登録記念物-摩尼山の歴史性と景観の回復(18)

賽の河原-江戸時代後期の原風景
摩尼山の鷲ヶ峰は江戸時代と明治時代で大きく風景が変わっている。江戸時代の鷲ヶ峰は『因幡志』摩尼山立岩之図(1795)にみるように、立岩の袂に「財河原 石仏」が描かれるのみで、建造物はいっさい認められない。そこは此岸と彼岸の境にある財河原(賽の河原)であり、死んだ子どもたちの変わりに参拝者は小石を積み上げて塔を作ったのであろう。そこにある「石仏」とは、ストーリー上、地蔵菩薩でなければならない。
現在、摩尼山で石仏は105体確認されており、実際にはさらに多いと思われる。その大半が地蔵菩薩であり、境内最奥の「法界場」には50体以上の地蔵菩薩の石仏が集中する。こうしてみると、摩尼山は山そのものが「賽の河原」であり、そのイメージを凝縮させて発露しているのが鷲ヶ峰であり、法界場であると言えるのではないだろうか。
明治期の建造物と景観の復元
明治に入っても、維新直後から神仏分離・廃仏毀釈の影響が強まり、鷲ヶ峰の景観に大きな変化はなかったであろう。それが明治20年代になると、少しずつ状況を変えていく。明治22年(1889)に山門、同25年(1892)に鐘楼が再建され、摩尼寺の境内に「近代化」の兆しが見え始める。新しく大きくなった鐘楼にはとくに注目すべきであり、『稲葉佳景無駄安留記』(1858)に描かれた小振りで素朴な鐘楼は不要になって鷲ヶ峰に曳き家された可能性もあるだろう。絵図では瓦葺きとして表現された鐘楼が、山上では瓦葺きの屋根勾配を維持しつつ鉄板葺きになっている点も、重い瓦の持ち運びを敬遠したためかもしれない。いずれにしても、このあたりが「賽の河原」整備の突端になった可能性があることを指摘しておきたい。

↓↑地蔵堂復元図(平面・断面・立面)


明治29年(1896)には大谷家より西国三十三観音石仏等が寄進される。西国三十三観音石仏を3群に分けて登山路と立岩下に配置した年代は不明だが、やはり「賽の河原」の環境整備に影響を及ぼしているのは間違いない。そして、肝心の地蔵堂は明治45年の善光寺如来堂の新設の前には確実に境内法界堂の前から鷲ヶ峰に移されたのは間違いない。大雑把な言い方でしかないが、明治後期には絵葉書古写真にみる近代の「賽の河原」の景観が誕生していたと思われ、それは昭和13年の地蔵堂火災でいったん途切れるが、地蔵堂の再建とともに昭和40年ころまで継続していたものと考えられよう。ただし、写真や絵図をみる限り、石を積み上げて塔を作る「賽の河原」の原風景は明治後半から失われていったものと思われる。
以下に、鷲ヶ峰における地蔵堂・西国三十三観音石仏覆屋・鐘楼の復元図を示す。

西国三十三観音石仏覆屋(平面・断面・立面)