能海寛を読む(5)
9.宗教の優劣
能海寛は宗教学を重視し、第三章「宗教学上の仏教」で以下のように述べている。【原文16頁】
仏教とキリスト教の優劣は何をもって決するべきでしょうか。(略)宗教は哲学
とは異なるものなので、仏教とキリスト教の勝敗は、宗教学上の問題であり、
宗教学上の判断を得るものですから、今日この宗教学を深く研究していくこと
が必要だと分かるはずです。(略)宗教学はキリスト教に対しては不利ですが、
仏教に関しては最も良い伴侶であり、実際にこれが今日の宗教大変動の
原因であり、この問題を判決することができるものなのです。[下線筆者]
仏教とキリスト教の優劣を決するにあたって、宗教学が役に立つ。宗教学はキリスト教には不利になるが、仏教の良き伴侶になるという、結構な問題発言をしている。そもそもなぜ仏教とキリスト教の優劣を決しないといけないのか。Aという宗教がBという宗教より優れているとか劣っているとか、そんなことは誰も証明できないし、そういう発想をもつこと自体が間違っている。Aという宗教はAの信者たちにとって重要であり、Bという宗教はBの信者たちにとって重要なものである。その勝敗を決したいと能海はいう。しかしながら、宗教学、とくに比較宗教学は、多様化した宗教の相対性と普遍性を明らかにする科学であって、一方が優位で他方が劣位であることを論議する学問ではない。能海の発想はこれを歪曲し、宗教学を学べば仏教がキリスト教より優位にあることを証明できる、としている。明らかに間違った考え方であり、本書の読者は宗教学の捉え方自体を修正して読まなければならない。
こうした能海の仏教優位論は、どんどん増長していく。【原文18-19頁、22頁】
今日この(旧仏教という)不完全な宗教を大成し、かつ完全な宗教を発現させるの
は、新仏教の義務なのです。なぜならば完全なる宗教は仏教の上に存在するから
です。(略)仏教が積極的に講ずるべきなのは宗教学です。宗教学上の仏教は
諸宗教の王だからです。[下線筆者]
前半の記載によれば、「完全なる宗教>仏教>仏教以外の諸宗教」という優劣の図式が成立し、後段になると、仏教を「諸宗教の王」だとまでもちあげている。未だ仏教は完全なる宗教ではないが、仏教以外の宗教は仏教以下であり、これから誕生するであろう新仏教は完全なる宗教に脱皮していく。こうした見通しに立脚しているからこそ、先に引用したとおり、第六章【原文36-37頁】において、「理論上においては哲学の面で勝利を得て、実際においても歴史上最強の仏教である」とか「歴史上においては最上無比の仏教」などの慢心が導かれるのであろう。第四章「宗教と哲学的論理」では仏教と哲学の優劣にまで議論を進める。【原文22-23頁】.
(私はあえて仏教を哲学として論じるものではありませんが)哲学の基礎を有する
宗教でなければ、到底今日以後の宗教思想を満足させることはできません。キリ
スト教の敗北は実際にこの理論の乏しさが原因です。したがって仏教をもって
キリスト教に代わり、将来欧米の宗教にさせようとする者は、決して哲学の考究を
怠ることができません。(略)将来における宇内一統宗教(世界統一宗教)は仏教
であると言ってもよいでしょう。
キリスト教の敗北は哲学的論理が欠如しているところなので、新仏教は哲学の基礎・論理を学ばなければならない。そうすれば、宇内一統宗教(世界統一宗教)に近づけるという主張である。しかも、仏教の妙理は哲学以上であるとも主張する【原文.27頁】
同じ宗教といっても、キリスト教のようなものは哲学以下であり、学理に背反する
ものなので、妄信と言ってもよいでしょう。(略)私はこの章において哲学の必要
性を論じてきて、ついに仏教の位置を定め、仏教の妙理は哲学以上のところに
あって、将来の宗教は哲学上においても仏教が宇内一統宗教(世界統一宗教)
であるべき資格があることを論じたまでです。[下線筆者]
能海寛は宗教学を重視し、第三章「宗教学上の仏教」で以下のように述べている。【原文16頁】
仏教とキリスト教の優劣は何をもって決するべきでしょうか。(略)宗教は哲学
とは異なるものなので、仏教とキリスト教の勝敗は、宗教学上の問題であり、
宗教学上の判断を得るものですから、今日この宗教学を深く研究していくこと
が必要だと分かるはずです。(略)宗教学はキリスト教に対しては不利ですが、
仏教に関しては最も良い伴侶であり、実際にこれが今日の宗教大変動の
原因であり、この問題を判決することができるものなのです。[下線筆者]
仏教とキリスト教の優劣を決するにあたって、宗教学が役に立つ。宗教学はキリスト教には不利になるが、仏教の良き伴侶になるという、結構な問題発言をしている。そもそもなぜ仏教とキリスト教の優劣を決しないといけないのか。Aという宗教がBという宗教より優れているとか劣っているとか、そんなことは誰も証明できないし、そういう発想をもつこと自体が間違っている。Aという宗教はAの信者たちにとって重要であり、Bという宗教はBの信者たちにとって重要なものである。その勝敗を決したいと能海はいう。しかしながら、宗教学、とくに比較宗教学は、多様化した宗教の相対性と普遍性を明らかにする科学であって、一方が優位で他方が劣位であることを論議する学問ではない。能海の発想はこれを歪曲し、宗教学を学べば仏教がキリスト教より優位にあることを証明できる、としている。明らかに間違った考え方であり、本書の読者は宗教学の捉え方自体を修正して読まなければならない。
