奇跡の雪山-ブータンとチベットの七年間(3)
5 梅里雪山 ―2018年9月
関空水没 そんなブータン調査から帰国したのが九月二日。一週間後の九日には、中国雲南省に飛び立つことになっていました。2015年に青海省(アムド)、2017年には青海経由でチベットのラサとツェタンを訪問していたのですが、今回は西北雲南の旧チベット領カム地方をめざしていたのです。カム地方はブータン国教ドゥク派の開祖パジョの出身地であるとともに、四年女子あやかめさんの卒論とも深く関わる地域です。あやかめさんは、能海寛(ゆたか)というチベット仏教求法僧に関わる研究に取り組んでいました。明治中期、能海は鎖国中のチベット一番乗りをめざして中国に渡ったのですが、明治34年(1901)、雲南省大理で消息を絶ちます。最後の手紙には、西北に進むと書いてあるので、大理から麗江を経由して金沙江を渡り、旧チベット領の中甸(ギャルタン)~徳欽(ジョル)あたりで横死した可能性が指摘されており、今回の調査はその道程を追跡するものでもあったのです。
帰国の二日後、台風21号の猛威により関西国際空港が水没してしまいます。急ぎ手を打ち、旅行社に電話して岡山か広島からの出発に切り替えるよう頼んだのですが、事態は予想以上に深刻でした。わたしたちにあてがわれた代替チケットは「十二日の新潟空港発」だったのです。大袈裟ではなく、気が遠くなりそうでした。学生二名には苦労をかけました。鳥取から夜行バスで東京に移動し、北陸新幹線で新潟まで北上、そこから飛行機に乗って上海で入国。国内線に乗り換えて雲南省都の昆明に着いたのは十二日の深夜のことでした。
神の山―梅里雪山 昆明入りの翌日、能海が付人に手紙を託した大理に一泊し、そのまた翌日には金沙江を越えて中甸に至りました。海抜3,150m。案内役を務めた何大勇教授(雲南民族大学)は能海がこの地まで来た可能性は低いと思っています。明治期には金沙江の畔に関所があり、日本人が突破できたはずはないと言うのです。翌日、つづら折の山道をさらに北行し、海抜4,000mの峠(白馬雪山1号トンネル)を越えて、夕方、徳欽の市街地に到着しました。宿泊地には六キロ郊外にある飛来寺の町(海抜3,300m)の高層ホテルを確保しました。梅里雪山を遥拝するに条件のよい場所に陣取る必要があったからです。
1991年の正月、日中合同の学術登山隊17名が梅里雪山の初登頂をめざしていました。登山は順調に進んでいたのですが、一月三日から突然の降雪があり、翌四日、主峰カワクボ(6,740m)に近い第3キャンプ地で雪崩の直撃を受け、登山隊は全滅しました。中国登山史上最悪の遭難とされています。山麓のチベット族は「神の山」への冒涜だとして登山に強く抵抗しており、聖山を汚す者は死に至ると予言しており、結果はそのとおりになったのです。
不機嫌な雪山 9月16日(日)。運命の一日を迎えました。ロビーの案内板に書かれた「日出 AM 6:57」にあわせて全員が屋上にあがり、日の出を待ちながらカメラを構えていました。七時前になって、山と反対の方角が赤らんできたのですが、肝心の雪山は雲に巻かれたまま山容を露わにしません。いつも雲に隠れて姿をみせない聖山に落胆しながらも、それは想定内の出来事でもありました。ここに至るまでの車中で、旧友の運転手ラオルオは「運がよければ雪山がみえる」と繰り返していたからです。雲南省の知事は三度訪れて一度もみていないし、北京在住の友人は四度挑戦したが、ついに遥拝が叶わなかった。況や、我々をや・・・
朝食を済ませ、約50km離れた阿東というチベット族の農村をめざします。昼前に到着し、まずは村政府(役場)にむかうのですが、あやかめさんの姿がみえません。動物好きの彼女は、牛の群れの撮影に熱中していたのです。牛追いに追われて町並みを走りすぎる牛たちは純粋なヤクではなく、ヤクとカウの混血種と思われます。カウベルの音がやわらかで微笑ましい。
役場で挨拶した後、少し上手の崖に建つプソナヨン寺を訪問しました。マニ車を手にもつ老女三名が僧院をなんども周回しています。輪廻のための供養なのかもしれません。役場でも僧院でもあやかめさんは大人気です。いつもニコニコ笑顔を絶やさず、だれとでも気軽に記念撮影してくれるから(写真8)。ポラロイドでスナップを撮影し差し上げるとチベット族のみなさんはとても喜びます。漢族とチベット族の緊張緩和を彼女が担ってくれているようでした。
