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増上寺(三)余論

日光奥宮宝塔 日光


家康の二つの墓

 先日教授が芝の増上寺を訪れ、徳川家将軍霊廟の宝塔式墓塔を観察され、改めて大雲院宝塔厨子との係わりを確認された。ところで、初代将軍徳川家康(1543-1616)の墓はどうなっているのだろうか。そういえば、昨年3月、大雲院懸仏を卒論のテーマとされた武田さんが日光、久能山、紀州の東照宮を巡礼し、多数の写真を撮影されている。その写真を探し出して精査したところ、家康の墓塔もまた宝塔形式であることを知った。家康の遺体は自身の遺言により初め久能山に埋葬され、その後日光に改葬された。つまり、家康の墓は久能山東照宮と日光東照宮の両方にあり、いずれも宝塔形式の墓塔を立ち上げている。墓上に宝塔を建てて埋葬された最初の被葬者はほかならぬ家康であり、二代秀忠の増上寺宝塔はずいぶん派手に造ってはいるけれども、家康の墓を継承したにすぎない。今回、武田さんが撮影した写真から日光と久能山の宝塔の特質を考えてみよう。


久能山宝塔2 久能山


久能山東照宮神廟 宝塔墓

 徳川将軍家最古の墓塔は素朴な石造である(↑↓)。丸みの少ない伏鉢状の塔身に細めの首部を据え、その上に宝形造の屋根をのせ、4隅には風鐸を吊るす。組物は平三斗で、支輪の位置から方形に張り出すさまは顔にエラがあるような可笑しさを醸し出している。全体的に朴訥で日光ほど洗練されていない。塔身が大きく、屋根の小さなずんぐり型で、増上寺や日光の宝塔形式とはあきらかに一線を画する。これが最古の宝塔墓であることに注目したい。


久能山宝塔組物2  久能山


日光東照宮奥宮 宝塔

 日光の家康墓は当初木造であったが、後に石造に改められた。その後天和3年(1683)に地震で破損したため、現在の青銅製に改鋳された(↓)。
 伏鉢状の塔身の上に蓮華座を備えている。組物は平三斗だが、詰組風に納める。支輪の位置を伏弁の蓮華座とし、軒裏にも細かく浮彫を施す。屋根は宝形造。相輪を豪華に飾る。増上寺の六代家宣墓、14代家茂正室和宮の青銅墓の原型となったものであろう。久能山とは異なり、後続する将軍家墓塔の直接的なルーツとして位置づけられる。


日光奥宮宝塔2
↑↓日光
日光宝塔組物2



大雲院宝塔厨子との比較

 大雲院宝塔厨子と比較しても、増上寺以上の共通点はとくにみいだせない。大雲院の場合、やはり木造の小塔であることが鍵を握ると思われる。とりわけ木造で塔身の伏鉢形状をつくるのは難しい。円筒形の表現が精一杯であったのかもしれない。(OK牧場)


以下のサイトを参照。
 【東照宮紀行(一) 日光篇】
 【東照宮紀行(二) 久能山篇】
 【東照宮紀行(三) 紀州篇】

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魯班13世

Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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