能海寛を読む(6)
11.批評としての大内青巒序
最後に『世界に於ける仏教徒』の序文を取り上げる。序文は、能海の兄弟子筋にあたる大内青巒(1845-1918)が序文を書いている。大内青巒は幕末に仙台藩宮城郡東宮浜に生まれた。常陸国水戸で出家し(曹洞宗)、その後江戸へ出て仏教の研究を志す。維新後は西本願寺第21世宗主の侍講をつとめたが、のちに還俗して在家主義を唱えた。別号を藹々居士(あいあいこじ)という。大内の序文はごく短いものだが、『世界に於ける仏教徒』の内容にはほとんど触れていない。持論を述べている。短文なので全文の口語訳を引用する。
見色明心―「眼に於ける仏教徒」でありたいなら色(形)を見て心を明らかに
すべきです。聞声悟道―「耳に於ける仏教徒」でありたいなら声を聞いて道を
悟るべきです。鼻に舌に体に心に、いずれに於いても仏教徒でありたいもの
です。家にあっては家の仏教徒でありなさい。国にあっては国の仏教徒で
ありなさい。みなそれぞれの因縁があるから果報があるのです。因果をごま
かしてはいけないと知るならば、国にあっては国の因縁にふさわしい願行
(がんぎょう)があるべきですし、家にあっては家の因縁にふさわしい願行が
あるべきです。今の世は世界交通の時代になっているとかで、いわゆる
「世界に於ける仏教徒」であろうと思う者がここにおります。石見の能海氏は
その(世界の)因果をあきらかにし、その願行を著して一巻の書物に書き上げ、
『世界に於ける仏教徒』と名付けました。それが今の世の急務だというけれども、
世間のいう「世界」はわたしのいう「世界」とは異なっています。わたしのいう
「世界」は時空無限の「世界海」のみをさします。世間にいう「世界」に於ける
仏教徒にとどまらず、わたしのいう「世界」に於ける仏教徒でありたいと願う者は
いるでしょうか。(世界は)ここにもあり、そこにもあります。わたしのいう
「世界海」は昨夜忽然と芥子(けし)の実の中に入っていってしまいました。
だから世間の人はこれ(世界海)を知らないのですよ、芥子はどこにあるのか。
それは鼻頭(はなさき)にあり、舌端(したはし)にあります。色(形)となって
あらわれてきます。声となって聞こえてきます。眼を開け、耳を開け。
おもしろや 散るもみぢ葉も咲く花も
おのづからなる法のみすがた
癸巳(明治二六年)九月 藹々居士しるす
序文冒頭の「見色明心」と「門声悟道」の対句は有名な禅語で、小さな色(形)のちがいやちょっとした音声を全身全霊五感をもって感じとることが悟りに近づく第一歩だと示唆している。そうしたミクロな次元に「世界」があるのだと青巒は言いたいのであろう。能海の羨望する海外=世界とは異なる次元で、自分の身の回りにも「世界」がある。それは時空無限(三世十方塵々刹々無邊無盡)の「世界海」である。欧米などの海外で通用する新仏教徒になることも大事であろうが、個人の生活世界に眼を見開け、聞き耳を立てよ、と訓じている点、特異な序だと言わざるをえない。能海の主張に対する柔らかな批判とも受け取れるからである。
ちなみに、末文の一歌は青巒の作ではなく、有名な古歌を貼りつけたものである。散り落ちたもみじの葉であれ、咲く花であれ、すべて仏法の姿をあらわすものであり、全身全霊五感をもって感じ取れ、と暗示するものならば、冒頭の「見色明心、聞声悟道」の返しの役割を担わせていることになる。あるいはまた、落葉も咲く花も同じであり、仏法の御姿とは「空」であると言いたかったのかもしれない。
さて、大内の序文にあらわれる「芥子(けし)」は古代インドの舎衛国(シュラーヴァスティー)を舞台とする仏教説話をイメージさせる。
幼い男子を亡くしたばかりの女性キサー・ゴータミーが遺体を抱えたまま「子供に薬を下さい、薬を下さい」と狂ったように街中を練り歩いていた。ゴータミーは舎衛国を訪問していた釈尊の噂を聞き、そこまで出向いて同じように薬を求めた。釈尊答えて曰く、「よろしい、芥子粒をもってきなさい。ただし、いまだ死人を出したことのない家からもらうんだよ」と。ゴータミーはあちこち家を訪ねて芥子粒を探し回ったけれども、ついに条件を満たす芥子粒を得るに至らなかった。死人のでていない家などないと分かり、人生の無常を知って、ゴータミーは後に出家したという。