写真8 阿東プソナヨン寺での記念撮影(2018年9月)
トラック・バック 村の小さな食堂で辛い方便麺(カップラーメン)をたいらげ、午後の民家調査に向かうため車に乗ります。わたしと学生二名を乗せた1号車は後続の2号車を待つため、集落内道路の下り坂に車を停めていました。正面に大きなトラックが停車しています。荷台には高さ三メートル以上もトウモロコシの茎束が積載されており、荷物の上に五人の農民が坐り込んでいます。その山積みトラックが突然、バックを始めたのです。背後に2号車が控える1号車は袋の鼠。運転するラオルオは、クラクションを何度も強く押しました。しかし効果はまったくなく、トラックは後進をやめるどころか加速する一方であり、助手席のわたしは叫び声をあげながら両手で頭を抱えました。トラックのバンパーが乗用車のボンネットを破壊したところでもう駄目かと覚悟したのですが、荷台満載のトウモロコシ束がクッションとなり、フロントガラスは割れませんでした。九死に一生を得るとはこのことです。
運転手のラオルオはただちに110番に通報しました。同時に、村の農民が続々と現場に集まってきます。多勢に無勢。ここは我々のホームではない。完全アウェイの状況です。わたしは事故直後から帰国のことを考え始めていました。四人の日本人はどのようにして帰国すればいいのか。ともかく日本人だけでも早めに飛来寺のホテルに戻って対策を考えようということになりました。
屏風岩を探せ 帰途についたものの、調査を放棄したわけではありません。少なくとも、能海最期の地の候補である「屏風岩」だけは確認したいと思い、役場で情報を得ていたのですが、2号車のドライバー、孫さんは徳欽周辺の地理に不案内であり、谷筋の道を右往左往するばかり。そんなとき、会長が「屏風のように岩が折り重なる山がありましたよ」と言うので、そこに行ってみることにました。山頂の岩はたしかに屏風のようにみえましたが、それだけでは「屏風岩」であるとの証拠にはなりません。『能海寛遺稿』(245-252ベージ)には、1903年に阿墩子(徳欽)入りしたフランス人麝香商人ペロンヌの情報として、阿東手前の関所で能海はクーソン族(チベット族)に殺されたという説が記されています。その関所は「道端の切り立った屏風岩」の近くにあったと言います。ですから、会長がいう「屏風のように岩が折り重なる山」が屏風岩である可能性はかなり低いと言えます。ただし、ただし、その場所は山裾の平場に大きなストゥーパ(多宝塔)が建っていて、数本のマニタイ(死者を祀る木製の卒塔婆)を伴っています。ストゥーパとマニタイはその場所が聖地であり、辺土であることを示しています。
その聖地をあとにして、一路順調に飛来寺に向かっていましたが、つづら折れの山道で落石による道路の修理があり、長蛇の渋滞に巻き込まれたのです。二時間ばかり車は微動だにしませんでした。ここでもあやかめさんが活躍しました。前後にひしめく車のチベット族の人たちと盛んに記念撮影してくれたのです。
奇跡の雪山 午後六時過ぎになってようやくホテルに戻りました。二階のレストランで雲南小粒珈琲を啜りながら、阿東に残してきた二名の帰還を待ちます。電話連絡すると、二人はバスに乗って帰路にあるらしく、すでに渋滞も解消しているとのことで、七時ころレストランに姿をあらわしました。
「四十年以上ドライバーをやっているが、こんな事故に遭ったのは初めてだ」
とラオルオは言い、
「四十年近く海外のフィールドワークをやっているが、交通事故に遭ったのは初めてさ」
とわたしは答えます。事故現場での加害者、警察との交渉は難儀をきわめたようです。トラックの運転手は何度尋問されても、ついに車をバックさせた理由を説明することはなく、賠償金についても「三万元(約五万円)が限度だ」と言って譲らなかったそうです。そんな野暮な話をさえぎるように、突然、何さんが笑顔で告げます。
「雪山がみえますよ!」
一同仰天し、屋上に駆け上がりました。さきほどまで雪山を隠していた白い雲が飛散しているではありませんか。関空水没以後、トラブルの連続で、ついには交通事故にも遭い、駄目押しの渋滞に辟易させられた日の夕べに雪山はその全容を露わにしたのです。これまでの苦労がすべて報われていくような気持ちになりました(写真9)。その神聖な山容は翌朝まで変わることはなく、噂に聞く「金色(こんじき)の梅里雪山」を遥拝することになります。以下、あやかめさんのレポートを要約引用します。
