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新刊紹介-田中淡著作集1(そのニ)


四合院の多様性と源流

 『田中淡著作集1』は、いわゆる「民居」系の論考が比較的多くを占めており、それらは初期の翻訳業績と相関性がある。1970~80年代の若手時代、田中さんは、古代建築に関わる珠玉のような論文を書き続け、『中国建築史の研究』(弘文堂・1989)として刊行する一方、多くの中文・英文の専門書を翻訳された。その嚆矢となったのは、①劉敦楨『中国の住宅』(鹿島出版会SD選書、1976) であり、②アンドリュー・ボイド『中国の建築と都市』 (鹿島出版会、1979)などを経て、③中国建築科学研究院編『中国建築の歴史』 (平凡社、1989)で一つの完成形を迎える。これらの翻訳業績だけでも、他の追随を許さない圧倒的な存在感があり、少し失礼な物言いになるかもしれないが、一連の民居系の論考は翻訳の副産物というべきものかもしれない。とはいうものの、いずれも訳書の不足を的確に補い、まさに簡にして要を得る佳作集になっており、中国住宅史を学ぶ者が避けて通れない古典的必読文献だと言える。
 田中さんは漢族の閉鎖中庭型住宅の構成原理について北京四合院を代表例にして解読しつつ各地の地方類型を紹介するだけでなく、考古資料を駆使して、その起源にも言及している。殷墟以前の夏王朝期に遡りうる河南省偃師二里頭遺跡の宮殿群、陝西省岐山鳳翔周原建築遺跡(西周の宗廟跡)、 山東省臨淄朗家荘1号墓出土漆器に描かれた家屋図(東周)などは今となっては誰でも知っている中庭型の遺構・画像資料ではあるけれども、いずれも1980年代に田中さんが先んじて建築学界に紹介したものである。この種の重要な考古資料や復元研究は、ほとんどが田中さんの業績に刺激を受け、『考古』『文物』『考古学報』等を渉猟してまわった経験が思い出される。

干闌-中国古代建築史からみた日本

 田中さんは、閉鎖中庭型の宮室より以前の住まいについても論じている。たとえば、『礼記』礼運篇の「昔者(むかし)先王未だ宮室有らず。冬は則ち営窟に居り、夏は則ち樔巣す」に代表されるように、王の宮室がない時代にあって、冬は穴居し、夏は巣居(高床もしくは樹上居住)した、という慣用句が儒教古典の修辞として散見される。後には「冬と夏」の住み替えを「北と南」の地域差に入れ替える例も出てくるわけだが、この種の原初的建築についても、考古資料を幅広く検討され、さらには文献史料をも読み込んでその起源と展開を考察されている。第1部-9が穴居、とりわけ窰洞(ヤオトン=横穴住居)、同-10は「干闌」すなわち高床建築を主題とする。「干闌」を古くは「昆侖」と書いた。
 『漢書』武帝紀によれば、元封5(前106)年、武帝が天地に即位を知らしめる封禅の儀式を泰山で挙行したとき、かつて東北の山麓に黄帝が明堂を築いていたことを聞いてこれを再現したいと願ったが、建築形式がわからない。そこに公玉帯という済南人があらわれ、黄帝時代の明堂図を寄贈した。明堂図には「中に一殿あり。四面に壁なく、茅をもって蓋う。(略)複道をつくり、上に楼あり、西南より入る。命じて昆侖という。天子はこれより入り、以て上帝を拝祠す。」という添書があった。
 すなわち、黄帝が上帝を祀る明堂は、四面に壁のない茅葺きの高床建築(楼=昆侖)であり、複道とはおそらく空中廊下のように長い木階であろう。楊鴻勛先生(中国社会科学院考古研究所)は「西南より入る」という点にとりわけ注目し、「偶数間取りの古制に従うと、おそらく建物の各面を二間とし、木階は西面南側の柱間にあったはずである」として大社造最古の神魂神社本殿に近似する黄帝時明堂の復元図を描いておられる(『先史日本の住居とその周辺』同成社・1998)。神魂神社本殿にも似た高床建築をさす「昆侖」とは、タイ・カダイ語等の語彙 gan lan に近い音声を漢字で表記したものであり、それが後に「干闌」という漢語に入れ替わったのである。第1部ー10において田中さんは安志敏の考古学的知見などを踏まえつつ長江以南にこの種の高床建築がひろく分布していたことを推察して、中国建築は北の「穴(土)」と南の「巣(木)」が複合して成立したという斬新な視点をもたらしたわけだが、副題に掲げる「中国古代建築史からみた日本」を見通す最後の3行が私は今でもよく理解できないでいる。ここに引用しておく。

  『後漢書』東夷列伝・倭に「城柵・居室あり」と。また『魏志』倭人伝に「居処・宮室・
  楼観・城柵、厳かに設く」と。城柵といい、楼観というのは、その一方の伝統に属する
  こと、すでに明らかであろう。ただ、東夷といいつつ、干闌の蛮俗という直截的表現の
  見えない点を異にするにすぎぬ。