世界海とは芥子と同じでどこからも手に入らないし、だれも見ることのできないものだが、鼻や舌で微かに感じることもできるし、形や音となってあらわれることもある。それらの現象を注意深く観察し、聞き耳を立てなさい、と諭しているのである。大内には、能海が芥子を探し回るゴータミーに重なってみえたのかもしれない。
いずれにしても、能海が本文で強く訴える内容と、大内青巒の序文には大きな乖離がある。青巒は本書の原稿に眼を通し、能海の意見に若干の違和感を覚えたため、素直な推薦文を書くことを躊躇ったような気がしてならない。欧米やチベットに視野を広げることが必ずしも仏教の向上や改革につながるわけではなく、結局は個人の問題に行きつくことを予見していたのではないだろうか。
12.明治維新150年と能海寛
今年度(2018)は明治150年にあたる年であり、維新直前に石見で生まれた能海寛の生誕150周年でもあるため、各地で記念事業が相次いだ。最後に、明治維新と能海の相関性について考察をひろげておこう。
明治維新の英訳は Meiji Restoration という。 維新の訳語として、Revolution ではなく、 あえて Restoration という言葉をあてている点に注目したい。Restoration は文化財保護の分野では「修復」とか「復原」と訳すが、明治維新の場合は「復古」を意味する。したがって、Meiji Restoration を直訳するならば、「明治の(王政)復古」となるであろう。欧米人は、近代日本の端緒となった明治維新を「革命」ではなく、「王政の復古」だと喝破していたのである。
日本人はながい間そういう認識をもてないでいた。司馬遼太郎の『龍馬がゆく』(1963-66)だとか、NHK大河ドラマの影響が大きいのであろうが、日本人にとって明治維新とは、坂本龍馬や西郷隆盛のような英傑が地方から続々とあらわれ、腐敗しきった中央の徳川幕府を滅ぼして、新しい近代社会を誕生させた大革命だと考えてきた。しかし、近年ようやく、そうではなかったのではないか、という疑問を覚える人が増えてきている。明治維新とは、尊王攘夷思想を信仰する薩長の連合軍が天皇を担いで起こしたクーデターであった、という歴史観である。明治維新がもたらしたのは「神国日本」の復活であった。
尊王攘夷は、天皇を最上位の神格として敬い、外国人(夷狄)を排除する思想である。尊王思想を原動力にして成し遂げられた明治維新は、つまるところ、市民革命ではなかった。ヨーロッパの市民革命が封建的な王制を解体して民主的な共和国制を誕生させる政治・社会の大変革であったのに対して、日本の明治維新は幕藩体制を崩して、古代の天皇制と律令制を復活させる制度改変であり、歴史の流れに逆行する側面を少なからず含んでいたのである。後に大東亜戦争など数々の悲劇を日本にもたらす元凶あるいは伏線であったという見方も過ちとは言えないであろう。
宗教の面では、古代的な天皇制復活によって神道が正教となる一方、仏教は邪教扱いされ不遇の時期を迎える。神仏仲良く共存していた近世が終わり、神仏分離から廃仏毀釈の大きな流れが渦巻いていく。さらには、文明開化の下、欧米の科学技術や文化とともにキリスト教が公けに布教され始めるわけだから、日本仏教は歴史上最も苦難の時期にあったと言っても過言ではなかろう。こうした苦境にあって、能海らの新仏教改革構想が芽生えたことには注目しなければならない。ちなみに、能海は「明治十九年(1886)のころ、仏門が極度に衰退し、周囲はただキリスト教の声のみを聞く時期にあった」と第14章(原文76頁)で回顧している。しかしながら、キリスト教がいくら脅威であったとはいえ、現状から顧みるならば、仏教衰退の最大の要因とは思えない。
明治22年(1889)、大内青巒は哲学館主の井上円了らとともに、天皇崇拝に重きをおく仏教政治運動団体「尊皇奉仏大同団」を結成する。ここで、能海と井上・大内の関係を整理しておこう。安政5年(1858)長岡藩に生まれた井上円了は、能海より10歳年上であり、東本願寺の国内留学生として東京大学文学部哲学科に進学した。卒業後、明治20年(1887)に哲学館(現東洋大学)を設立し、初代館主を務める。能海は22歳のとき京都経由で上京し慶応義塾に入学するが、まもなく哲学館に転学して語学・宗教学・仏教などを修めた。そして、明治26年(1893)の課程修了の直後に『世界に於ける仏教徒』を出版する。その書はいわば哲学館の卒業論文のようなものなのだが、その序文を大内青巒に委ねているのである(大内は後に哲学館を後継した東洋大学の学長に就任する)。能海が哲学館修学中に組織された尊皇奉仏大同団の思想は能海にも影響を与えなかったはずはない。『世界に於ける仏教徒』では第17章「本山政論第一」において、尊皇奉仏大同団を百花繚乱の政策論陣の代表例として掲げながら、王政維新についても言及している。【原文85-86頁】
