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予稿初稿(3)

図30_三国_01 3世紀の東アジア


2.邪馬台国への途

南北方位の反転
 日本の弥生時代は朝鮮半島からの渡来系稲作文化の伝来によって北部九州では前10世紀ころに萌芽し、前5世紀ころに環濠集落が成立するとされる。しかし、そのころの他の地域はいまだ縄文時代晩期にあたり、前3世紀~後3世紀が弥生文化の存続期であって、中国における漢の時代にほぼ併行している。漢魏の時代、西日本は「倭」と呼ばれていた。倭という地名に関する最古の記載は『漢書』地理志まで遡るが、生活文化に関する具体的な描写を含む最初の記載は『三国志』魏書・東夷伝の倭人の条、いわゆる「魏志倭人伝」である。『三国志』は後漢滅亡 後、魏・呉・蜀が鼎立した時代(220~265年)の正史であり、晋の陳寿が280年ころに編纂したものである(『後漢書』編纂は5世紀前半までくだる)。その時代は、西日本で弥生時代が終焉し、前方後円墳をメルクマールとする古墳時代がまさに始まらんとする時代であった。陳寿は朝鮮半島の付根に漢魏が置いた楽浪郡・帯方郡の集積した情報を書き写したものと推察される。倭を支配した女王、卑弥呼がいた邪馬台国の所在地については九州説と畿内≒大和(奈良)説の両説が激しい論争を繰り広げてきた。魏志倭人伝の冒頭部分を以下に抜粋して引用する。(以下、おもに小路田泰直氏の新説に従って記述する)
 
  倭人は帯方の東南、大海の中にあり。 山島によりて国邑をなす。 旧百余国、
  いま使訳通ずる所三十国。帯方郡より倭に至る。海岸をめぐりて水行し、韓国をへて、
  あるいは南し、あるいは東し、其北岸、狗邪韓国に至ること七千余里。
  始めて一海を渡ること千余里、対馬国に至る。また南に一海を渡ること千余里、 
  一支国に至る。また一海を渡ること千余里、末盧国に至る。東南のかた陸行五百里にして、
  伊都国に至る。東南のかた奴国に至ること百里。東行して不弥国に至ること百里。
  南のかた投馬国に至る。水行二十日。五萬余戸ばかりあり。南のかた邪馬台国に至る。
  女王の都する所なり。水行十日陸行一月。七万余戸ばかり。 


混一疆理歴代国都之図(1402)龍谷大学蔵 混一疆理歴代国都之図


投馬国「出雲」説
 朝鮮半島南端にあったであろう狗邪韓国から南に水行し、対馬国(対馬)、一支国(壱岐)、末盧国(松浦半島)まではほぼ同定できる。その次にあらわれる伊都国が糸島半島であるのもほぼ間違いないが、方位に矛盾があらわれている。末盧国から「東南のかた陸行五百里にして伊都国に至る」とあるけれども、実際の地理関係をみると、糸島半島は松浦半島の東南ではなく、東北に位置している。かくして魏志倭人伝に記された日本列島の方位認識は南北反転の可能性を読み取れるわけだが、東アジアを広域的に描く「混一疆理歴代国都之図」(1402・龍谷大学蔵)に日本列島が南北反転して表現されていることからも、倭人伝にいう「南」は「北」を意味する可能性が高いと思われる。
 さて、伊都国が糸島半島にあり、その「東南」(じつは東北) にある奴国が「漢委奴国王印」出土の志賀島あたりとみるのは妥当であるとして、その次に記される不弥国、投馬国については所在地に諸説あり、これを九州とみれば邪馬台国は九州中南部に存在し、これらを瀬戸内の諸国とみれば邪馬台国は畿内(近畿)に所在することになる。こうした九州説と畿内説の論争は、後に詳述するように、奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で2009年に超大型建物群が発見されるに至り、纒向周辺を邪馬台国とみなす考古学者がかなり多くなってきている。その場合、北九州から奈良に至る経路については、従来推定されていた瀬戸内海よりも日本海が重視され始めている。対馬・壱岐は東シナ海の北限であると同時に日本海の西限でもあり、日本海自体が古代極東地域の地中海であって、交通と流通の幹線とみなされるからである。楊先生もこの点を強調されている[浅川編1998]。
 

