陳従周先生生誕百周年(1)
文人と園林
中国に恩師が二人いる。一人は楊鴻勛先生(中国社会科学院考古研究所・建築考古学)である。昨年、福州大学での記念シンポジウムに参加させていただいた。楊先生は二人めの指導教官である。すでに奈文研に就職していた1992年に学術振興会特定国派遣研究員として中国社会科学院考古研究所等で「中国早期建築の民族考古学的研究」に携わった際に指導していただいた。
最初の指導教官は陳従周先生(同済大学・庭園史)であった。大学院時代、中国に留学した1982~84年の後半一年間、同済大学建築系で「長江下流域明清時代住宅調査」に取り組んだ際の指導教官である。陳先生は同済大学建築系の教授であり、国内ではひろく江南園林の研究者・作庭家として知られた方だが、それ以上に「文人」としての匂いを残す稀有の教養人として知られていた。そもそも陳先生は、之江大学(現浙江大学)の文学部を卒業されており、若いころは徐志摩という詩人の研究に没頭されていた。そこから建築と園林(庭園)の専門家に転じられるのだが、先生にとっては建築よりも園林がはるかに重要な研究対象であった。ただし、中国の「園林」とは、その文字面と異なって、樹木や池水の占める面積比率は大きくない。建築の占める面積がひろいので、園林研究は建築系の学科が担当する。日本庭園の研究が農学部の主題であるのとは対照的であろう。
陳先生は作庭に持論をもっておられた。曰く、「中国で園林をつくる者は職人や技術者ではなく、文人である。文・詩・書・画・戯曲などに長けた人物でなければ庭は作れない」。陳先生はそうした文人としての作庭家の代表であった。
昨年は陳先生の生誕百周年にあたり、浙江大学でシンポジウムが開催され、その成果文集を出版するとのことで、最近わたしにも執筆の打診が届いた。あれだけの恩人の記念事業に関わらせていただくこと、とても嬉しく思い、もちろん即答で快諾した次第である。この正月には母校を訪問したばかりであり、まことに良いタイミングで依頼を頂戴したものだと感謝している。
その後、論文ではなく、随想でよいという情報がもたらされた。雑文書きを得意とする私としては、さらに気持ちが上向いてきている。しかしながら、同済大学で陳先生の指導を受けたのは35年前のことであり、忘却の彼方になってしまったところが多いので、ここはまず基礎情報を整理しようと思うに至った。
というわけで、初回はまず陳先生の簡単な年表づくりに取り組んでみる。この作業はそんなに楽ではなかった。まず中国のネット制限が厳しく、グーグルを始めとする自由主義陣営の検索エンジンが上手く機能しない。中国の場合、「百度」というエンジンが有効です。それにしても、中国語の力は錆びついており、翻訳自体容易ではなく、その前提となる簡体字と繁体字の変換すら危ないもので、結構時間がかかりました。えんやこら・・・
←陳従周先生 (左)青年期 (右)晩年
之江大学旧址
陳従周先生略年表
1918年11月27日: 杭州市生まれ。原籍は紹興市道墟杜浦(今は上虞の一部)。
1938—42年: 之江大学文学系で学び、文学学士を取得。
*之江大学(Hangchow University)はアメリカのキリスト教プロテスタント、カルヴァン派が
設立した大学。カルヴァン派は「長老教会」とも呼ばれる。浙江大学のキャンパスの一部に
22棟の建造物遺構を残し、それらは2006年に全国重点文物保護単位に指定された。
1942—49年: 杭州、上海などの高等学校・師範学校で国文、歴史、教育史、生物学を教える。
*遠縁の親戚にあたる詩人、徐志摩の研究に没頭。『徐志摩年譜』を革命の年(1949)に出版。
1950年: 蘇州美術専科学校副教授、聖ヨハネ大学(上海)併任。
1951年: 之江大学建築系副教授,蘇南工業専門学校併任。
1952年: 同済大学建築系に着任し、建築歴史教研室を準備。
1955年: 同済大学建築歴史教研組の組長に就任(副教授)。
1978年: 同済大学建築系教授。
1980年: 著書『蘇州園林』が横山正氏(東大)の翻訳により、日本で出版される。
関口欣也氏(横浜国大)が同済大学で江南五山禅林の研究に携わる。
1982-83年:【浅川】北京語言学院
1983年: 『揚州園林』出版
1983-84年:【浅川】同済大学
1985年: 『陳従周詩詞集 山湖処処』出版、I・M・ペイ建築設計事務所(アメリカ)顧問。
1989年: 台湾の季刊誌『造園』顧問、日本庭園学会海外名誉会員。
1992年:【浅川】中国社会科学院考古研究所
2000年3月15日: 逝去
著書: 『蘇州園林』 『揚州園林』 『園林談叢』 『説園』 『書帯集』 『山湖処処』等多数