(略)これまで数百年間、(仏教は)封建制度に伴ってきました。ほとんど
その精神を失った旧仏教は、今日わが国の王政維新後の新社会文化が隆盛な
時代にあっては、旧来の弊習を取り除き、仏教維新の大改善を必ずなさなけ
ればならないことは言うまでもありません。
思想史的にみれば、この「王政維新」あるいは「尊皇奉仏」という概念には矛盾が露呈している。すでに述べたように、尊王(皇)思想は天皇を敬い、神道を尊ぶが、仏教は排斥すべき邪教に位置づけている。仏教が史上最大の苦境に陥っている主因は、キリスト教の伝道布教以上に、王政の維新(復古)にあった。それを承知の上で、尊皇奉仏の宗教家たちは王政に与し、神道に楯突こうとしていない。明治中期になって廃仏毀釈の勢いが弱まったこともあったのかもしれないが、神道に対する批判的な論調はいっさい隠しながら、能海はあえて第17章で仏教こそが国教であるべきだと述べている。【原文87頁】
日本において仏教は国粋です。日本の国教は仏教とするべきだと論じるのは、
日本仏教政論であって(略)じつに日本独立の生命です。日本国粋の愛児です。
日本愛国の力です。ですから、国家独立の大義を重んじながら将来文明の進路
を切り開こうとするのならば、完全円満な仏教の真理によらないわけにはいきません。
こうして尊王に与しつつ、仏教こそが国粋であり、国教であるべきだと論じながら、攻撃の矛先を夷狄の信仰するキリスト教にむけたのである。この点からみれば、能海らの宗教家グループは明治維新前後の尊王攘夷の時代の申し子だと言わざるをえないであろう。それはおそらく「個人の資質」以上に、王政復古の機運が宗教家たちに投影した「時代の資質」と呼ぶべきものと思われる。いずれにしても、明治維新の年に生まれた能海の宗教観と明治維新の思想的背景の係わりを否定するのは難しい。
余談ながら、こうした尊王攘夷の思想をもつ一群の人びとを、現代の言葉に置き換えるとすれば、「右翼」がふさわしい。能海が好んで用いる「国粋」「愛国」などの言葉は「右翼」とよく似合う。しかし、べつにわたしは「右翼」が良くないと言いたいわけではない。「極右」も「極左」もほぼ同じだという感覚がある。昭和戦後における左翼の学生運動活動家たちと能海寛のイメージが重なりあうからである。学生運動家にとってマルキシズムは絶対的な思想であり、カール・マルクスの教えに従って世界革命を起こすと宣言し、バリケードで大学を閉鎖して無垢な若者を扇動した。能海にとっての「ブッダと宇内一統宗教」は、幕末志士の遺伝子を受け継ぐ近代日本の軍人にとっての「天皇と大東亜共栄圏」に相似するだけでなく、昭和戦後の左翼的活動家にとっての「マルクスと世界革命」とほぼ合同のようにみえるのである。【続】
【連載情報】
・能海寛を読む(1)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1977.html
・能海寛を読む(2)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1978.html
・能海寛を読む(3)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1981.html
・能海寛を読む(4)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1983.html
・能海寛を読む(5)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1986.html
・能海寛を読む(6)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1987.html
