青蔵鉄道-吐蕃の道(5)

慈しみの庭
8月29日(火)8時半、ラサから約200㎞南に離れたシェタンに向かう。バスに乗り込むまでのロビーで、教授は若いフロントの女の子に日本から持ち込んだお菓子をあげて談笑している。いつ仲良くなったのか・・・。
午前はまずポタラ宮の近くに位置するダライ・ラマの夏の離宮「ノルブリンカ」へ。ノルブリンカは18世紀中ごろ、ダライ・ラマ7世によって造営がはじまったという。ノルブリンカは「宝珠の庭」という意味らしい。宝珠といえば、真言マニが意味するものであり、それは観音菩薩が備えた慈しみや思いやりの象徴である。だから、ノルブリンカは「慈しみの庭」ということだろうか。広大な面積を有する敷地内に歴代ダライ・ラマが建てた幾つかの離宮が所在する。見学したのはダライ・ラマ14世が生活していた「タクテン・ミギュ・ボタン」。1965年に竣工した建物で、ダライ・ラマ14世は3年後ここからインドに亡命したという。

歓喜の玉
ラサ空港近くのレスランで昼食の湯麺をすすり、吐蕃の故郷ツェタンに向かう。出発してまもなく検問所でチェックを受ける。バスはヤルンツァンポ川沿いを走る。裸麦(高地寒冷種の大麦)の畑が広がる景観が印象的だった。途中、川沿いの「雅魯蔵布」(ヤルザンプ?)で休憩する。「雅魯蔵布」は展望台と小さな土産物店と不衛生なトイレがあるだけ。店では老女が玉(ぎょく)製品などを扱っている。しばらく冷やかしていると、後期密教を象徴するかの歓喜仏玉製品を発見した。手にとって眺めていると、教授が値下げ交渉を始めた。110元(約2000円)を80元(約1500円)に引き下げようと努力されているようだ。老女にその嫁か娘らしき若い女性がが加わり、交渉が不調のような雲行にみえたたため、言い値で購入する。実際には値下げ交渉はうまく行っていたらしい・・・歓喜の玉は、我が書斎で人目に触れることなく眠っている(ダッショと内蔵助がとくに興味をもっていると聞いている)。


↑(左)雅魯蔵布 (右)ツェタン(澤当)の新市街地

ツェタンの蔵王墓
チベット文明発祥の地ツェタン(澤当)はヤールン渓谷にある。7世紀にソンツェンガンポ王が首都をラサに移すまで、吐蕃王朝の都だった。町に入る前にまた検問所でチェックを受ける。インドに近いためか、検問はなかなか厳しい。ツェタンの町は人口6万人ほど。近年開発が進み中国的な市街地が形成されている。

↑蔵王墓入口 背後が墳丘版築 ↓墓上建築の組物

市街地の町並みを抜け蔵王墓に向かう。蔵王墓はツェタン郊外に群集する吐蕃王陵群である。今は14基ほどの方形墳を確認できるが、もとは21基の陵墓があったという。一番残りが良いという推定ソンシェンガンボ王墓を見学する。王墓は一辺が約135m、高さ15mの方墳である。一見して自然の小山のように見えたが、墳丘は版築で築かれている。墳頂は平坦で僧いまは僧院が建つ。僧院は1983年ころの新築だが、戦前の写真にはいくつかの王墓に墓上建築が残っており、文化大革命期にすべて破壊されたという。教授によれば、135m四方の面積に建つ建築であるならば中庭型であったとみるべきであろうと考えられているようだった。現在の院内にはソンシェン・ガンボ王や王妃の尊像が祀られていた。


丘陵左が古城、右が新城
なお、墳頂からシェタンの城下町を遠望すると、新市街地(新城)と旧市街地(古城)が明確に分かれている状況が見てとれた。また、旧市街地の背後の丘陵にチンワ・タクシェ・ゾンと呼ばれる城跡があり、近年、急速に復元整備が進んでいるという。教授はその景観を眺めながら、「旧市街地と城跡の調査ができれば面白い成果が上がるのでは」と宣う。私はすぐさま「中国政府の許可を得なければ捕まりますよ」と夢のないこと言ってしまう。少し反省。
蔵王墓見学後、昌珠寺(タントゥク・ツオラカン)に向かう。ソンシェン・ガンボ王によってチベットで最初に建立されたと伝えられる寺院である。門を入ると中庭が、ありその奥に仏殿があって、周囲は回廊で囲まれる。その周辺が観光地として整備されているのが印象的だった。この日の予定は終了し、19時前にホテルに入る。
