雲のかなたへ−白い金色の浄土(9)


雲を巻く梅里雪山
9月16日(日)。運命の一日を迎えた。前夕、飛来神韵大酒店に泊まることになり、ロビーでチェックインを待っていると、シェフお薦めのメニューを記す黒板の上側に「日出 AM 6:57」と書いてあるのを発見した(↑右)。朝焼けに輝く梅里雪山の眺望を売りにしているホテルだけのことはある。会長の指示にしたがい、朝6時半ロビー集合が決まった。正しい判断ではあるけれども、個人的には厳しい宣告でもあった。体調が日に日に悪化していたからである。夕餉のあと、ほろ酔いで部屋に戻ると、そのままベッドで眠りに落ち、深夜2時ころに目が覚める。眠れなくなって、携行していた『評伝 河口慧海』かホップカークの『ラサ一番乗りをめざして』などをカバンから取り出し読み始めるのだが、なにぶん老眼が進んでおり、暗い部屋のなかで細かい文字を追うのに骨が折れる。結局、明け方まで眠れない。この反復に体は弱りきっていた。正直なところ、朝はゆっくりさせてもらいたいのだが、日の出は私を待ってくれない。

それにしても6時半集合は早すぎたようだ。エレベータで7階まで上がり、そこから階段で屋上に出る。あたりは暗く、寒い。海抜3,300mの高地であることをひしひし感じる。寒いから時間が進まない。日の出ぎりぎりまで部屋で待つべきであった。街中にコケコッコーの時報が響き渡るなか、7時前になって、山と反対の方角が赤らんでくる。が、肝心の雪山は雲に巻かれたまま山頂部を露わにしない。ほんの一瞬、主峰カワクボと神女峰メツモの頂が淡く垣間見えたが、時間差をもっての出来事である。寒い思いをして半時間ばかり屋上に陣取ったものの、「神の山」は山腹のごく一部を露わにしたにすぎなかった。


↑曇よりした雪山の風景。↓主峰カワクボ


屋上から2階におりてレストランで朝食をとる。日本からもちこんだ梅干、ふりかけ、お茶漬け海苔などはブータンではまれに取り出す程度だったが、雲南では毎回必携の状態になっていた。とくに院生のザキオ君は百均のふりかけがなくてはならない人生を送っていたが、わたしなど、すでにそれにもあき始めていた。ブータンであれほど美味しく感じた乾燥日本食品を食べすぎた結果である。しかしながら、梅干だけは別格である。疲れた身体を浄化し、再生してくれる日本独自のピクルス。4人全員がこの酸味の強い漬物を好んでおり、わたしが持ち込んだ梅干は品切れ状態になってしまった。でもまだ会長の梅干がある。ほのかな甘みのする梅干である。


8時に阿東にむけて出発するが、曇り空に変化はない。半時間で峠に至る(海抜2,965m)。チベット仏教において、峠がこの世とあの世の境としての聖地であることはアムド(青海)でもブータンでも経験した。雲南の奥地でも同じであり、タルチョやダルシンやマニダルがその意味を語ってくれるのだが、雲南の峠にはいまひとつ清浄さがない。それも、梅里雪山が雲に覆われているからかもしれない。




ザーアンの古民家
雲南省の「民家」について落胆の気持ちを隠せないでいた。80年代から90年代にかけて、伝統的な民家や歴史的景観の塊のような場所であった雲南の奥地がそうでなくなっている。大理と麗江の古城にしたって、あのころの自然な風情は失せ、どちらかといえば「作られた町並み」になっていることが残念でならなかった。わたしたちの心を揺り動かせたあのころの町並みが完全に改変されたわけでもないだろうに、それを受け継いでいま存在する町並みのうそ臭さは尋常ではない。しかしながら、そうして真実性を失った町並みが国内外の観光客を集めているのも事実なのである。中国は過去に戻れない。戻りようがない。ブータンは観光規制をかけでも、本来の自然と文化財を守ろうとしているのに・・・


9時前、徳欽県のザーアン(扎安)という集落を抜けるところで陸屋根の土壁建物が軒を連ねる風景にでくわした。海抜2,640m。チベット族の古い住居群である。道に沿う建物はほぼ全てが空き家になっていて、山側の後背地に新しい2階建の住宅を建てて住んでるようだ。空き家になっているが、嬉しい収穫ではあった。金沙江をこえ、シャングリラから徳欽に至るまで車窓にみえる農家群は新築の二階建ばかりであり、伝統的な民家を目にすることがなかったからである。
空き家群は、版築の壁で囲まれ、内部に一部柱を立てるようだが、基本的には壁構造にして、ほぼ水平に梁をわたし、下地を敷いて土屋根で覆う。西域などでよくみられる平屋の生土建築である。中央アジア系と言い換えてもよいかもしれない。

マニタイとは何か
9時半をすぎて車は阿東の谷筋に踏み入った。清流が山を切り裂くその風景は、どこか西ブータンに似ている。高度計をみると、海抜2,160mまで下がってきていて、パロやティンプーとほぼ平行の位置関係にあることが分かる。しばらく車を進めていくと、川沿いにマウンドがあり、多くのカラフルで装飾的な棒状の造形品を発見した。場所はパリジャ(八立加)近くで、周辺に家はない。
形状はご覧のとおり、基礎の上に立つ胴張り柱を横線で13程度に区分けし、頂部は法輪を突き抜け日・月を飾る。基礎の周辺には梵語または蔵語の呪文のような文字が書かれた板石を何枚か立てかけている。


現場では、道祖神説(会長)、ファルス説(何大勇)などあり、わたしは墓碑であろうと推定した。結局なんのことだか分からなかったが、阿東村の政府でポラロイドをみせたところ、名称はマニタイ(摩尼堆)といい、「一家で人が死んだ際に立てる標柱」であることがわかった。遺体や遺灰を地下に埋葬するわけではないが、死者1名に対して1本の標柱を立てる。日本の「卒塔婆」にあたる木製品であり、墓碑に似ている所以である。阿東村政府ではあやかめさんが鋭い質問をした。
「なぜこれらの標柱は東をむいているのですか」
という問いに対して、村役人はこう答えた。
「日の出の方向だから」


↑(左)頂部 ↑(右)↓基礎


マニタイはその後、いたるところでみた。村はずれや川縁、ストゥーパの近くなど、峠と同じで、この世とあの世の境とみなされている場所に建てられるのではないか。下は、川岸に近い巨岩の小島に建つ例である。 【続】

↑阿東新村ザシカディン
【連載情報】
雲のかなたへ-白い金色の浄土(1)
雲のかなたへ-白い金色の浄土(2)
雲のかなたへ-白い金色の浄土(3)
雲のかなたへ-白い金色の浄土(4)
雲のかなたへ-白い金色の浄土(5)
雲のかなたへ-白い金色の浄土(6)
雲のかなたへ-白い金色の浄土(7)
雲のかなたへ-白い金色の浄土(8)
雲のかなたへ-白い金色の浄土(9)
雲のかなたへ-白い金色の浄土(10)
雲のかなたへ-白い金色の浄土(11)
雲のかなたへ-白い金色の浄土(12)
雲のかなたへ-白い金色の浄土(13)
雲のかなたへ-白い金色の浄土(14)
二人の感想-ブータンから西北雲南の旧チベット領まで
雲のかなたへ-白い金色の浄土(15)
雲のかなたへ-白い金色の浄土(16)