こうした能海の仏教優位論は、どんどん増長していく。【原文18-19頁、22頁】
今日この(旧仏教という)不完全な宗教を大成し、かつ完全な宗教を発現させるの
は、新仏教の義務なのです。なぜならば完全なる宗教は仏教の上に存在するから
です。(略)仏教が積極的に講ずるべきなのは宗教学です。宗教学上の仏教は
諸宗教の王だからです。[下線筆者]
前半の記載によれば、「完全なる宗教>仏教>仏教以外の諸宗教」という優劣の図式が成立し、後段になると、仏教を「諸宗教の王」だとまでもちあげている。未だ仏教は完全なる宗教ではないが、仏教以外の宗教は仏教以下であり、これから誕生するであろう新仏教は完全なる宗教に脱皮していく。こうした見通しに立脚しているからこそ、先に引用したとおり、第六章【原文36-37頁】において、「理論上においては哲学の面で勝利を得て、実際においても歴史上最強の仏教である」とか「歴史上においては最上無比の仏教」などの慢心が導かれるのであろう。第四章「宗教と哲学的論理」では仏教と哲学の優劣にまで議論を進める。【原文22-23頁】.
(私はあえて仏教を哲学として論じるものではありませんが)哲学の基礎を有する
宗教でなければ、到底今日以後の宗教思想を満足させることはできません。キリ
スト教の敗北は実際にこの理論の乏しさが原因です。したがって仏教をもって
キリスト教に代わり、将来欧米の宗教にさせようとする者は、決して哲学の考究を
怠ることができません。(略)将来における宇内一統宗教(世界統一宗教)は仏教
であると言ってもよいでしょう。
キリスト教の敗北は哲学的論理が欠如しているところなので、新仏教は哲学の基礎・論理を学ばなければならない。そうすれば、宇内一統宗教(世界統一宗教)に近づけるという主張である。しかも、仏教の妙理は哲学以上であるとも主張する【原文.27頁】
同じ宗教といっても、キリスト教のようなものは哲学以下であり、学理に背反する
ものなので、妄信と言ってもよいでしょう。(略)私はこの章において哲学の必要
性を論じてきて、ついに仏教の位置を定め、仏教の妙理は哲学以上のところに
あって、将来の宗教は哲学上においても仏教が宇内一統宗教(世界統一宗教)
であるべき資格があることを論じたまでです。[下線筆者]
キリスト教は哲学以下の妄信である一方、仏教の妙理は哲学以上のところにあって、将来の宗教は哲学上においても仏教が宇内一統宗教(世界統一宗教)であるべきだと繰り返し主張し、「宇内一統宗教(仏教)>哲学>キリスト教(妄信)」という優劣の関係を示している。ところが、欧米の哲学者が評価するのは上座部(小乗)仏教であり、いわゆる「大乗仏教非仏説」に能海はおおいに不満の意を漏らしている。【第四章「哲学上の仏教」原文26頁】
仏教の哲学はいまだショッペンハウエル氏の哲学をもっても説明し尽くすことが
できていません。ただ、氏は主としてインド地方、南方の仏教を研究していました。
未だ北方の大乗仏教を学んでいません。(略)西洋において仏教といえば、多くは
南方小乗仏教(上座部仏教)を意味し、北方大乗仏教に対しては非仏説を唱え、
未だに大乗仏教の真理を理解していません。そこでますます彼らに対して、これを
説明するには哲学を考究する必要性を感じます。
「大乗非仏説」は宗教学の祖、フリードリヒ・マックス・ミューラー(1823-1900)らが唱えた学説である。紀元前6~5世紀に北インドで誕生した仏教はインド国内では衰退するものの、まずはセイロン島(スリランカ)に伝わって発展し、そこから東南アジア各国に伝播した。この南伝仏教を上座部仏教(テラワーダ)と言い、仏教の原型をよくとどめている。一方、北伝の仏教はブッダの死後数世紀経ってから中央アジア、中国、朝鮮半島を経由して日本にまで伝播した宗派であり、修行者だけでなく大衆の救済をめざしていることから大乗仏教(マハーヤーナ)と呼ばれる。マックス・ミューラーら西洋の学者は、大乗仏教をブッダの思想から遠く離れた宗派とみなし、「大乗仏教非仏説」を唱えた。能海はこの説に反発し、サンスクリットやチベット大乗仏教などの研究を通して、ブッダの思想と大乗仏教を結びつけようと考えていた。
10.信仰の未来-ヤスパースの考察
以上をひとまず整理しておく。
(一)能海は世界的な普遍性をもつ「宇内一統宗教」(世界統一宗教)としての新仏教の構想を示した。その前提として19世紀後半を欧米における「宗教大革新の時代」であるとしたが、疑問が残る。
