予稿初稿(5)

4.卑弥呼の宮室
纒向は邪馬台国か
2009年に奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で日本の考古学・古代史界を震撼させる発見があった。纒向周辺には日本で最も古い二基の前方後円墳が存在する。最古の前方後円墳がホケノ山、次が箸墓古墳であり、年代はいずれも3世紀前半~中ごろと推定される。魏志倭人伝には「正始八年(247) 卑弥呼が死に塚(墓)が作られた」と記載されることなどから、箸墓を卑弥呼の「塚」とみる考古学研究者は以前から少なくなかった。ここで再び魏志倭人伝に注目すると、「正始元年(240)魏から親魏倭王の仮の金印と銅鏡100枚を与えられた」とみえる。倭を統括する邪馬台国の王権の象徴たる金印は今なお発見されていないが、近畿各地の前方後円墳から数百枚に及ぶ三角縁神獣鏡がみつかっている(九州では未発見)。三角縁神獣鏡については諸々の論争があるけれども、これを魏の皇帝が卑弥呼に授けた「銅鏡」とみる意見は根強くあり、邪馬台国大和説を側面から補強する物質文化として注目され続けてきた。

そうした背景のある纒向遺跡で弥生時代最大規模の超大型建物(建物D)が2009年にみつかった。後世の攪乱を含むものの、復元的にみれば床面積は238㎡に及ぶ総柱式の建物である。この巨大建物の背面西側にはすでに3棟の建物が発見されており、それらは東西方向の中軸線を共有し、さらに方形の柵列に囲まれている。纒向以前のランダムな弥生式建物配置から大きく中国的シンメトリーの配置に脱皮した姿であり、方位こそ異なるが、律令期の内裏地区の空間を彷彿とさせる。纒向こそ、後の天皇が居住した内裏(だいり)の原型として理解すべきと考える。


宮室の復元
建物Dは古墳時代特有の偶数間(4間×4間)の柱間で、階段を正面に設え難いため、四隅に配したものと推定した。こうした昇殿のあり方は飛鳥浄御原の内裏正殿まで継承され、8世紀以降の正面奇数間となる皇族・貴族住宅の正殿にも四隅の階段が継承されていく。
問題は上屋構造であるが、某メディアから復元を依頼された私たちは、さんざん悩んだあげく、纒向の建物復元を青谷上寺地遺跡建築部材研究の延長線上に位置づけることにした。近畿の建物跡を山陰の部材で復元することの問題点は承知しているが、かりに近畿で出土した弥生時代の建築部材を集成しても量的に不十分であり、また出土地の異なる建築部材の整合関係にも疑問が残る。そうしたパッチワークには必ず矛盾が露呈する。対して、青谷上寺地遺跡の場合、すでに楼観・大型建物・高床倉庫などを復元しており、7,000点を超える材の分析によって鉄器使用開始期の建築的文法をわたしたちは理解し始めていた。その研究を進展させるためにも、青谷の文法で纒向を復元してみる意義はあると判断した次第である。建物の外観意匠はどうするか。それは古墳から出土する家形埴輪に倣うしかない。おもに4~5世紀の家形埴輪を参照にして、復元平面にみあう造形を構想し、その姿を青谷の部材で織り上げていったということである。

纒向の建物配置については、「宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵(武器)を持して守衛す」という魏志倭人伝の記載ともよく一致している。超大型の建物Dが儀式用の「宮」、その背後の建物Cが日常生活のための「室」、さらにその背後の突起部分に納まる小型の建物Bが守衛の兵舎にあたる。ただし、楼観については、おそらく建物Dの前方に双闕のように存在したのであろうけれども、これまでの調査区には含まれていない。
纒向については、土器の年代観で異論もでている。卑弥呼の活躍した3世紀前半に編年されるとする意見が主流ではあるけれども、4世紀前半に下るという見方もあって、その場合、纒向は後代の大王(天皇)に係わる宮室ということになるであろう。しかしながら、建築史の立場から意見を述べるならば、これほど大規模で、中軸線と方形区画を有し、建物Dは内裏正殿、建物群は内裏地区の原型の風貌を漂わせ、おまけにアマテラスの太陽信仰を彷彿とさせる東への方位性が顕著であることなどからみて、纒向は依然として邪馬台国の最有力候補であると私は思っている。【続】