写真9 夕暮れの梅里雪山(2018年9月)
朝焼けに輝く金色の浄土 9月17日早朝。部屋のカーテンを開けてみれば、少しだけ空が明るくなり始めています。急いで準備して屋上まで行くと、薄暗い空気のむこうに梅里雪山が頂上まで姿を現していました。夢中でシャッターを切り、カメラにその姿を収めます。そうこうしているうちに反対側の山から朝日が昇ってきて、ついに待ちわびた瞬間がやってきました。梅里雪山の峰々が朝日を映し出し、金色に輝く姿へと変わったのです。関空水没から昨日までに起きた事故や不運な出来事がすべて吹き飛んでしまうほどの感動的な光景でした。最初からずっと屋上にいたホテルのマネージャーさんが語りかけます。「もう二ヶ月以上、このような姿をみていません」。わたしたちがどれだけ幸運だったかということです。
一通り写真を撮り終え、皆満足した様子でした。私はあと一時間ぐらい撮りたい気分でしたが(笑)、ずっと撮っているわけにもいかないので、撤収して朝食会場に向かいました。朝食後、荷物をまとめ、ロビーにいると、S先生から「ホテルを出て道路を渡って雪山の方を見てごらん」と言われました。表にでてみれば、通りの奥にまたまた綺麗な梅里雪山を仰ぎ見ることができました。こちらは雲一つない真っ青な空に雪山が浮き上がっています。この朝夕でいろんな表情を見せてくれた梅里雪山でしたが、どれも本当に美しかったです。
今だから告白できますが、わたし(教師)は「梅里雪山を遥拝できる」という自信めいたものを心奥に秘めていました。それは調査隊にあやかめさんが加わっていたからです。いつも笑顔を絶やさず、だれにも優しい彼女はとても良い運気をもった人物であり、そんな彼女が雪山をみれないはずはない。同伴した男3名もそんな幸運のお相伴に預かれるはずだ、という楽観的な予感です。梅里雪山の主峰カワクボは中国名を「太子峰」という男性神ですが、連峰左手前のメツモは「神女峰」と呼ばれています。神女は機嫌が悪ければ魔女になって雲間に隠れ、機嫌が良ければ女神に戻って姿をあらわす(写真10)。そんな女神があやかめさんとかりそめの対話を楽しんだのかもしれません。【完】
写真10 朝陽に輝く梅里雪山の神女峰メツモ
関空水没 そんなブータン調査から帰国したのが九月二日。一週間後の九日には、中国雲南省に飛び立つことになっていました。2015年に青海省(アムド)、2017年には青海経由でチベットのラサとツェタンを訪問していたのですが、今回は西北雲南の旧チベット領カム地方をめざしていたのです。カム地方はブータン国教ドゥク派の開祖パジョの出身地であるとともに、四年女子あやかめさんの卒論とも深く関わる地域です。あやかめさんは、能海寛(ゆたか)というチベット仏教求法僧に関わる研究に取り組んでいました。明治中期、能海は鎖国中のチベット一番乗りをめざして中国に渡ったのですが、明治34年(1901)、雲南省大理で消息を絶ちます。最後の手紙には、西北に進むと書いてあるので、大理から麗江を経由して金沙江を渡り、旧チベット領の中甸(ギャルタン)~徳欽(ジョル)あたりで横死した可能性が指摘されており、今回の調査はその道程を追跡するものでもあったのです。
帰国の二日後、台風21号の猛威により関西国際空港が水没してしまいます。急ぎ手を打ち、旅行社に電話して岡山か広島からの出発に切り替えるよう頼んだのですが、事態は予想以上に深刻でした。わたしたちにあてがわれた代替チケットは「十二日の新潟空港発」だったのです。大袈裟ではなく、気が遠くなりそうでした。学生二名には苦労をかけました。鳥取から夜行バスで東京に移動し、北陸新幹線で新潟まで北上、そこから飛行機に乗って上海で入国。国内線に乗り換えて雲南省都の昆明に着いたのは十二日の深夜のことでした。
神の山―梅里雪山 昆明入りの翌日、能海が付人に手紙を託した大理に一泊し、そのまた翌日には金沙江を越えて中甸に至りました。海抜3,150m。案内役を務めた何大勇教授(雲南民族大学)は能海がこの地まで来た可能性は低いと思っています。明治期には金沙江の畔に関所があり、日本人が突破できたはずはないと言うのです。翌日、つづら折の山道をさらに北行し、海抜4,000mの峠(白馬雪山1号トンネル)を越えて、夕方、徳欽の市街地に到着しました。宿泊地には六キロ郊外にある飛来寺の町(海抜3,300m)の高層ホテルを確保しました。梅里雪山を遥拝するに条件のよい場所に陣取る必要があったからです。