(二)チベットをはじめアジア各地の仏教国を訪問し、ブッダの思想を直接的に反映する仏典やその訳文を収集し翻訳することで、正しいブッダの思想を世界に発信しようとした。その目的意識は評価すべきだが、能海には、キリスト教にとって代わる「宇内一統宗教」として新仏教を位置づける野心があった。実現可能な構想とは思えない。
(三)キリスト教に対する攻撃は異常なほど苛烈であり、上座部仏教に対しても偏見をもっている。キリスト教に対する仏教の優位性については、確たる根拠を示すことなく、反復的に強調している。しかしながら、「宗教の優劣」を論じること自体、無意味であり、無謀な行為と言える。
(四)全体の論調として、仏教徒に特有な「寛容さ」は影を潜め、他の宗教・宗派に対する「排他性」が露骨にうかがわれる。こうした排他性が宗教相互の争いを招きかねない。
宗教相互の優劣とは真反対の考察をしたのが、ドイツの哲学者カール・ヤスパース(1883-1969)である。ヤスパースは『歴史の起源と目標』(原著1949)のなかで、「信仰の未来」を以下のように考察している。
世界の統一が信仰の統一なしに起こるだろうということが、ありそうにもないと
解されるにしても、私はあえて反対のことを主張する。すなわち、(世界帝国とは
異なった)世界秩序という万人に拘束力をもつ普遍者は、さまざまな信仰内容が、
ひとつの客観的普遍妥当的信仰内容に統一されることなく、歴史的な交わりに
あってあくまで自由である場合、ほかでもなくこの時こそ、初めて可能なのである。
(重田英世訳 1964:p.416 、理想社)
ヤスパース本人が日本語に堪能であったとしたら、「こんなことを書いた覚えはない」とヘソを曲げそうなほど難解な訳文だが、その主張の意図は単純明快である。互いを容認しあう以外、宗教に未来はない。そう言いたいのである。世界中でさまざまな宗教が信仰されているけれども、互いに他の宗教を認め、レスペクトし合うことがない限り、宗教相互の軋轢は已むことがない。一つの宗教が他の宗教より優れていて、他を支配するというようなことがあってはならない。ヤスパースの主張に従う限り、能海のいう「宇内一統宗教」などこの世に必要なく、否、あってはならないものである。世界統一宗教が存在するには、強力な全体主義的支配体制が前提となる。全体主義のもと、被支配者すべてに一つの宗教を強制するしかないであろう。それはナチズムや文化大革命の状況を想像させる。
新仏教が低劣なキリスト教を覆い尽くすと言わんばかりの能海の主張に比べれば、宗教の多様性を重んじるヤスパー スの考えははるかに洗練されている。仏教の起源と未来に向き合った能海の考えはそれなりに評価されるべきだが、宗教相互の軋轢を生む危うい側面も備えている。宗教学者のマックス・ミューラーは、「一つの宗教しか知らない者は宗教を知らない」という格言を残している(南条文雄訳『比較宗教学』博文館・1907)。宗教学を重視するというのならば、こうした眼差しをもって自らの宗教を客観視することが必要であろう。【続】
【連載情報】
・能海寛を読む(1)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1977.html
・能海寛を読む(2)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1978.html
・能海寛を読む(3)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1981.html
・能海寛を読む(4)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1983.html
・能海寛を読む(5)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1986.html
・能海寛を読む(6)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1987.html
・能海寛を読む(7)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1988.html
仏教の哲学はいまだショッペンハウエル氏の哲学をもっても説明し尽くすことが
できていません。ただ、氏は主としてインド地方、南方の仏教を研究していました。
未だ北方の大乗仏教を学んでいません。(略)西洋において仏教といえば、多くは
南方小乗仏教(上座部仏教)を意味し、北方大乗仏教に対しては非仏説を唱え、
未だに大乗仏教の真理を理解していません。そこでますます彼らに対して、これを
説明するには哲学を考究する必要性を感じます。
