予稿初稿(1)

2018年杨鸿勋建筑史学国际学术研讨会予稿
Yang Hongxun International Architectural History Symposium 2018 Proceedings
日本の建築考古学
-魏志倭人伝と3世紀前後の大型建物-
浅川滋男@福州大学建築学院 4月28日
1.楊鴻勛先生の想い出
建築考古学の中日交流
楊鴻勛先生(1931-2016)と初めてお目にかかったのは1992年のことでである。その年、奈良国立文化財研究所(奈文研)から日本学術振興会に特定国派遣研究員を申請し採択され、北京の中国社会科学院考古研究所(考古研)を拠点にして「中国早期建築の民族考古学的研究」に4ヶ月間取り組んだ。そのときの指導教官が楊先生である。中国では1982~84年の留学時に同済大学建築系の陳従周先生に江南の民家・庭園についての教えを受けたが、92年の楊先生は私の研究人生後半の中核となる建築考古学の方向性を導いていただいた大恩人である。楊先生は清華大学建築系を卒業後、考古研の夏鼐所長に請われ入所し、全国各地の遺跡で建物跡の復元研究を手がけられた。遺構の解釈と文献の精緻な考証、さらには芸術作品にも劣らぬ迫力ある復元パースに読者は度肝を抜かれる。その成果をまとめた最初の専著が『建築考古学論文集』(文物出版社1987、増補版は清華大学出版社2008)であり、2001年に「20世紀で最も優れた文博考古図書の人気投票」論著類部門で、郭沫若や夏鼐をおさえ全国第1位に輝くわけだが、弟子筋にあたる私からみれば至極当然の評価だと思っている。日本が世界に誇る中国建築史の大家、田中淡氏(京都大学人文科学研究所名誉教授・故人)ですら、楊先生には一目おいており、「不如您(あなたには適わない)」の賛辞を惜しまなかった。

頭塔の即興復元
奈文研は1993年に楊先生を正式招聘する。研究会での先生は大変な早口で饒舌であり、通訳に苦労したが、いちばんの想い出は頭塔の復元である。東大寺の真南に位置する頭塔は、聖武天皇の大仏鋳造~開眼供養会(752)、大仏殿造営(758)などと係わる一連の事業と相関し、僧実忠によって造営されたと伝える特殊な「土塔」である(東大寺要録)。壁面に石仏を配した正方形のテラスを5段重ねる姿はジャワ島の世界遺産ボロブドールを彷彿とさせるものであり、戦前の発見当初から上座部仏教やチベット仏教に特有な方形段台型仏塔との類似性を指摘されていたが、1986年より発掘調査を継続していた奈文研はむしろ華北の磚塔の系譜上にあるものとの見方に傾いていた。
楊先生には奈良町方面の寺院見学のかたわら半時間ばかり頭塔の遺跡を見学していただいた。その後、いったん奈文研の遺講製図室に戻ってくつろいでいたのだが、楊先生は思い立ったようにソファから離れてドラフターの席につき、「4Hの鉛筆をもってきて」 と指示された。それから楽し気に鉛筆を走らされ、20分ばかりの間に3つの頭造復元案を描かれたのだった。驚いたことに、3案のうち2案はすでに失われた頭塔最上層に伏鉢状の構造をともなうものであり、当時の日本人研究者は一人として思いついていない復元案であった。そのうちの一案はボロブドールに似ており、他の一案は日本の多宝塔が多層化した造形にみえた。中国西域方面の類例を知る私はそうした先生の復元案に仰天し、強くひきつけられたが、多くの日本人研究者は日本建築史の常識からはみ出した復元案を「根拠がない」として退け、耳を貸そうとはしなかった。ところが、まもなく頭塔と同時期の大阪府堺市大野寺「土塔」で13段のテラス状遺構の最上段に伏鉢状構造物の地覆痕跡が確認され、楊先生の復元案は一躍脚光を浴びることになったのである。
考えてみれば、東大寺大仏殿の供養には天竺(印度)や扶南の僧が参列しており、また毘盧遮那仏(ヴァイローチャナ=光明遍照)が密教の新しい教義を反映する「大日如来」と同義であることを踏まえるならば、インド方面の密教や上座部仏教と関係する方形段台型仏塔が聖武天皇の時代にもたらされたとしても決して不自然ではなかろう。それは、空海の密教に先行して導入された巨大な宝塔あるいは多宝塔であったといえるかもしれない。かくして楊先生の即興的な頭塔復元案は、「華北磚塔」説に流れていた頭塔系譜論を、石田茂作らが古くから主張した「インド新様式を取り入れた最先端な仏塔」説に振り戻し、さらにその核心に近づいたという点で重要な意義があり、古代日本建築史に新しい視界をひろげるものであった。【続】

↑燕趙園(鳥取)。鳥取県と河北省は姉妹都市の関係にあり、河北省建築設計院が庭園の設計を担当した。楊先生にコメントを求めたところ、「中国庭園らしくみせているが、建築史・庭園史の仕事ではない」と喝破された。