能海寛を読む(1)

『世界に於ける仏教徒』批評
大学に戻ったら、上の新聞記事が届いていました。2018年12月1日(土)に開催した能海寛生誕150周年国際シンポジウム「雲南に消えたチベット仏教求法僧-能海寛の風景と思想」の報道は12月7日の山陰中央新報鳥取版に掲載されていましたが、今回の記事は同紙の12月18日文化面(7頁)に掲載されたもので、鳥取・島根両県で報道されたことになります。なんだか、わたし一人が能海批判派で、他の研究者は能海支持派のような印象をうけますが、実際にはちがっています。また、わたしたちはあくまで『世界に於ける仏教徒』という著作の批評をしたのであって(批判ではなく批評です)、能海という人物の業績すべてを批判し、否定したわけではありません。
さて、12月1日開催国際シンポのうち第二部「能海寛の思想」で森・浅川は「能海寛を読む-世界に於ける仏教徒-」と題する発表をおこないました。能海の主著『世界に於ける仏教徒』(哲学書院1893、復刻本2002)の解読をめざすスピーチであり、森がイントロとして本書の概説役を務め、浅川が思想の核心部分について原文対照の口語訳により批評を試みました。森の概論は現在、卒論として執筆中であり、以下の目次を示すにとどめます。
能海寛『世界に於ける仏教徒』
第1章 宗教の革新
第2章 新仏教徒
第3章 宗教学上の仏教
第4章 哲学上の仏教
第5章 歴史上の仏教
第6章 道徳上の仏教
第7章 比較仏教学
第8章 サンスクリット(梵学)
第9章 仏教国の探検
第10章 仏教徒の連合
第11章 仏跡回復
第12章 総会議所
第13章 巡礼
第14章 海外宣教
第15章 仏教学校
第16章 仏典翻訳
第17章 本山政論 第一
第18章 本山政論 第二
これから始める連載は、浅川が能海生誕記念シンポ第二部で発表した内容をもとに成稿していきます。『世界に於ける仏教徒』からの引用については、基本的に口語訳文を採用しますが、逐一原文掲載ページを併記しますので、原文もあわせてご確認ください(原文は以下のサイトを参照)。
原著初版本(哲学書院1893) 国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/816791
復刻本(能海寛研究会2002) 波佐ネット
http://hazaway.com/docs/bukkouto.pdf
1.空想の宗教大革新
これから、能海の主著『世界に於ける仏教徒』の核心部分や問題点をとりあげて、おもに口語訳したテキストから思うところを述べてみたい。第1章「宗教大革新」の冒頭を、能海は以下のように書き始めている【第1章(原文)1頁】。
このごろ世界の宗教の大勢を見渡すと、今日ほど宗教大変動の時代はありません。
それはどういうことかというと、まず西洋各国における宗教思想の大革新があると
いうことです。古来数千年、欧米諸国でおこなわれてきたキリスト教の信仰は
ようやく衰え始めています。[下線筆者]
今日ほど宗教大変動の時代はないと能海は述べているが、明治相当期の欧米はほんとうに「宗教大変動」あるいは「宗教大革新」と呼びうるような時代だったのか、という素朴な疑問がわいてくる。16世紀のルターが中心に進めた宗教革命はだれもが知っており、能海自身も第17章などで触れているけれども、19世紀後半が宗教大革新の時代だというような歴史観を、少なくともわたしは聞いたことがない。能海個人の思い込みとまでは言えないかもしれないが、能海を含む「新仏教徒」系の少数グループが「大変動だ、大革新だ、さぁ準備せよ」と騒いで煽動しているだけのことではないのか。この点、あとでも述べるが、昭和戦後の左翼活動家の手法と似ているような気がする。
また、「キリスト教の信仰がようやく衰え始めてきている」という発言についても、真偽を測りかねる。産業革命以降、科学技術が著しく発展し、近代科学と不整合な前近代的宗教が衰退していくという変化は認めざるをえないものの、その衰退はキリスト教に限らない。宗教全体にあてはまる現象であろう。能海は以下のように続ける【第1章(原文)2頁】。
宗教の革新が起こる理由並びに欧米仏教の現況について、少し述べようと思いま
す。第一、欧米の従来の宗教は唯一のものがキリスト教であって、キリスト教以外
の宗教はほとんどないと認識されている有様です。しかし、そのキリスト教がきわ
めて偏った、浅はかなものならば、その宗教のほかに、かれら文明人の宗教がない
となれば、みな不満を抱き不足の念を深くするでしょう。今日、欧米宗教革命の時
期に至ったことは別に不思議ではありません。[下線筆者]