・能海寛を読む(7)
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1988.html
最後に『世界に於ける仏教徒』の序文を取り上げる。序文は、能海の兄弟子筋にあたる大内青巒(1845-1918)が序文を書いている。大内青巒は幕末に仙台藩宮城郡東宮浜に生まれた。常陸国水戸で出家し(曹洞宗)、その後江戸へ出て仏教の研究を志す。維新後は西本願寺第21世宗主の侍講をつとめたが、のちに還俗して在家主義を唱えた。別号を藹々居士(あいあいこじ)という。大内の序文はごく短いものだが、『世界に於ける仏教徒』の内容にはほとんど触れていない。持論を述べている。短文なので全文の口語訳を引用する。
見色明心―「眼に於ける仏教徒」でありたいなら色(形)を見て心を明らかに
すべきです。聞声悟道―「耳に於ける仏教徒」でありたいなら声を聞いて道を
悟るべきです。鼻に舌に体に心に、いずれに於いても仏教徒でありたいもの
です。家にあっては家の仏教徒でありなさい。国にあっては国の仏教徒で
ありなさい。みなそれぞれの因縁があるから果報があるのです。因果をごま
かしてはいけないと知るならば、国にあっては国の因縁にふさわしい願行
(がんぎょう)があるべきですし、家にあっては家の因縁にふさわしい願行が
あるべきです。今の世は世界交通の時代になっているとかで、いわゆる
「世界に於ける仏教徒」であろうと思う者がここにおります。石見の能海氏は
その(世界の)因果をあきらかにし、その願行を著して一巻の書物に書き上げ、
『世界に於ける仏教徒』と名付けました。それが今の世の急務だというけれども、
世間のいう「世界」はわたしのいう「世界」とは異なっています。わたしのいう
「世界」は時空無限の「世界海」のみをさします。世間にいう「世界」に於ける
仏教徒にとどまらず、わたしのいう「世界」に於ける仏教徒でありたいと願う者は
いるでしょうか。(世界は)ここにもあり、そこにもあります。わたしのいう
「世界海」は昨夜忽然と芥子(けし)の実の中に入っていってしまいました。
だから世間の人はこれ(世界海)を知らないのですよ、芥子はどこにあるのか。
それは鼻頭(はなさき)にあり、舌端(したはし)にあります。色(形)となって
あらわれてきます。声となって聞こえてきます。眼を開け、耳を開け。
おもしろや 散るもみぢ葉も咲く花も
おのづからなる法のみすがた
癸巳(明治二六年)九月 藹々居士しるす
序文冒頭の「見色明心」と「門声悟道」の対句は有名な禅語で、小さな色(形)のちがいやちょっとした音声を全身全霊五感をもって感じとることが悟りに近づく第一歩だと示唆している。そうしたミクロな次元に「世界」があるのだと青巒は言いたいのであろう。能海の羨望する海外=世界とは異なる次元で、自分の身の回りにも「世界」がある。それは時空無限(三世十方塵々刹々無邊無盡)の「世界海」である。欧米などの海外で通用する新仏教徒になることも大事であろうが、個人の生活世界に眼を見開け、聞き耳を立てよ、と訓じている点、特異な序だと言わざるをえない。能海の主張に対する柔らかな批判とも受け取れるからである。
ちなみに、末文の一歌は青巒の作ではなく、有名な古歌を貼りつけたものである。散り落ちたもみじの葉であれ、咲く花であれ、すべて仏法の姿をあらわすものであり、全身全霊五感をもって感じ取れ、と暗示するものならば、冒頭の「見色明心、聞声悟道」の返しの役割を担わせていることになる。あるいはまた、落葉も咲く花も同じであり、仏法の御姿とは「空」であると言いたかったのかもしれない。
さて、大内の序文にあらわれる「芥子(けし)」は古代インドの舎衛国(シュラーヴァスティー)を舞台とする仏教説話をイメージさせる。
幼い男子を亡くしたばかりの女性キサー・ゴータミーが遺体を抱えたまま「子供に薬を下さい、薬を下さい」と狂ったように街中を練り歩いていた。ゴータミーは舎衛国を訪問していた釈尊の噂を聞き、そこまで出向いて同じように薬を求めた。釈尊答えて曰く、「よろしい、芥子粒をもってきなさい。ただし、いまだ死人を出したことのない家からもらうんだよ」と。ゴータミーはあちこち家を訪ねて芥子粒を探し回ったけれども、ついに条件を満たす芥子粒を得るに至らなかった。死人のでていない家などないと分かり、人生の無常を知って、ゴータミーは後に出家したという。
