松平東照宮-松江神社

松江神社は近代の権現造か
4月13日(金)、3月に続いてまた先生と松江を訪れました。目的は今年度のブータン・チベット調査の打ち合わせですが、午後の時間を利用して松江城内にある松江神社を訪れました。松江神社は、松平直政を御祭神として明治10年(1877)に西川津村に「楽山神社」として創建されました。一方、寛永5年(1628)、朝酌村(現松江市西尾町)に造営された東照宮の御神霊を明治31年(1898)に合祀し、翌年現在の松江城山二之丸に遷座して、社名を「松江神社」と改めたそうです【境内案内板参照】。
とすれば、松江神社は明治の和風建築ということになりますが、気になるのは「権現造」のスタイルをとっていることです。権現造とは、文字どおり、東照大権現(御神体化した家康の尊称)に因み、本殿と拝殿を石の間(相の間=廊下)でつなぐ平面形式をもつ神社・霊廟をさします。松江神社はあきらかに権現造の霊廟であり、寛永5年に造営された東照宮の形式を継承している可能性が高いと思われます。年代を確認すると、本殿はすでに述べたように寛永5年(1628)、 拝殿は寛文元年(1661)となっており、この建物を移築したとするならば、重文指定がなされているとしても不思議ではないのに、自治体指定はおろか、登録文化財にすらなっていません。おそらく「楽山神社が明治10年の創建、同32年遷座」という史実が災いしているのですが、本殿・拝殿の細部にみえる特異な装飾等を専門家はどうとらえているのでしょうか。

組物は拝殿が平三斗(隅は三斗組)、本殿が出組ですが、木鼻が特異な形状を呈しています。拳鼻の変形のようで、どこか獏の頭を思わせる抽象的な造形をしているのです。
様式的な年代を特定するのは容易ではありませんが、木鼻や向拝虹梁に刻まれた渦をみると、細くて縦長の楕円形をしており、摩尼寺の本堂・山門・鐘楼にみるような幕末~明治中期の野太い線とはまったく異なっています。あるいは、寛永~寛文造営の東照宮の材が転用されているの可能性すらあるのではないか、と勘ぐりたくなるのです。松平直政が信濃より転封し松江藩主になったのは寛永15年(1638)のことであり、その十年前に勧請された東照宮は前任の京極氏よりもひとつ先代の堀尾氏の時代のものです。鳥取藩の東照宮勧請(1650)に先んじること12年、様式的にはいっそう桃山様式に近かったこと疑いありません。
上の木鼻や絵様をそこまで遡らせるのは困難かもしれませんが、それにしても、松江城二の丸の松江神社は見事な権現造です。権現造の省略形でしかない鳥取東照宮に比べると、あきらかに正統的で格式高く、さすが徳川親藩の家柄を誇示しています。


↑↓拝殿細部


ちなみに、私の卒業論文は、鳥取東照宮の別当寺である大雲院に係るものであり(「大雲院宝塔厨子と徳川将軍家墓所」)、松江神社が同じく家康を祀る東照宮であるということで大変興味をもちました。松江神社に至る城内お道には、多くの樹木が植えられておりとてもきれいでした。社殿の蟇股や境内の石灯篭など、所々に徳川家の「葵御紋」家紋があしらわれています。この点は鳥取東照宮や大雲院と共通していると思いました。




興雲閣-亀田山喫茶室
松江神社の撮影・観察が一段落したところで、神社境内の隣にある興雲閣( 県指定文化財)に立ち寄りました。興雲閣は明治36年(1903)明治天皇行幸時の御宿所として建設された擬疑洋風建築です。鳥取の仁風閣は大正天皇が皇太子のさいに宿泊された御宿所で、興雲閣より時代は新しいですが、片山東熊が設計した建築の質の高さを評価され国の重要文化財になっています。ともに指定文化財ですが、仁風閣のほうがランクが上というわけですが、仁風閣に喫茶室は設けられていません。大正天皇がお使いになった家具や絨毯を汚してはならない、という発想が前提としてあるわけですが、興雲閣の一室には「亀田山喫茶室」というカフェが設けられています。店の雰囲気はとてもレトロで感じがよく、先生は店員さんに群馬県の桐生明治館の話をされていましたが、その女性も明治館のことをご存知でした。


ただし、純粋の民営ということで、メニュー全体にお値段は高めです。先生は隠岐特産のハーブティー「くろもじ茶」を注文されましたが、ごらんのとおりの番茶(野草茶)です。これで500円ですから、ちょっとした「ぼ○たくり茶」じゃないのなんて茶化したりして・・・しかし、それでも指定文化財の中にカフェを設けることは評価したいですね。IHや珈琲メーカーを使えば火元も安心できますし、やはり文化財の中でお茶することは有意義だと思います。
仁風閣の場合、それほど絨毯や家具が重要ならば、カフェの部分だけレプリカを使ってもてなせばいいのではないでしょうか。2階の庭に面するホールの内外などカフェとしては最高の空間になるように思えてなりません。

事前ミーティング
夕方からが本番です。能海寛研究会会長、ジェクト顧問、そしてASALAB OBの公爵だっしょを招き、前回と同じ5名で今後のチベット・ブータン関係の研究計画を協議しました。顧問(カメラマン)は20歳若かったら絶対に行くとおっしゃるのですが、教授は今からでも遅くない、チベットは天上世界に近い。そのまま鳥葬になるもわるくないでしょ、とお薦めになっておりました。
晩年の男は死に場所を求めて生きているわけですから。(OK牧場)