1991年の正月、日中合同の学術登山隊17名が梅里雪山の初登頂をめざしていました。登山は順調に進んでいたのですが、一月三日から突然の降雪があり、翌四日、主峰カワクボ(6,740m)に近い第3キャンプ地で雪崩の直撃を受け、登山隊は全滅しました。中国登山史上最悪の遭難とされています。山麓のチベット族は「神の山」への冒涜だとして登山に強く抵抗しており、聖山を汚す者は死に至ると予言しており、結果はそのとおりになったのです。
不機嫌な雪山 9月16日(日)。運命の一日を迎えました。ロビーの案内板に書かれた「日出 AM 6:57」にあわせて全員が屋上にあがり、日の出を待ちながらカメラを構えていました。七時前になって、山と反対の方角が赤らんできたのですが、肝心の雪山は雲に巻かれたまま山容を露わにしません。いつも雲に隠れて姿をみせない聖山に落胆しながらも、それは想定内の出来事でもありました。ここに至るまでの車中で、旧友の運転手ラオルオは「運がよければ雪山がみえる」と繰り返していたからです。雲南省の知事は三度訪れて一度もみていないし、北京在住の友人は四度挑戦したが、ついに遥拝が叶わなかった。況や、我々をや・・・
朝食を済ませ、約50km離れた阿東というチベット族の農村をめざします。昼前に到着し、まずは村政府(役場)にむかうのですが、あやかめさんの姿がみえません。動物好きの彼女は、牛の群れの撮影に熱中していたのです。牛追いに追われて町並みを走りすぎる牛たちは純粋なヤクではなく、ヤクとカウの混血種と思われます。カウベルの音がやわらかで微笑ましい。
役場で挨拶した後、少し上手の崖に建つプソナヨン寺を訪問しました。マニ車を手にもつ老女三名が僧院をなんども周回しています。輪廻のための供養なのかもしれません。役場でも僧院でもあやかめさんは大人気です。いつもニコニコ笑顔を絶やさず、だれとでも気軽に記念撮影してくれるから(写真8)。ポラロイドでスナップを撮影し差し上げるとチベット族のみなさんはとても喜びます。漢族とチベット族の緊張緩和を彼女が担ってくれているようでした。

トラック・バック 村の小さな食堂で辛い方便麺(カップラーメン)をたいらげ、午後の民家調査に向かうため車に乗ります。わたしと学生二名を乗せた1号車は後続の2号車を待つため、集落内道路の下り坂に車を停めていました。正面に大きなトラックが停車しています。荷台には高さ三メートル以上もトウモロコシの茎束が積載されており、荷物の上に五人の農民が坐り込んでいます。その山積みトラックが突然、バックを始めたのです。背後に2号車が控える1号車は袋の鼠。運転するラオルオは、クラクションを何度も強く押しました。しかし効果はまったくなく、トラックは後進をやめるどころか加速する一方であり、助手席のわたしは叫び声をあげながら両手で頭を抱えました。トラックのバンパーが乗用車のボンネットを破壊したところでもう駄目かと覚悟したのですが、荷台満載のトウモロコシ束がクッションとなり、フロントガラスは割れませんでした。九死に一生を得るとはこのことです。
運転手のラオルオはただちに110番に通報しました。同時に、村の農民が続々と現場に集まってきます。多勢に無勢。ここは我々のホームではない。完全アウェイの状況です。わたしは事故直後から帰国のことを考え始めていました。四人の日本人はどのようにして帰国すればいいのか。ともかく日本人だけでも早めに飛来寺のホテルに戻って対策を考えようということになりました。
屏風岩を探せ 帰途についたものの、調査を放棄したわけではありません。少なくとも、能海最期の地の候補である「屏風岩」だけは確認したいと思い、役場で情報を得ていたのですが、2号車のドライバー、孫さんは徳欽周辺の地理に不案内であり、谷筋の道を右往左往するばかり。そんなとき、会長が「屏風のように岩が折り重なる山がありましたよ」と言うので、そこに行ってみることにました。山頂の岩はたしかに屏風のようにみえましたが、それだけでは「屏風岩」であるとの証拠にはなりません。『能海寛遺稿』(245-252ベージ)には、1903年に阿墩子(徳欽)入りしたフランス人麝香商人ペロンヌの情報として、阿東手前の関所で能海はクーソン族(チベット族)に殺されたという説が記されています。その関所は「道端の切り立った屏風岩」の近くにあったと言います。ですから、会長がいう「屏風のように岩が折り重なる山」が屏風岩である可能性はかなり低いと言えます。ただし、ただし、その場所は山裾の平場に大きなストゥーパ(多宝塔)が建っていて、数本のマニタイ(死者を祀る木製の卒塔婆)を伴っています。ストゥーパとマニタイはその場所が聖地であり、辺土であることを示しています。