世界海とは芥子と同じでどこからも手に入らないし、だれも見ることのできないものだが、鼻や舌で微かに感じることもできるし、形や音となってあらわれることもある。それらの現象を注意深く観察し、聞き耳を立てなさい、と諭しているのである。大内には、能海が芥子を探し回るゴータミーに重なってみえたのかもしれない。
いずれにしても、能海が本文で強く訴える内容と、大内青巒の序文には大きな乖離がある。青巒は本書の原稿に眼を通し、能海の意見に若干の違和感を覚えたため、素直な推薦文を書くことを躊躇ったような気がしてならない。欧米やチベットに視野を広げることが必ずしも仏教の向上や改革につながるわけではなく、結局は個人の問題に行きつくことを予見していたのではないだろうか。
12.明治維新150年と能海寛
今年度(2018)は明治150年にあたる年であり、維新直前に石見で生まれた能海寛の生誕150周年でもあるため、各地で記念事業が相次いだ。最後に、明治維新と能海の相関性について考察をひろげておこう。
明治維新の英訳は Meiji Restoration という。 維新の訳語として、Revolution ではなく、 あえて Restoration という言葉をあてている点に注目したい。Restoration は文化財保護の分野では「修復」とか「復原」と訳すが、明治維新の場合は「復古」を意味する。したがって、Meiji Restoration を直訳するならば、「明治の(王政)復古」となるであろう。欧米人は、近代日本の端緒となった明治維新を「革命」ではなく、「王政の復古」だと喝破していたのである。
日本人はながい間そういう認識をもてないでいた。司馬遼太郎の『龍馬がゆく』(1963-66)だとか、NHK大河ドラマの影響が大きいのであろうが、日本人にとって明治維新とは、坂本龍馬や西郷隆盛のような英傑が地方から続々とあらわれ、腐敗しきった中央の徳川幕府を滅ぼして、新しい近代社会を誕生させた大革命だと考えてきた。しかし、近年ようやく、そうではなかったのではないか、という疑問を覚える人が増えてきている。明治維新とは、尊王攘夷思想を信仰する薩長の連合軍が天皇を担いで起こしたクーデターであった、という歴史観である。明治維新がもたらしたのは「神国日本」の復活であった。
尊王攘夷は、天皇を最上位の神格として敬い、外国人(夷狄)を排除する思想である。尊王思想を原動力にして成し遂げられた明治維新は、つまるところ、市民革命ではなかった。ヨーロッパの市民革命が封建的な王制を解体して民主的な共和国制を誕生させる政治・社会の大変革であったのに対して、日本の明治維新は幕藩体制を崩して、古代の天皇制と律令制を復活させる制度改変であり、歴史の流れに逆行する側面を少なからず含んでいたのである。後に大東亜戦争など数々の悲劇を日本にもたらす元凶あるいは伏線であったという見方も過ちとは言えないであろう。
宗教の面では、古代的な天皇制復活によって神道が正教となる一方、仏教は邪教扱いされ不遇の時期を迎える。神仏仲良く共存していた近世が終わり、神仏分離から廃仏毀釈の大きな流れが渦巻いていく。さらには、文明開化の下、欧米の科学技術や文化とともにキリスト教が公けに布教され始めるわけだから、日本仏教は歴史上最も苦難の時期にあったと言っても過言ではなかろう。こうした苦境にあって、能海らの新仏教改革構想が芽生えたことには注目しなければならない。ちなみに、能海は「明治十九年(1886)のころ、仏門が極度に衰退し、周囲はただキリスト教の声のみを聞く時期にあった」と第14章(原文76頁)で回顧している。しかしながら、キリスト教がいくら脅威であったとはいえ、現状から顧みるならば、仏教衰退の最大の要因とは思えない。
