登録記念物-摩尼山の歴史性と景観の回復(19)

「賽の河原」で石を積むイベント
摩尼山鷲ヶ峰の地蔵堂や立岩が戦前まで参拝者の多かったことは「因伯時報」昭和13年の記事が伝えるとおりである。しかし、今は境内ですら参拝者が激減しており、鷲ヶ峰立岩の帝釈天礼拝を目的として登山する人はごく稀になってしまった。ここで原点に立ち返りたい。登録記念物「摩尼山」の活用整備方針の主軸となるコンセプトは「摩尼山-歴史性と景観の回復」である。摩尼山の歴史性の根幹にあるのは、立岩における帝釈天の降臨であり、そこはまた「賽の河原」としての信仰を集めてきた場所でもある。
いままでおもに明治期の地蔵堂・鐘楼等の復元に焦点を絞って考察を進めてきたが、その成果に基づきつつ、敢えて名勝整備の重心は立岩と「賽の河原」の複合性を強調した江戸時代後半の姿におくべきであることを提言したい。かりに明治期の歴史的景観を再現するとなれば、地蔵堂・鐘楼などの建造物を復元することになるけれども、その工費は尋常なものではなく、維持管理もまた容易ではない。とすれば、明治期の遺構については基壇・礎石の整備程度にとどめ、むしろ『因幡志』(1895)に描かれた「財河原」イメージの醸成をめざすべきではないかと考える。すなわち石積み塔と地蔵石仏を「賽の河原」に蘇らせるのである。地蔵石仏については、法界場などに集中する石仏の一部を移設すればよいだろう。設置場所は旧地蔵堂跡地がふさわしく、その石仏は簡単な覆屋で保護するほうがよいかもしれない。

石積み塔は人工的に導入するのではなく、年に1~2回「賽の河原に石を積む」イベントを開催して、少しずつ石積みの数を増やしていくのがよいのではないだろうか。門前から「奥の院」に至る旧登拝道は摩尼川の源流に沿っている。イベントはトレッキングと複合させる。摩尼川の源流を沢登りしつつ小石を集め鷲ヶ峰までもって上がり、その石を地蔵堂・鐘楼基壇の上に積み上げるのだ。立岩の上に積みあげても構わないだろう。誰でも参加可能のイベントだが、子どもを含む家族連れで楽しめるようなイベントにできれば最善と思われる。


お地蔵さんのオーナー制度
芝の増上寺は徳川家の菩提寺の一つであり、歴代将軍墓所でよく知られている。本堂から将軍墓所に至る参道の脇にはカラフルな「千躰子育地蔵菩薩」が配されており、江戸の風物詩になっている。案内板には以下のように書いてある。
子や孫の無事成長を祈って当時ひまわり講の方々が中心となって、それぞれの
お施主様がお建てになりました。幼い子や孫への愛情の表れとして、頭を守り、
寒さをしのぐ為の「赤い帽子」「赤い前掛け」「風車」をお地蔵さまに奉納しています。
写真(↑)にみるように、千体の地蔵尊石仏は赤い帽子と前掛けを身に纏い、カラフルな風車を手にもっている。堅苦しい寺院境内の雰囲気に緩くてひょうきんなアクセントを付しており、なんとも微笑ましい。
摩尼寺にもこれに似た風習がある。一部の地蔵尊には赤い帽子や前掛けがつけてあり、それらはいつのまにか新しく更新されている。住職代理の居川敬信さんによると、「お地蔵さんの前掛けは、管理職員の女性が気の向いた時に、たとえばお彼岸などの時期に取り替えたりしております。時々は参拝の方が自分の思いのある地蔵様だけ替えてある事もある様です」とのことである。下線を引いた部分はとくに重要だと思われる。参拝者が愛着のある石仏の帽子と前掛けを編んで纏わせる。それを毎年更新する。これをより多くの人に広めていけないものだろうか。
いわばお地蔵さんのオーナー制度である。石仏のオーナーを募り、赤い前掛けと帽子、さらに可能ならば風車を寄進していただくのである。それらはオーナーの自作であることが望ましいけれども、既製品を茶屋や寺務所で販売してもよいだろう。そうして参拝者と石仏の関係を築きながら、105体以上ある石仏の飾りつけを継続的におこなうのである。そうすることによって、暗いイメージのある法界場、登拝路、賽の河原、奥の院などは少しずつ明るい活力を取り戻していくような予感がする。また近年、鳥取県では「川六」などの名工が彫りあげた石造物がひそかなブームになっている。そうしたブームと刺激しあえるような石仏のオーナー制度をめざしたい。

摩尼寺仁王門~山門の中間に立つ地蔵尊(2009初詣)