 按ずるに、「楼観」「城柵」は長江以南の伝統であるけれども、倭人伝は高床住居のことを直接的に表現していないだけだと言いたいのであろうか。しかしながら、倭は東夷の一群であり、東夷とは北方のツングースや古アジア語族の狩猟・漁労民であって、長江以南に展開した南蛮・百越などとは一線を画すべき雑多な集団である。東夷の一部としての倭の居住文化のベースはあくまで穴居であり、その中に大型もしくは高層の木造建築を含んでいただけのことであって、中原・華北とも長江以南とも異なる独自性を有していたと考えるべきであろう。これについては、長江を境界とする安志敏の南北二系統に加えて「東北系統」を想定した厳文明の三系統説が有効であり、最も北側にあたる新石器時代の東北系統が発展して東夷の文化に成長し、そこに中原や江南からの影響が部分的に及んだと理解したい。 



生と死の原理

 少し横道にそれてしまったが、本書はこうした概説系の小論ばかりではない。ひときわ異彩を放っているのが、第1部-2「生と死の原理」である。この文章は本格的な論文に近く、難解すぎるというほどではないけれども、どちらかといえば専門家向けの内容になっている。原載は、上田篤他篇『空間の原型 すまいにおける聖の比較文化』(筑摩書房・1983)。上田氏(当時大阪大学)が京都大学人文科学研究所(人文研)の併任となって組織した共同研究班「住まいにおける聖の比較文化」(1978~81)に田中さんも参加しており、記録をみると、79年3月7日に「中国建築の伝統と儀礼」、80年11月21日に「中国の方位」と題する発表をしている。おそらく後者に関わる論考として「生と死の原理」を執筆したのであろう。
 主題は住まいの方位観にある。漢代の字書『爾雅』釈宮にみえる室四隅の名称から出発し、建物は南面しつつ室の西南隅にあたる「奥(おう)」を上座とする習慣があった。生者の住まいにおける南が「天」の象徴である一方、死者の墓については「地」の象徴である北を優位とみなす。こうした陽宅(住居)と陰宅(墓)の方位観は明代以降、風水説として多くの流派を誕生させるのだが、その枝葉にこだわっても生産性の高い議論とはならない。田中さん自身、本論の最後に風水先生の用いる羅経を取り上げ、こうした乾羅盤の磁石が多用されるようになって風水説は著しく複雑化したであろうと推察しつつ、そうした呪術性は「中国の伝統にあってはむしろ晩期に属する」として唐突に論を閉じている。中国建築の場合、やはり重要であるのは古代の方位観であり、本論を「先秦時代宮室建築序説」(『東方学報京都』第52冊・1980、『中国建築史の研究』に再録)と併読されんことを強く薦めたい。

十字路の報時楼閣

 もう一篇、思い出深い作品がある。第1部-6「十字路の報時楼閣」(横山正編『時計塔』鹿島出版会・1986)。田中さんの書く短文は歴史的考証に関わるものが多いけれども、本論は西安の鼓楼をめぐる紀行文から出発する。時を告げる鼓楼もしくは鐘楼を城(まち)の中央十字路におく地方型の都市計画は結局のところ元大都に源流があるという。都市のど真ん中に配した鼓楼・鐘楼の時刻管理に使われたのが水時計である。水時計は中国において早くも後漢代から改良がくわえられ、初唐の呂才に至って明日香水落遺跡で発見されたような四段式水槽の精密な機械となった。挿図として、ジョセフ・ニーダムによる北宋・蘇頌の天文時計台の復元図が掲載されている。高層楼閣の露台に天体観測用の渾儀を置き、階下の暗室に一定量の水で駆動する水車を設ける。水車の回転が縦軸を伝わって階上の天球儀を運行させ、人形の報時装置を運転させる。なにやらプラハなどヨーロッパ歴史都市の中央広場に設けられた時計台のからくり人形を彷彿とさせるが、「中国の鐘楼とヨーロッパの時計塔とが、歴史のどこかでつながっていることも、あながちありえない話ではない」という一文で本稿を閉じている。慎重緻密な考証で知られる田中さんが、気楽な紀行文から始めて、最後は東西の交流を思わせぶりに匂わす点、他の論考とは趣きが異なり、抜刷を頂戴して読了した後、いつもとは違う軽やかな読後感を覚えたので記憶に残っているのだろう。ちなみに、田中さんが人文研で所属したのは科学史の研究室であり、助手時代には山田慶児教授の『授時暦の道』(みすず書房・1980)の表紙で元代天文台の復元パースを披露している。ニーダムのように天文時計台の内部までは表現していないが、田中さんが復元図を描くこと自体珍しいので、後続する著作集の表紙などに転用されることを期待している。 【続】
 

《連載情報》
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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