mukibannda.jpg




吉野ヶ里199601


 とりわけ注目されるのは「投馬(つま)国」である。福岡東北もしくは山口西南に所在したであろう不弥国から「南」(実際には北)の方向に水行二十日で至る地であり、「五万余戸ばかり」という人口は邪馬台国の「七万余戸ばかり」に準ずる規模を有し、神話上大和と対抗しうる勢力を誇った日本海沿岸の出雲(島根県東部)が有力な候補地として浮上してきている。音声を比較しても、「イズモ」の「ズモ」が「つま」に近似する。また、山陰地方最大の弥生集落である妻木晩田遺跡の妻木(むき)も当初は「ツマキ」と読んだはずであり、いっそう「つま」と似ている。すなわち、弥生~古墳時代の出雲・伯耆こそが投馬国であった可能性を否定できないであろう。出雲からは再び「南」(じつは北)に向かい、水行十日陸行一月で女王の都する邪馬台国に至るというわけだから、おそらく船で若狭湾あたりまで進み、陸路一月を要して卑弥呼の居処に至ったと推定できよう。


狗奴国「吉野ヶ里」説
 女王国より「以北」(じつは以南)には数多くの国が存在した。福岡県志賀島周辺の奴国が「これ女王の境界の尽くる所」であった。その南に所在した狗奴(くな)国は男子を王となし、「女王に属せず。郡より女王国に至る萬二千余里」と記される。邪馬台国から遠く離れた狗奴国は卑弥呼と対立する九州中南部の国であったとすれば、邪馬台国九州説の牙城というべき佐賀県の吉野ヶ里遺跡こそがその拠点的な前線基地であり、奴国を前線とする邪馬台国の軍事勢力と対峙していたと推定できよう。
 吉野ヶ里遺跡は弥生時代最大の環濠集落であり、倭人伝にいう卑弥呼の「宮室・楼観・城柵」をセットとして有する点などにより、邪馬台国の可能性が高いと九州説派により主張されてきたが、以下のような矛盾を露呈している。
  1)吉野ヶ里の全体は不整形であり、弥生早期から末期に至る環濠集落が重層的に遺跡化したものであって、各時期の環濠規模は必ずしも大きくない。弥生時代最大の環濠集落は、奈良県田原本町の唐古・鍵遺跡である。唐古・鍵は弥生時代大和地方の拠点集落であり、それが終末期以降、纒向に取って代わられるとみるべきであろう。
 2)吉野ヶ里で「宮室・楼観・城柵」が複合的に発見されていると言っても、城柵以外は不確定な掘立柱建物にすぎない。六本柱の掘立柱建物が超高層の楼観(物見やぐら)に復元できる保証はないし、高大な宮室に至っては16本の総柱のうち実際に検出された柱は9本だけなので、どのような上屋構造をしていたのかは判断できない。
 3)吉野ヶ里には弥生時代終末期の環濠集落が疑いなく存在したが、卑弥呼が大活躍する古墳時代初期以降は衰退から廃絶にむかう。明らかに歴史の流れと矛盾している。
  九州中部には、今も「熊本」「球磨川」などクマを冠する地名が少なくない。記紀にいうクマソ(熊曾・熊襲)も同系の民族名として理解できるであろう。これらのクマこそが狗奴国の音声の名残もしくは転訛とも考えられる。女装したヤマトタケルがクマソタケルと戦う記紀神話は、邪馬台国と狗奴国の抗争を連想させるものである。【続】


96-S-2240吉野ヶ里(圧縮)
↑吉野ヶ里での楊先生と張之平女史(中国文物研究所)

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魯班13世

Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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