雲のかなたへ-白い金色の浄土(11)


交通事故
口内を真っ赤にしながらの昼食を終え、いざ出陣。寺の境内から俯瞰したポラロイド写真を片手に、陸屋根のチベット族民家を探そうと意気軒昂になっている。ともかくまだ1棟もまともな伝統的チベット族民家をみていないし、況や仏壇をや・・・なんとか1棟だけでも調査して、ブータンのデータと比較したい。そうすることがわたしの今年度の主要な研究課題なのである。


わたしと学生2名を乗せた1号車は会長の乗る2号車を待つため、集落内道路の下り坂に車を停めた。正面に大きなトラックが停車している。荷台には高さ3m以上もトウモロコシの茎束が積み上げて載せてあり、その荷物の上に5人の農民が坐り込んでいた。その山積みトラックが突然、バックを始めた。背後に2号車が控える1号車は袋の鼠だ。運転するラオルオは、クラクションを何度も強く押す。しかし、その効果はまったくなく、トラックは後進をやめない。むしろ加速する一方であり、助手席のわたしは「あっ、あ~っ、あぁ~っ」と叫び声をあげながら両手で頭を抱え、上半身を猫のように丸めるしかなかった。トラックのバンパーが乗用車のボンネットを破壊したところでもう駄目かと覚悟を決めた。荷台満載のトウモロコシ束がミシミシミシッとフロントガラスにめり込んできた。しかし、幸運なことに、茎束がクッションになってガラスは割れなかった。割れなかったことが奇跡だと思った。

唖然としながら車を下りる。トラックの乗車口に近づくが、運転手は一向に下車する気配がないので、誰かが「下来!」となんどか叫んだ。運転手は重い腰をようやくあげ、座席を離れた。壊れた車のボンネットを呆然とみつめている。自分がやったことの重大さを目の当たりにして途方にくれているのだろうが、被害者に対してまったく謝罪の言葉がないので、また誰かが「謝りなさい」と指示すると、そっぽをむいたまま小声で「すいません」と呟いた。
ラオルオはただちに110番に通報した。同時に、周辺の農民が続々集まってくる。多勢に無勢である。一部の農民は、なぜトラックの後進を回避して右前にでなかったのか、とラオルオを責める。そんなスペースも時間もなかったことは助手席にいた私がいちばんよく分かっているので、非難者に対して意見を述べようとしたが、2号車の孫ドライバーから前に出ないよう嗜められた。ここは我々のホームではない。完全アウェイの状況であることを踏まえて行動しなければならない。ただでさえ、漢族とチベット族の関係は険悪であり、日本人4名は(心の底でチベット仏教側を支援しているが)所詮漢族の大学教員が連れてきた赤い体制側の集団でしかない。火中に栗を拾うような行為をして、日本人が民族対立に巻き込まれるのは賢明でないという思いやりであろう。

わたしと会長は、帰国のことを考え始めていた。2台のうち1台の専用車が失われた。4人の日本人はどのようにして帰国すればいいのか。幸い大きな荷物は飛来寺のホテルにおいている。第2車に4名全員乗り込めば、とりあえず飛来寺のホテルに帰ることはできるし、そこでタクシーをチャーターすればシャングリラまで移動できる。シャングリラから昆明まで飛ぶ翌日(17日)のMU5940便は16時の離陸なので、遅くとも15時までに空港に着けばボーディングに間に合うだろう。その場合、16日のうちにシャングリラまで戻ったほうがいいのか、それとも、16日は飛来寺に宿泊して明朝シャングリラに向かえばいいのか。選択肢をひろげるために、ともかく早めに飛来寺に戻ろうということになった。
事故現場にはラオルオと何さんが残る。警察や村人との交渉は困難を極めるだろうと思われた。いつもは頼りない大勇が、このときだけは頼もしく思えた。動揺していないのである。いつものとおり、ニコニコニヤニヤして平然と構えている。会長やわたしのように、そわそわおろおろしていない。有事にあって不安の色をみせない点、大器の片鱗をみせたといえば評価のしすぎかもしれない。空港の送迎には平気で遅刻するし、日本人を連れていくレストランは最悪に近く、講演会も突然キャンセルするなど、平時はいい加減きわまりない男の平静さに少し救われた気持ちになった。



屏風岩を探せ!
飛来寺に帰ることになったが、もちろん調査を完全に放棄したわけではない。民家は無理だろうけれども、能海寛最期の地の候補になっている阿東の「屏風岩」だけは確認しておきたいと思っていた。村政府での聞き取りによると、阿東から戻り道の途中約5kmのところに屏風岩はあるというので、あたりを見回しながら車を進めていった。ところが、2号車の孫ドライバーは徳欽周辺の地理に不案内であり、どこに何があるか知らないため、谷筋の道を右往左往した。もちろん路肩に住民をみつければ「屏風岩はどこ?」と訊ねるのだが、驚いたことに、だれも知識がない。近くに「鶏仙洞」という景勝地があって、大半の地元民はそこのことではないか、と答えるのだが、明らかに違うものであり、村役人も勘違いしていた可能性があるだろう。これはもう諦めるしかない、と思い始めていたころ、会長が「屏風のように岩が折り重なる場所がありましたよ」と言うので、とりあえずそこに行ってみることにした。