中国に恩師が二人いる。一人は楊鴻勛先生(中国社会科学院考古研究所・建築考古学)である。昨年、福州大学での記念シンポジウムに参加させていただいた。楊先生は二人めの指導教官である。すでに奈文研に就職していた1992年に学術振興会特定国派遣研究員として中国社会科学院考古研究所等で「中国早期建築の民族考古学的研究」に携わった際に指導していただいた。
最初の指導教官は陳従周先生(同済大学・庭園史)であった。大学院時代、中国に留学した1982~84年の後半一年間、同済大学建築系で「長江下流域明清時代住宅調査」に取り組んだ際の指導教官である。陳先生は同済大学建築系の教授であり、国内ではひろく江南園林の研究者・作庭家として知られた方だが、それ以上に「文人」としての匂いを残す稀有の教養人として知られていた。そもそも陳先生は、之江大学(現浙江大学)の文学部を卒業されており、若いころは徐志摩という詩人の研究に没頭されていた。そこから建築と園林(庭園)の専門家に転じられるのだが、先生にとっては建築よりも園林がはるかに重要な研究対象であった。ただし、中国の「園林」とは、その文字面と異なって、樹木や池水の占める面積比率は大きくない。建築の占める面積がひろいので、園林研究は建築系の学科が担当する。日本庭園の研究が農学部の主題であるのとは対照的であろう。
陳先生は作庭に持論をもっておられた。曰く、「中国で園林をつくる者は職人や技術者ではなく、文人である。文・詩・書・画・戯曲などに長けた人物でなければ庭は作れない」。陳先生はそうした文人としての作庭家の代表であった。
昨年は陳先生の生誕百周年にあたり、浙江大学でシンポジウムが開催され、その成果文集を出版するとのことで、最近わたしにも執筆の打診が届いた。あれだけの恩人の記念事業に関わらせていただくこと、とても嬉しく思い、もちろん即答で快諾した次第である。この正月には母校を訪問したばかりであり、まことに良いタイミングで依頼を頂戴したものだと感謝している。
その後、論文ではなく、随想でよいという情報がもたらされた。雑文書きを得意とする私としては、さらに気持ちが上向いてきている。しかしながら、同済大学で陳先生の指導を受けたのは35年前のことであり、忘却の彼方になってしまったところが多いので、ここはまず基礎情報を整理しようと思うに至った。
というわけで、初回はまず陳先生の簡単な年表づくりに取り組んでみる。この作業はそんなに楽ではなかった。まず中国のネット制限が厳しく、グーグルを始めとする自由主義陣営の検索エンジンが上手く機能しない。中国の場合、「百度」というエンジンが有効です。それにしても、中国語の力は錆びついており、翻訳自体容易ではなく、その前提となる簡体字と繁体字の変換すら危ないもので、結構時間がかかりました。えんやこら・・・



陳従周先生略年表
1918年11月27日: 杭州市生まれ。原籍は紹興市道墟杜浦(今は上虞の一部)。
1938—42年: 之江大学文学系で学び、文学学士を取得。
*之江大学(Hangchow University)はアメリカのキリスト教プロテスタント、カルヴァン派が
設立した大学。カルヴァン派は「長老教会」とも呼ばれる。浙江大学のキャンパスの一部に
22棟の建造物遺構を残し、それらは2006年に全国重点文物保護単位に指定された。
1942—49年: 杭州、上海などの高等学校・師範学校で国文、歴史、教育史、生物学を教える。
*遠縁の親戚にあたる詩人、徐志摩の研究に没頭。『徐志摩年譜』を革命の年(1949)に出版。
1950年: 蘇州美術専科学校副教授、聖ヨハネ大学(上海)併任。
1951年: 之江大学建築系副教授,蘇南工業専門学校併任。
1952年: 同済大学建築系に着任し、建築歴史教研室を準備。
1955年: 同済大学建築歴史教研組の組長に就任(副教授)。
1978年: 同済大学建築系教授。
1980年: 著書『蘇州園林』が横山正氏(東大)の翻訳により、日本で出版される。
関口欣也氏(横浜国大)が同済大学で江南五山禅林の研究に携わる。
1982-83年:【浅川】北京語言学院
1983年: 『揚州園林』出版
1983-84年:【浅川】同済大学
1985年: 『陳従周詩詞集 山湖処処』出版、I・M・ペイ建築設計事務所(アメリカ)顧問。
1989年: 台湾の季刊誌『造園』顧問、日本庭園学会海外名誉会員。
1992年:【浅川】中国社会科学院考古研究所
2000年3月15日: 逝去
著書: 『蘇州園林』 『揚州園林』 『園林談叢』 『説園』 『書帯集』 『山湖処処』等多数