その聖地をあとにして、一路順調に飛来寺に向かっていましたが、つづら折れの山道で落石による道路の修理があり、長蛇の渋滞に巻き込まれたのです。二時間ばかり車は微動だにしませんでした。ここでもあやかめさんが活躍しました。前後にひしめく車のチベット族の人たちと盛んに記念撮影してくれたのです。
奇跡の雪山 午後六時過ぎになってようやくホテルに戻りました。二階のレストランで雲南小粒珈琲を啜りながら、阿東に残してきた二名の帰還を待ちます。電話連絡すると、二人はバスに乗って帰路にあるらしく、すでに渋滞も解消しているとのことで、七時ころレストランに姿をあらわしました。
「四十年以上ドライバーをやっているが、こんな事故に遭ったのは初めてだ」
とラオルオは言い、
「四十年近く海外のフィールドワークをやっているが、交通事故に遭ったのは初めてさ」
とわたしは答えます。事故現場での加害者、警察との交渉は難儀をきわめたようです。トラックの運転手は何度尋問されても、ついに車をバックさせた理由を説明することはなく、賠償金についても「三万元(約五万円)が限度だ」と言って譲らなかったそうです。そんな野暮な話をさえぎるように、突然、何さんが笑顔で告げます。
「雪山がみえますよ!」
一同仰天し、屋上に駆け上がりました。さきほどまで雪山を隠していた白い雲が飛散しているではありませんか。関空水没以後、トラブルの連続で、ついには交通事故にも遭い、駄目押しの渋滞に辟易させられた日の夕べに雪山はその全容を露わにしたのです。これまでの苦労がすべて報われていくような気持ちになりました(写真9)。その神聖な山容は翌朝まで変わることはなく、噂に聞く「金色(こんじき)の梅里雪山」を遥拝することになります。以下、あやかめさんのレポートを要約引用します。

朝焼けに輝く金色の浄土 9月17日早朝。部屋のカーテンを開けてみれば、少しだけ空が明るくなり始めています。急いで準備して屋上まで行くと、薄暗い空気のむこうに梅里雪山が頂上まで姿を現していました。夢中でシャッターを切り、カメラにその姿を収めます。そうこうしているうちに反対側の山から朝日が昇ってきて、ついに待ちわびた瞬間がやってきました。梅里雪山の峰々が朝日を映し出し、金色に輝く姿へと変わったのです。関空水没から昨日までに起きた事故や不運な出来事がすべて吹き飛んでしまうほどの感動的な光景でした。最初からずっと屋上にいたホテルのマネージャーさんが語りかけます。「もう二ヶ月以上、このような姿をみていません」。わたしたちがどれだけ幸運だったかということです。
一通り写真を撮り終え、皆満足した様子でした。私はあと一時間ぐらい撮りたい気分でしたが(笑)、ずっと撮っているわけにもいかないので、撤収して朝食会場に向かいました。朝食後、荷物をまとめ、ロビーにいると、S先生から「ホテルを出て道路を渡って雪山の方を見てごらん」と言われました。表にでてみれば、通りの奥にまたまた綺麗な梅里雪山を仰ぎ見ることができました。こちらは雲一つない真っ青な空に雪山が浮き上がっています。この朝夕でいろんな表情を見せてくれた梅里雪山でしたが、どれも本当に美しかったです。
今だから告白できますが、わたし(教師)は「梅里雪山を遥拝できる」という自信めいたものを心奥に秘めていました。それは調査隊にあやかめさんが加わっていたからです。いつも笑顔を絶やさず、だれにも優しい彼女はとても良い運気をもった人物であり、そんな彼女が雪山をみれないはずはない。同伴した男3名もそんな幸運のお相伴に預かれるはずだ、という楽観的な予感です。梅里雪山の主峰カワクボは中国名を「太子峰」という男性神ですが、連峰左手前のメツモは「神女峰」と呼ばれています。神女は機嫌が悪ければ魔女になって雲間に隠れ、機嫌が良ければ女神に戻って姿をあらわす(写真10)。そんな女神があやかめさんとかりそめの対話を楽しんだのかもしれません。【完】
