設された。この事業を記念して制作された明治45年の「因幡国喜見山摩尼寺略記」では、如来堂と閻魔堂は山麓の境内に描かれるが、地蔵堂・西国三十三観音石仏(第1群)覆屋・小振りの鐘楼は立岩の脇に描かれている。如来堂竣工以前に地蔵堂は賽の河原に新築もしくは移築されたのである。ここで明治維新以後の普請事業を年表としてまとめておこう。

   明治22年(1889) 境内で山門再建
   明治25年(1892) 境内で鐘楼再建(古い鐘楼を鷲ヶ峰に移設か?)
   明治29年(1896) 「西国三十三ヶ観世音菩薩三十三体」を含む40体の石仏等が
              大谷文治郎により寄進される。
   明治31年(1898) 「寺院所有物明細帳」に三祖堂・地蔵堂・位牌堂・閻魔堂および
              大谷文治郎寄進の石仏40体の記載あり。三祖堂と地蔵堂は同規模
              で法界場を挟んで左右対称に配置されていた。
   明治45年(1912) 善光寺如来堂竣工。同年の絵図をみると、閻魔堂は境内、地蔵堂・
               西国三十三観音石仏(第1群)覆屋・小振りの鐘楼は鷲ヶ峰に描かれる。

 明治中期の山門・鐘楼再建から始まった摩尼寺の境内整備は、およそ20年の歳月を要し、明治45年の善光寺如来堂竣工をもってフィナーレを迎えたと言える。その間、地蔵堂・三祖堂・閻魔堂・鐘楼などの移設や再建があったものと思われる。以下、推測をまじえて地蔵堂等の推移を追跡してみたい。

 1)地蔵堂は延享元年(1744)に建立され、はじめは本堂東脇に存在した。茅葺きの方二間堂であったが、文久二年(1862)の位牌堂建立にともなっておそらく法界場の近くに移設された。位牌堂は『稲葉佳景無駄安留記』に瓦葺きで表現されている。
 2)三祖堂は地蔵堂よりも古く、比叡山安楽律へ改宗した享保三年(1718)に建立されたと伝える。明治中期には法界場を挟んで地蔵堂と対称の位置におかれていた。両堂は平面も同規模であったが、屋根形式は異なる(地蔵堂は入母屋、三祖堂は宝形)。
 3)明治25年の鐘楼再建以降、境内整備は鷲ヶ峰「賽の河原」にまで及び始めた可能性がある。『稲葉佳景無駄安留記』(1858)に描かれた小振りの古い鐘楼を山上に移設し、瓦葺きを鉄板葺きに改めたか?
 4)大谷家寄進の西国三十三観音石仏が当初どこにあったのかは分からないが、明治29年以降同45年までの間に山上に設置された。
 5)地蔵堂は明治31年までは確実に山麓境内の法界場の前に存在した。その後、明治45年までに鷲ヶ峰に移設された可能性がある。明治の台帳に記された地蔵大士像の寸法は『因伯時報』で焼失した地蔵大師座像と同規模である点も建物の移築を匂わせている。
 6)明治31年以降明治末年までに鷲ヶ峰で建立(曳き家?)された地蔵堂は、古写真や絵図によれば桟瓦葺きにみえる。すでに法界場脇の段階で桟瓦葺きになっていたかもしれないが、屋根の急勾配は茅葺き屋根の小屋組を継承したものと理解できよう。
 7)鷲ヶ峰の地蔵堂は昭和13年に失火で焼失した。その後、再建されたが、今は跡形もない。
 8)三祖堂は安楽律への改宗時から存続していた可能性があるけれども、昭和36年に再建された。ただし、内外陣境の花頭窓などの建具は当初に遡る可能性がある(↓)。一方、向拝に残る虹梁・木鼻などは絵様からみると、幕末~明治中期のものであり、あるいは文久年間建立の位牌堂の古材かもしれない。
 9)昭和13年以降に山上で再建された地蔵堂が戦後撤去された後、その部材を現在の三祖堂や閻魔堂が再利用した可能性がないとはいえないが、三祖堂と閻魔堂はそれぞれ境内に前身建物が存在した。三祖堂内外陣境の花頭窓など建具は享保三年(1718)当初の材である可能性がある一方、向拝の海老虹梁・虹梁型頭貫・組物・木鼻・蟇股の様式は様式上幕末~明治期のものであり、文久二年の位牌堂(入母屋造の方二間堂)や明治期の閻魔堂前身建物の古材を再利用した可能性があるだろう。

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魯班13世

Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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