「大乗非仏説」は宗教学の祖、フリードリヒ・マックス・ミューラー(1823-1900)らが唱えた学説である。紀元前6~5世紀に北インドで誕生した仏教はインド国内では衰退するものの、まずはセイロン島(スリランカ)に伝わって発展し、そこから東南アジア各国に伝播した。この南伝仏教を上座部仏教(テラワーダ)と言い、仏教の原型をよくとどめている。一方、北伝の仏教はブッダの死後数世紀経ってから中央アジア、中国、朝鮮半島を経由して日本にまで伝播した宗派であり、修行者だけでなく大衆の救済をめざしていることから大乗仏教(マハーヤーナ)と呼ばれる。マックス・ミューラーら西洋の学者は、大乗仏教をブッダの思想から遠く離れた宗派とみなし、「大乗仏教非仏説」を唱えた。能海はこの説に反発し、サンスクリットやチベット大乗仏教などの研究を通して、ブッダの思想と大乗仏教を結びつけようと考えていた。
10.信仰の未来-ヤスパースの考察
以上をひとまず整理しておく。
(一)能海は世界的な普遍性をもつ「宇内一統宗教」(世界統一宗教)としての新仏教の構想を示した。その前提として19世紀後半を欧米における「宗教大革新の時代」であるとしたが、疑問が残る。
(二)チベットをはじめアジア各地の仏教国を訪問し、ブッダの思想を直接的に反映する仏典やその訳文を収集し翻訳することで、正しいブッダの思想を世界に発信しようとした。その目的意識は評価すべきだが、能海には、キリスト教にとって代わる「宇内一統宗教」として新仏教を位置づける野心があった。実現可能な構想とは思えない。
(三)キリスト教に対する攻撃は異常なほど苛烈であり、上座部仏教に対しても偏見をもっている。キリスト教に対する仏教の優位性については、確たる根拠を示すことなく、反復的に強調している。しかしながら、「宗教の優劣」を論じること自体、無意味であり、無謀な行為と言える。
(四)全体の論調として、仏教徒に特有な「寛容さ」は影を潜め、他の宗教・宗派に対する「排他性」が露骨にうかがわれる。こうした排他性が宗教相互の争いを招きかねない。
宗教相互の優劣とは真反対の考察をしたのが、ドイツの哲学者カール・ヤスパース(1883-1969)である。ヤスパースは『歴史の起源と目標』(原著1949)のなかで、「信仰の未来」を以下のように考察している。
世界の統一が信仰の統一なしに起こるだろうということが、ありそうにもないと
解されるにしても、私はあえて反対のことを主張する。すなわち、(世界帝国とは
異なった)世界秩序という万人に拘束力をもつ普遍者は、さまざまな信仰内容が、
ひとつの客観的普遍妥当的信仰内容に統一されることなく、歴史的な交わりに
あってあくまで自由である場合、ほかでもなくこの時こそ、初めて可能なのである。
(重田英世訳 1964:p.416 、理想社)
ヤスパース本人が日本語に堪能であったとしたら、「こんなことを書いた覚えはない」とヘソを曲げそうなほど難解な訳文だが、その主張の意図は単純明快である。互いを容認しあう以外、宗教に未来はない。そう言いたいのである。世界中でさまざまな宗教が信仰されているけれども、互いに他の宗教を認め、レスペクトし合うことがない限り、宗教相互の軋轢は已むことがない。一つの宗教が他の宗教より優れていて、他を支配するというようなことがあってはならない。ヤスパースの主張に従う限り、能海のいう「宇内一統宗教」などこの世に必要なく、否、あってはならないものである。世界統一宗教が存在するには、強力な全体主義的支配体制が前提となる。全体主義のもと、被支配者すべてに一つの宗教を強制するしかないであろう。それはナチズムや文化大革命の状況を想像させる。
新仏教が低劣なキリスト教を覆い尽くすと言わんばかりの能海の主張に比べれば、宗教の多様性を重んじるヤスパー スの考えははるかに洗練されている。仏教の起源と未来に向き合った能海の考えはそれなりに評価されるべきだが、宗教相互の軋轢を生む危うい側面も備えている。宗教学者のマックス・ミューラーは、「一つの宗教しか知らない者は宗教を知らない」という格言を残している(南条文雄訳『比較宗教学』博文館・1907)。宗教学を重視するというのならば、こうした眼差しをもって自らの宗教を客観視することが必要であろう。【続】
【連載情報】
・能海寛を読む(1)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1977.html
・能海寛を読む(2)
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・能海寛を読む(3)
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・能海寛を読む(4)
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・能海寛を読む(5)
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・能海寛を読む(6)
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・能海寛を読む(7)
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