欧米人がキリスト教以外の宗教をほとんど認知していないというのも、おかしな発言である。古代以来、イスラム教とキリスト教は骨肉相食む激しい戦いをしてきて、その悲惨な状態は現代まで続いているが、能海は欧米人が最大のライバルであるイスラム教すら知らないと思っていたのであろうか。「キリスト教対仏教」という図式をでっちあげたいために、世界三大宗教であるはずのイスラムを議論の場面から消し去りたいのではないか。そしてキリスト教は、きわめて偏った浅はかな宗教だから、欧米人はみな不満を抱き不足の念を深くする。近い将来、別の新しい宗教を求めるようになる。それが「新仏教」だとはまだここで記していないが、本を読み進めればそう言いたいのはあきらかであり、「欧米は宗教大革命の時代を迎えている」という論理がそうした主張の前提として必要となるのであろう。
2.キリスト教批判
ここから果てしなくキリスト教批判が続いていくのだが、前口上として、以下のような発言をしている点にはいちおう留意しておきたい【第1章(原文)1頁】。
キリスト教も(仏教と)同じ宗教なので、私たちは決してこれを排斥する理由が
なく、なるべく従来の信仰を継続してもらうことを祈ります。
正しい発想である。しかし、実際はキリスト教批判のオンパレードになり、能海寛はあきらかにキリスト教を排斥している。『世界に於ける仏教徒』はその証拠となる文献だと言い換えてもおかしくないであろう。とりわけ第1~2章は過半をキリスト教批判に割いている。ここでそのすべてを取り上げる余裕はないが、たとえば以下の部分はキリスト教と哲学・科学の衝突に関する言及である【第1章(原文)2頁】。
キリスト教は哲学に反しています。(略)その結論たるや遂に無神論を説き、
あるいは汎神論 となって、キリスト教にいう神とは全く相反する神の存在を
説いてしまうに至りました。(略)また、キリスト教は科学とも衝突しています。
生物学の研究、生理学の発達あるいは天文学・航海術などの科学に反対し、
文明の害となって進歩を妨げてきた事例は枚挙にいとまがありません。
[下線筆者]
次は政治とキリスト教の癒着についての指摘【第1章(原文)3頁】。
西洋の政治家がはたしてキリスト教を信じているかと問えば、決してそういうこと
はありません。国王を始めとする政治家たちは、一般にキリスト教会に属する者が
多いとはいえ、かれらの信仰はたいてい政略上の信仰です。宗教は国民を団結
させることにおいて最も効力の高いものなので、政府はとりわけ政略として
キリスト教を保護し、各国独立の教会を設ける必要があるのです。(略)政府の
手段として存在するものです。
さらに、キリスト教は戦争好きの宗教だとまで述べている【原文4頁】。
(キリスト教は)国家の安寧を害し、平和を破壊するものだと言いたいのです。
なぜなら古来、キリスト教は戦争によって発達してきたものであり、(略)かの
十字軍のように、前後八回一七八年間にわたる戦争のせいで何百万もの命が
失われてしまいました。(略)このように戦争を起こし生命を害するにまで至るのは、
宗教徒らしからぬ行為と言わざるをえないでしょう。このようにきわめて戦争的な
宗教は、到底社会からの排斥を免れえないのです。[下線筆者]
先に欧米人はキリスト教以外の宗教を知らないと述べたにも拘わらず、イスラムと戦った十字軍の話がでてくるのはどうしたことか。また、前口上として「キリスト教を排斥するものではない」と断りながら、キリスト教のように「戦争的な宗教は、到底社会からの排斥を免れえない」と決めつけている。舌の根も乾かぬうちにキリスト教を排斥しているではないか。【続】
【連載情報】
・能海寛を読む(1)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1977.html
・能海寛を読む(2)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1978.html
・能海寛を読む(3)
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・能海寛を読む(4)
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・能海寛を読む(5)
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・能海寛を読む(6)
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・能海寛を読む(7)
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