ヒマラヤの魔女(6)

チベット死者の書(1)
11月8日(木)のプロジェクト研究は、1・2年合同でDVD『チベット死者の書』を鑑賞した。1993年9月23日にNHKスペシャルとして放送されたドキュメンタリー(1)「仏典に秘めた輪廻転生」、翌24日放送の同(2)『死と再生の49日』、さらに同年2月にダラムサラでおこなわれたダライ・ラマ単独インタビュー「チベット仏教の叡智を語る―瞑想・死・輪廻転生・日本人へのメッセージ―」の3部構成からなる2枚組DVDのうち、ドキュメンタリー(1)のみを視た。その感想文のうち早く届いた2作を掲載する。いずれも力作である。
バルド・トドゥル-死にゆく人との対話
インドのラダック地方は長いあいだ排他的な文化を保っていたので、チベット仏教の教えがそのまま残っている。「バルド・トドゥル」とは「死者の書」という意味。バルドとは「死」から「生」までの間を意味する言葉である。死んだ者は49日間バルドをさまよい、解脱をするか六道のうちのいずれかに入る。
死にゆく人たちだけでなく、生きている人に対しても説かれている。解脱への祈り・教え。ラダッタでは、遺骨(古い肉体)は古くなって捨てられた服と同じようなもので、それに執着することはない。そのため、墓は存在しない。「チベット死者の書」を原点としたダイイング・プロジェクト(Dying Project)がアメリカに存在する。余命宣告された人たちと積極的に「死」への会話を行い、彼らが「死」に向き合えるよう、「バルド・トドゥル」の教えを説く。
教えを説くのは「最後」が一番有効
チベット仏教では、科学・医学の発達した現代社会とは逆の考え方をしていると感じた。私たちは「死」を恐ろしいもの、避けるべきものとして扱っているが、チベット仏教を信仰している人たちの中に死を恐れている人はいなかった。それどころか、死を待ち望んでいる人さえいた。彼らにとっての「死」は、身近なモノの一つであり、「来世」への通過点でしかないからである。日常生活から「死」が隔離されている現代社会では、私たちがそれについて考える機会はあまり多くない。身近な人が死んだときに、初めて「人は必ず死ぬ」という現実を突きつけられるのである。それほどまでに、私たちは「死」になじみがない。そもそも、日本人には特定の宗教を信仰している人が少ないため、よその国よりも死後のことに興味をもつ機会が少ないのではないか。
このDVDを視て、私たちも彼らのようにもっと「死」と向き合うべきだと思った。生きとし生けるものはいつか必ず死んでしまうのだから、「これは他国のことだ。私には関係ない」と、「死」から目をそらしていてはいけない。そのためにも、ダイイング・プロジェクトを広めるべきである。
宗教に関心の薄い日本人に対して教えを説き、チベット仏教に引き入れるのは難しい。たいていの人が「そういう考え方もあるのだな」と思うだけである。そこから何かを感じたとしても、「死」から隔離された社会の中にいては、ほとんどの人がすぐに忘れてしまうだろう。そこでこのダイイング・プロジェクトである。布教活動をするのではなく、自分と向き合う過程の中で「死者の書」の教えを感じてもらう。これならば、布教活動のように警戒されることなく、すんなりと受け入れてもらえるはずである。「死」から隔離された社会で生きる私たちにとって、常に「死」と向き合うことは容易ではない。だから、教えを説くのは「最後」が一番有効であり、それだけで十分なのではないか。最後に残された短い時間だけでも「死」と向き合い、「死」に備えていれば、彼らのように死を恐れず待ち望めるようになるのではないか。死を恐れるのではなく、「もうやり残した事は何もないから、早く死にたい」と言えるようになれたなら、どれだけ幸せな気持ちでこの世を去れるだろうか。
「死者の書」の教えからしてみれば、「延命」など何の意味もないように思える。わざわざ古い服を着続けているようなものだから。しかし、私は医学で寿命を引き延ばすことが悪いとは思わない。失い、悲しむことになるのは必ず「残された方」なのだから、死んでいく人の家族や友人の気持ちを考えたら、延命もある意味「救い」と呼べるのである。(環境学部1年SE)

