囍来登記(2)


蘇州夜曲
「蘇州夜曲」は李香蘭(山口淑子)のために書かれた楽曲であり、李香蘭が主演した映画「支那の夜」(1940)の劇中歌ではあるけれども、最初にレコーディングしたのは渡辺はま子・霧島昇である。作詞・西條八十、作曲・服部良一の名曲であり、じつに多くの歌手がカバーしている。とくに驚くのは、キャラメル・ママをバックに歌う雪村いずみのバージョン(1994)。ぜひ聴いてみてください。
・蘇州夜曲(李香蘭)
https://www.youtube.com/watch?v=UZyg3Jg6B3A


寒山拾得
「蘇州夜曲」の歌詞に登場する寒山寺は南朝(6世紀初)まで由緒が遡り、唐の貞観年間(627 - 649)に瘋狂聖、寒山が草庵を営んだと伝承される。張継が「楓橋夜泊」を詠んだのは8世紀中頃であり、伽藍の創建は8~9世紀であろうとされる。唐宋時代は隆盛を極めたが、元末以降なんども火災で焼失し、現存建物は清末の重建だが、近年の大改修もおおいに目につく。わけても目障りなのが人字形中備と卍崩し高欄であり、あきらかに唐以前の様式を意識した想像復元であり、専門家として気持ちが萎えないとは言えまい。
寒山(↓左)は天台山国清寺近くの寒山にある洞穴に住み、相棒の拾得(↓右)は国清寺の豊干(ぶかん)和尚に拾われたので拾得と称した。豊干の導きで交流を始めた二人は奇行と詩作を得意とする瘋狂の徒だったが、仏教の哲理に精通しており、寒山は文殊菩薩、拾得は普賢菩薩の輪廻転生とされた。
寒山寺訪問の翌日は大みそかであり、除夜の鐘のセレモニーの準備に境内はせわしくみえた。


耦園雪景
無錫は1983年秋に一度訪れたきりだが、蘇州は84年に二度訪れている。そして、2000年にも再訪した。どういうわけか、蘇州古典園林の第2次世界文化遺産申請の審査がまわってきたからである。あのころは白い壁の建物がまだ町中に残っていた。いまは無錫と同じで、ビルの林立する工業都市に変貌している。国家歴史文化名城は、まさしく名ばかりの文化財保護制度である。
無錫から南下してきたのに寒気は増し続け、寒山寺を離れるころから雪が舞い始めた。江南の降雪は十年ぶりなのだという。まもなく耦園(ぐうえん/オウユェン)にたどり着く。18年前に審査した蘇州古典園林の一つであり、じつはあのときも雪が降り、緑地にかすかな積雪をみた。めったにないことだと言われたのをよく覚えている。欲を出して揚州園林にまで足をのばしたところ、積雪のため大渋滞に巻き込まれた苦い思い出もある。
降る雪をレンズに納めたかった。


↑滴水に散る雪 ↓東花園




世に名高い蘇州園林はすべて私邸庭園である。ガイドのシーさんは、これを「家庭」という言葉で説明した。たしかにそうですね。家庭とは、文字通り、私邸庭園であり、それがどこでどうなってホームをさすようになったのか私はよく知らない。耦園は、清末に官吏を退官した沈乗成の隠居屋敷として造営された。耦園の「耦」は配偶者の「偶」、偶数の「偶」に通じる。ニンベンとノギヘンの違いは、人と草(庭)の差をしめすものである。偶は「夫婦」あるいは「二人(二つ)」を意味する言葉であり、その場所は夫婦のための私庭であり、「東花園」と「西花園」という二つの領域からなっている。

バッファゾーンの保全的大開発
耦園は小規模ながら江南庭園の特色をよく保持している点で良質の文化遺産と思うのだが、2000年当時、バッファーゾーンに若干の問題を抱えていた。ポーチ状の入口の対岸にソ連風の大きな工場が建っており、借景に影響を与えていたし、庭園の脇には幼稚園もあってカラフルな遊具が目についた。ソ連型の工場はたしかに江南庭園とは不釣り合いだが、いずれ近代化遺産として文化財価値を高める可能性もあり、そもそも取り壊せなどというアドバイスができる資格がわたしにあろうはずがない。屋上の上水道タンクだけは撤去したという気持ちを受け入れることにした。幼稚園にしても、強制移転なぞもってのほかなので、うまいこと植栽で修景してください、と頼むにとどまった。

大門と対岸の工場 ↑2000 ↓2018


しかし、中国は(よくもわるくも)すごいですね。18年ぶりに訪れると、ビル工場も幼稚園もなくなっていて、庭を囲む水路の外側は緑地公園化している。理想的といえば理想的なバッファゾーンの保全的再開発だが、日本なら不可能だし、敢えて無茶をする必要もないとわたしは思う。開発側と保全側がおりあって、過去と未来の融合した姿を模索すればよいのではないかな。

庭園近隣の幼稚園 ↑2000 ↓2018


↑2000 ↓2018