会長が最初に車を停めたのはいちばん上の写真(↑↑↑)の地点である。山上に巨岩はみえるが、それが「屏風」にみえるかは微妙なところであろう。しかし、ここは背面側なので屏風の形状にみえにくいのだそうである。そこからさらに山道を下っていくと、今度は大きなストゥーパ(チョルテン)があらわれた。このチョルテンは近くに数本のマニタイを伴っており、行きがけから気になっていたのだが、会長はむしろその上方にみえる山頂部の岩の形に注目していたらしい。


上から二番目の写真(↑↑)は正面側からチョルテンの相輪越しに山上を見通したものだが、頂部の巨岩はたしかに「屏風」のような形をしていないとは言えまい。会長の彗眼に驚かされたが、それでもなお、ここが「屏風岩」だという確証はない。『能海寛遺稿』(pp.245-252)には、1903年に阿墩子(徳欽)入りしたフランス人麝香商人ペロンヌからの情報として、阿東手前の関所で能海はクーソン族(チベット族)に殺されたという説が記されている。その関所は「道端の切り立った屏風岩」の近くにあったというので、会長がいう「屏風のように岩が折り重なる山」が屏風岩である可能性はかなり低いであろう。
ただし、その場所にチョルテンが置かれている事実を評価しないわけにはいかない。チョルテンの存在は、そこが「聖地」であることをアピールしており、チョルテン近くに立つマニタイの群れはこの場所が「辺土」であることを暗示している。そして、それらの宗教的象徴物が山上の巨岩(あるいは巨岩を含む山そのもの)と関係している可能性はきわめて高いと思われる。そもそも誰が「屏風岩」という地名をつけたのであろうか。少なくとも、地元のチベット族ではなく、外来の漢族もしくは日本人が命名者であったとしたら、チベット族農民にヒアリングしても埒があかないことになる。調査隊の心境を回想するならば、ここが「屏風岩」という証拠はないけれども、阿東にある重要な巨岩崇拝地であるのは間違いないので、推定「屏風岩」と納得せざるをえなかった。


山路渋滞
屏風岩もどきの聖地をあとにして、2号車は一路順調に飛来寺の街に向かう予定であったが、つづら折れの山道でまたトラブルに巻き込まれる。孫ドライバーは途中から異変に気づいていた。途中から対面通行の車が一両もなくなってしまったのである。「確実に渋滞が発生している」と孫さんは言うのだ。はたして、その通りであった。(おそらく落石で傷んだ)道路の修復をするため両面通行止めで工事をしているようで、長蛇の列をなす車は微動だにしない。やることがないので車外にでて、前方に停まる車の人たち(もちろんチベット族)とたわいもない話をし、調査不足でずいぶんフィルムの余ったポラロイドで撮影してあげると皆喜んだ。とりわけ、あやかめさんとペアの記念写真は大人気で、男どもが彼女にくっついて写真を撮ろうとするので、垂直チョップで二人を切り離すのに骨を折った。
結局渋滞を抜けるのに1時間半を要した。わたしは途中から車中で昼寝し睡眠不足をわずかに解消したが、他のメンバーはとても辛かったようだ。罰があたったのかもしれない。交通事故のおきた阿東に二人だけ残して日本人4名は帰途を急いだ。あそこは大勇のように泰然自若として、目的を遂行すべきであったのではないか。「屏風岩」についてはもっと執拗に証拠を探し、チベット族民家についても1棟ぐらい立ち寄る余裕はあったはずだ。そうした本来の活動をしていれば、渋滞に巻き込まれることもなく、スムーズに山を走れただろう。あせって逃げたばかりに道路工事の時間と重なって渋滞につかまってしまい、遅く出るのとほぼ同じ時刻での帰還になってしまったのだから。 【続】


【連載情報】
雲のかなたへ-白い金色の浄土(1)
雲のかなたへ-白い金色の浄土(2)
雲のかなたへ-白い金色の浄土(3)
雲のかなたへ-白い金色の浄土(4)
雲のかなたへ-白い金色の浄土(5)
雲のかなたへ-白い金色の浄土(6)
雲のかなたへ-白い金色の浄土(7)
雲のかなたへ-白い金色の浄土(8)
雲のかなたへ-白い金色の浄土(9)
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二人の感想-ブータンから西北雲南の旧チベット領まで
雲のかなたへ-白い金色の浄土(15)
雲のかなたへ-白い金色の浄土(16)