埋蔵経としての「死者の書」
「チベット死者の書 仏典に秘められた輪廻転生」というDVDを鑑賞した。人の死のあり方について考える作品である。まず、サンフランシスコにあるカミングホーム・ホスピスという施設がでてくる。ホスピスは半年以内に死を迎える人のための施設である。1973年以降20年以上も、死を積極的に肯定し、死にゆく人との対話を続ける「ダイイング・プロジェクト」が組織される。ダイイング・プロジェクトは、まず死を恐れて生きている人に生と死の本来の意味を取り戻させることから活動を始めた。ホスピスにいる一人の男性は死を宣告され死を恐れていたが、ダイイング・プロジェクトを支えていた人に、死の本来の意味を諭され、死への恐れが薄れていった。
次に、ラダックが画面にあらわれる。ラダックの人たちは毎年正月に全身を大地に擲つ「五体投地」をして仏を祈る。五体投地は、この世の全てを輪廻の苦悩から救おうとする祈りの行である。そして、仏教の根本的な立場は、この世に生まれることを苦しみだと捉えている。生まれたものは必ず病にかかり、最後に死を向かえるからである。チベット仏教には「埋蔵経」という経典が数種あり、「チベット死者の書」も埋蔵経の一つである。経典は8世紀末にインドからチベットに仏教を伝えたパドマサンババによって伝えられたと言われていたが、その経典は一時失われ15世紀に再び埋蔵経として発見された。「チベット死者の書」はチベット語でバルド・トドゥルという。経典には人は死の瞬間に光に包まれ最高の喜びをえると記されている。チベット仏教によると、生命の本質は心であり、心の本体は純粋な光であって、死はその心から解放されると教えられている。

古い衣服を脱ぎ捨てるように
さらに、タール村での死と再生の49日間について展開していく。ある日タール村では一人の男性が亡くなった。女性は死者が出ると台所に籠り死者への弔いをする。なぜなら、死者の遺体の場所は隔離され、家族が入ることを許されないからである。僧侶はそこに入り、49日間「バルド・トドゥル」を読経する。それから、古い暦を使って死者の生まれた日時と亡くなった日時を相(み)て火葬の日を決める。火葬に女性は参加することができなくて、男性だけで儀式を行う。火葬を終えると、死者が蘇ることを信じる人は死者への執着をなくすため死者の遺品は寺に渡す。遺骨は家族の人が山に捨てに行く。他国では亡くなったあとも死者への気持ちは忘れないが、ラダックの人たちは死者の遺骨は古い服を脱ぎ捨てるようにしか思わない。だから、死者への特別な感情は一切ないのである。
「チベット死者の書」は、死者だけではなく生きている人に対しても説法がなされており、その経典には死を思い死を見つめることが真の人生を作り出すという秘密が込められていた。
死が生から解放される瞬間だとすれば
この「チベット死者の書 仏典に秘められた輪廻転生」というDVDを見て、死という現象の本来の意味の素晴らしさを理解できるような気がしてきました。また、ラダックの人たちが少し可哀そうだと思いました。なぜなら、ラダックの人たちは肉親を亡くしたら、その人に対する執着をなくすために、亡くなった人の遺品を寺に渡すことはまだしも、肉親の遺骨を墓に埋葬するのではなく適当に山に行ってゴミを捨てするかのように廃棄する行為は、さすがに悲しいと思うのです。そして私は幼い頃を思い出しました。幼い頃にジブリ映画の「ゲド戦記」という映画に出てくる「永遠の命」をその時欲しいと思いました。父に永遠の命はあるのかと訊ねてみると、父は「そんなものはないよ、人はいずれ必ず死ぬんだよ」と言われ、私はしばらくの間死ぬことへの恐れを感じていました。しかし、「チベット死者の書」に書かれているように、死ぬことは生から解放される瞬間であり、また新たに生まれ変わる出発点であると考えるならば、死は素晴らしいものだと知りました。(環境学部1年KK)
[参考文献]
2018/11/11(土) http://www.ghibli.jp/tibet/about/