明治22年(1889)、大内青巒は哲学館主の井上円了らとともに、天皇崇拝に重きをおく仏教政治運動団体「尊皇奉仏大同団」を結成する。ここで、能海と井上・大内の関係を整理しておこう。安政5年(1858)長岡藩に生まれた井上円了は、能海より10歳年上であり、東本願寺の国内留学生として東京大学文学部哲学科に進学した。卒業後、明治20年(1887)に哲学館(現東洋大学)を設立し、初代館主を務める。能海は22歳のとき京都経由で上京し慶応義塾に入学するが、まもなく哲学館に転学して語学・宗教学・仏教などを修めた。そして、明治26年(1893)の課程修了の直後に『世界に於ける仏教徒』を出版する。その書はいわば哲学館の卒業論文のようなものなのだが、その序文を大内青巒に委ねているのである(大内は後に哲学館を後継した東洋大学の学長に就任する)。能海が哲学館修学中に組織された尊皇奉仏大同団の思想は能海にも影響を与えなかったはずはない。『世界に於ける仏教徒』では第17章「本山政論第一」において、尊皇奉仏大同団を百花繚乱の政策論陣の代表例として掲げながら、王政維新についても言及している。【原文85-86頁】
(略)これまで数百年間、(仏教は)封建制度に伴ってきました。ほとんど
その精神を失った旧仏教は、今日わが国の王政維新後の新社会文化が隆盛な
時代にあっては、旧来の弊習を取り除き、仏教維新の大改善を必ずなさなけ
ればならないことは言うまでもありません。
思想史的にみれば、この「王政維新」あるいは「尊皇奉仏」という概念には矛盾が露呈している。すでに述べたように、尊王(皇)思想は天皇を敬い、神道を尊ぶが、仏教は排斥すべき邪教に位置づけている。仏教が史上最大の苦境に陥っている主因は、キリスト教の伝道布教以上に、王政の維新(復古)にあった。それを承知の上で、尊皇奉仏の宗教家たちは王政に与し、神道に楯突こうとしていない。明治中期になって廃仏毀釈の勢いが弱まったこともあったのかもしれないが、神道に対する批判的な論調はいっさい隠しながら、能海はあえて第17章で仏教こそが国教であるべきだと述べている。【原文87頁】
日本において仏教は国粋です。日本の国教は仏教とするべきだと論じるのは、
日本仏教政論であって(略)じつに日本独立の生命です。日本国粋の愛児です。
日本愛国の力です。ですから、国家独立の大義を重んじながら将来文明の進路
を切り開こうとするのならば、完全円満な仏教の真理によらないわけにはいきません。
こうして尊王に与しつつ、仏教こそが国粋であり、国教であるべきだと論じながら、攻撃の矛先を夷狄の信仰するキリスト教にむけたのである。この点からみれば、能海らの宗教家グループは明治維新前後の尊王攘夷の時代の申し子だと言わざるをえないであろう。それはおそらく「個人の資質」以上に、王政復古の機運が宗教家たちに投影した「時代の資質」と呼ぶべきものと思われる。いずれにしても、明治維新の年に生まれた能海の宗教観と明治維新の思想的背景の係わりを否定するのは難しい。
余談ながら、こうした尊王攘夷の思想をもつ一群の人びとを、現代の言葉に置き換えるとすれば、「右翼」がふさわしい。能海が好んで用いる「国粋」「愛国」などの言葉は「右翼」とよく似合う。しかし、べつにわたしは「右翼」が良くないと言いたいわけではない。「極右」も「極左」もほぼ同じだという感覚がある。昭和戦後における左翼の学生運動活動家たちと能海寛のイメージが重なりあうからである。学生運動家にとってマルキシズムは絶対的な思想であり、カール・マルクスの教えに従って世界革命を起こすと宣言し、バリケードで大学を閉鎖して無垢な若者を扇動した。能海にとっての「ブッダと宇内一統宗教」は、幕末志士の遺伝子を受け継ぐ近代日本の軍人にとっての「天皇と大東亜共栄圏」に相似するだけでなく、昭和戦後の左翼的活動家にとっての「マルクスと世界革命」とほぼ合同のようにみえるのである。【続】
【連載情報】
・能海寛を読む(1)
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・能海寛を読む(2)
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・能海寛を読む(3)
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・能海寛を読む(4)
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・能海寛を読む(5)
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・能海寛を読む(6)
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