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大内青巒序-世界に於ける仏教徒(1)

 大内青巒(おおうちせいらん 1845-1918)は幕末に仙台藩宮城郡東宮浜に生まれた。常陸国水戸で出家し(曹洞宗)、その後江戸へ出て仏教の研究を志す。維新後は西本願寺第21世宗主の侍講をつとめたが、のちに還俗して在家主義を唱えた。別号を藹々居士(あいあいこじ)という。
 明治22年(1889)、哲学館主の井上円了(1858 - 1919)らとともに天皇崇拝に重きをおく仏教政治運動団体「尊皇奉仏大同団」を組織した。大正3年(1914)から哲学館を後継した東洋大学の学長に就任する。
 前期に部分的な口語訳に取り組んだ能海寛の主著『世界に於ける仏教徒』(1893)の序を大内青巒が書いている。いきなり禅問答のような文章から始まり、さらにまた活字に万葉仮名を絡めた独特の文体で、読みにくいから後にまわそうと決めて放置していたのだが、12月1日のシンポジウムの概要も固まってきており、口語訳してみようと思うに至った。読めないくずし字については会長にご指導いただいた。原文は以下のサイトをご覧いただきたい。

 http://hazaway.com/culture/noumi-yutaka/bukkyouto.html

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見色明心-「眼に於ける仏教徒」でありたいなら色(形)を見て心を明らかにすべきです。門声悟道-「耳に於ける仏教徒」でありたいなら声を聞いて道を悟るべきです。鼻に舌に体に心に、いずれに於いても仏教徒でありたいものです。家にあっては家の仏教徒でありなさい。国にあっては国の仏教徒でありなさい。みなそれぞれの因縁があるから果報があるのです。因果をごまかしてはいけないと知るならば、国にあっては国の因縁にふさわしい願行(がんぎょう)があるべきですし、家にあっては家の因縁にふさわしい願行があるべきです。今の世は世界交通の時代になっているとかで、謂ゆる「世界に於ける仏教徒」であろうと思う者がここにおります。石見の能海氏はその(世界の)因果をあきらかにし、その願行を著して一巻の書物に書き上げ、『世界に於ける仏教徒』と名付けました。それが今の世の急務だというけれども、世間のいう「世界」はわたしのいう「世界」とは異なっています。わたしのいう「世界」は時空無限の「世界海」のみをさします。世間にいう「世界」に於ける仏教徒にとどまらず、わたしのいう「世界」に於ける仏教徒でありたいと願う者はいるでしょうか。(世界は)ここにもあり、そこにもあります。わたしのいう「世界海」は昨夜忽然と芥子(けし)の実の中に入っていってしまいました。だから世間の人はこれ(世界海)を知らないのですよ、芥子はどこにあるのか。それは鼻頭(はなさき)にあり、舌端(したはし)にあります。色(形)となってあらわれてきます。声となって聞こえてきます。眼を開け、耳を開け。

    おもしろや 散るもみぢ葉も咲く花も
      おのづからなる法のみすがた

     癸巳(明治二六年)九月   藹々居士しるす





緒 言

一 本書は、ヨーロッパにおける宗教革命の時代に際して、我が仏教が世界に於ける仏教
  になるように、仏教徒はこれに対する一大準備が必要であることを論じたものである。

一 本書で論じる内容は著者が数年来事に接し時に感じて心秘かに考察してきた意見を
  いま一冊として編集したものである。

一 本書のタイトルについては、『新仏教徒論』と題していたが、他者の勧告により、また
  意義において大差ないので、あえて『世界に於ける仏教徒』と名づけた。


  明治二十六年八月
                     著 者 記

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【解題もどき】
 序冒頭の「見色明心」と「門声悟道」の対句は有名な禅語で、小さな色(形)のちがいやちょっとした音声を全身全霊五感をもって感じとることが悟りに近づく第一歩だと示唆している。そうしたミクロな次元に「世界」があるのだと青巒は言いたいのであろう。能海の羨望する海外=世界とは異なる次元で、自分の身の回りにも「世界」がある。それは時空無限の「世界海」である。欧米などの海外でも通用する新仏教徒になることも大事であろうが、個人の生活世界に眼を見開け、聞き耳を立てよ、と訓じている点、特異な序だと言わざるをえない。能海の主張に対する柔らかな批判とも受け取れるからである。
 芥子(けし)は古代インドの舎衛国(シュラーヴァスティー)を舞台とする仏教説話をイメージさせる。
 幼い男子を亡くしたばかりの女性キサー・ゴータミーが、遺体を抱えたまま「子供に薬を下さい、下さい」と狂ったように街中を練り歩いていた。ゴータミーは舎衛国を訪問していた釈尊の噂を聞き、そこまで出向いて同じように薬を求めた。釈尊答えて曰く、「よろしい、芥子粒を持ってきなさい。ただし、いまだ死人を出したことのない家からもらうんだよ」。ゴータミーはあちこち家を訪ねて芥子粒を探し回ったけれども、ついに条件を満たす芥子粒を得るに至らなかった。死人のでていない家などないと分かり、人生の無常を知って、ゴータミーは後に出家し悟りを開いたという。
 世界海とは芥子と同じでどこからも手に入らないし、だれも見ることのできないものだが、鼻や舌で微かに感じることもできるし、形や音となってあらわれることもある。それらの現象を注意深く観察し、聞き耳を立てなさい、と諭しているのである。この説法は能海に対してか、読者に対してか・・・
 
 いずれにしても緒言(及び本文)で能海が列記していることと、序で大内青巒が説く内容には乖離がある。青巒は本書の原稿に眼を通し、能海の意見に若干の違和感を覚えたため、素直な推薦文を書くことを躊躇ったような気がしてならない。欧米やチベットに視野を広げることが必ずしも仏教の向上や改革につながるわけではなく、結局は個人の問題に行きつくことを予見していたのではないだろうか。能見が芥子を探し回るゴータミーに重なってみえたのかもしれない。

 末文の一歌は青巒の作ではなく、有名な古歌を貼りつけたものである。散り落ちたもみじの葉であれ、咲く花であれ、すべて仏法の姿をあらわすものであり、全身全霊五感をもって感じ取れ、と暗示するものならば、冒頭の「見色明心、聞声悟道」の返しの役割を担わせていることになる。あるいはまた、落葉も咲く花も同じであり、仏法の御姿とは「空」であると言いたかったのかもしれない。



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Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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