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2018人間環境実習・演習B中間発表会(2)

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能海寛の青春

 私たちは、4月から5月中旬にかけて、能海寛の著作『世界に於ける仏教徒』(1893)の輪読及び口語訳に取り組みました。まず能海寛の生涯について紹介します。能海寛(のうみ ゆたか 1868-1903?)は明治維新の年に石見国那賀郡波佐村の浄蓮寺(浄土真宗東本願寺派)の次男として生まれます。那賀郡波佐村は現在の島根県浜田市金城(かなぎ)町波佐(はざ)字長田にあたります。明治10年(1877)、10歳の時に広島へ出て進徳教校(現崇徳中・高校)で3年間漢籍などを学び、12歳の時得度し宗門に入りました。その後郷里に戻り、養父謙信から後継住職としての教育を受けます。明治18年(1885)、18歳の時に再び広島へ出て進徳教校に再入学しますが、4ヶ月後に退学し上洛して西本願寺の普通教校(現龍谷大学の前身の一部)で仏教を学びました。
 その後、22歳で上京し慶応義塾に入学しますが、まもなく哲学館(現在の東洋大学)に転学し、英語・サンスクリット語・中国語などを学びます。世界宗教としての新仏教を構想するため多くの外国語を学んだのです。その後、当時鎖国していたチベット(西蔵)への入境をめざします。明治維新以降の近代化の時代は「脱亜入欧」を目標としており、欧米の先端技術と文化を吸収しようとしていた時代でしたが、そうした風潮の中で古い仏教を見つめなおし、仏教の原点である古代インドの思想を学ぶためにチベット仏教に注目した、革新的な若手の仏教徒でした。


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なぜチベットなのか

 紀元前6~5世紀の古代インドに仏教は発祥しました。インドから西域を経て仏教が中国に将来されるのは後漢時代のことです。その後、唐の時代(7世紀)になって、玄奘三蔵がインドに長期滞在して本場の仏教を学び、多数の仏典を持ち帰り漢語に翻訳しました。しかし、その漢訳は道家(老子・壮子)や道教などの影響をうけて、意訳の部分が多くなったと言われています。そのため、古代インド仏典の意味を、必ずしも正確に伝えていません。
 一方、玄奘の生きた7世紀に始まるチベット仏教はサンスクリットと文字・言語が近似するため、古代インドの仏典をほぼ直訳で書き残しています(実際にはポン教の用語を使っていますが)。現在では古代インド仏典の多くが失われてしまいましたが、チベット仏典によってかなり正確なレベルで復元できると考えられています。こういうわけで、仏教の源流たる古代インドの思想を学びたい者はチベットを避けて通れないのです。




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チベットをめざして

 能海はサンスクリット学者、南條文雄のもとでチベット入りの準備を進め、第二次中国開教事業の一環として明治31年(1898)、12名の留学生の一人として中国入りします。現在チベットは中国領の一部になってしまいましたが、当時は独立した仏教国家であり、中国との間に軍事的緊張が高まっていました。チベットは鎖国状態にあり、外国人の入国は認められていません。そんな政治状況にあって、能海は3度入蔵に挑みました(↑)。第一回は四川ルートです。明治31年(1898)11月~明治32年10月。上図の赤いラインです。パタン(巴糖)に到着し、微かにチベット入りしたのですが、そこから内側に踏み入るのは拒まれて引き返します。第2回は青海ルートです。明治32年(1899)10月~明治33年10月。上図の青いラインです。第3回は雲南ルートです。明治33年(1900)10月~明治34年4月。上図の緑のラインです。3回目の明治34年4月、雲南省大理で妻にあてた手紙を投函し、能海最後の通信となりました。その後、行方不明の状態が続いていましたが、明治36年(1903)になって、雲南とチベットの境で殺害されたとの報告が親族に届きます。おそらく最後の地は中甸(今のシャングリラ)から徳欽に至るあたりであり、屏風岩の近くで匪賊に殺害されたと言われています(真相は謎のまま)。中甸~徳欽は、いま雲南省迪慶蔵族(デチェン・チベット族)自治州に属する中国側の辺境ですが、それは清朝以降、領土の奪い合いにより行政区が変転した結果であり、もとはチベットが領有するカム地方の一部をなしていました。


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河口慧海のこと

 能海寛に対比すべき人物として河口慧海(1866-1945)に触れないわけにはいきません。慧海も哲学館でサンスクリット語、チベット語などを学びました。その後、チベット語訳仏典の入手を決意し、チベットをめざします。ただし能海とは違って、インドを拠点にしてネパールからヒマラヤを超えるルートを選択します。慧海がインドに向けて神戸港を出航したのが明治30年(1897)。2年後の明治32年には仏教の聖地ブッダガヤからネパールの首都カドマンドゥまで移動します。能海が四川・青海経由のルートで悪戦苦闘していた時期と重なります。ネパールでは情報を集めつつ、高地山嶺を東北方に歩みを進めていきますが、警備が厳重であることからいったん入蔵を断念し、ネパールの山村に一年近く滞留して言語と仏法の修行を続けつつ抜け道を探し、ついにそのルートからチベット入りを果たします。チベットの首都ラサに到着したのは明治34年3月(1901)といいますから、まさに能海最後の時期と重なりあいます。その後、ラサのセラ寺で3年間チベット仏教を学び、日本に多くの仏典や標本をもたらしました。以後、河口慧海はチベット入国を成し遂げた最初の日本人として脚光を集めることになります。
 河口慧海と能海寛は同じような思想をもって、青年期には哲学館で同じ外国語を学びました。その後、中国から入蔵をめざした能海とインド・ネパール経由で入蔵を果たした慧海は、まともに明暗が分かれる結果となってしまいました。その移動ルートと願望成就の成否の関係は、なにやら経由した土地の、仏教に対する愛情と理解の度合いを反映しているように思われてなりません。(NS原文に教師加筆) 【続】


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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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