陳従周先生生誕百周年(3)
さよなら、語言!
中国留学時代の古いノートを引っ張り出して、汚い文字列を読み返してみた。今となっては貴重な資料である。
1983年8月26日、北京語言学院での一年間の研修を終えて上海に向かった。午後7時、九楼前に集合すると、半年間同室だった武藤や、倉吉出身の鵜沼などの日本人の若者たちに加えて、カメルーンやネパールの留学生が見送りにきてくれた。北京での一年間、私は「北京語言学院六楼隊」というサッカーチームに属していて、左サイドバックでそこそこ勝利に貢献していた。チームメートは大半がアフリカ系の留学生であり、一部アジア系も含んでいて、そのメンバーが北京駅にまでついてきてくれたのである。あおちゃんとゆーぼうも駅に来ていて驚いた。家庭教師をしていた新聞社特派員のお子さんたちである。
上海行きの夜行列車(21次特快)は午後9時8分、北京駅を出発した。切符がノートに貼り付けてある。「硬座特快臥(中)」とプリントされており、コンパートメント(軟臥)ではなく、硬い三段ベッドの中段で眠ったようだ。値段は43.10元。当時のレートを調べると、1元(中国)≒120円(日本)なので、日本円なら5,172円に換算できる。たしか軟臥は8,000円ぐらいだったと思う。記憶も記録も残っていないが、このチケットは自分で購入したのではなく、語言学院が買い与えてくれたような気がする。ちなみに、硬座(ハードシート)はつらいが、硬臥(ハードスリーパー)は快適である。寝台に横になれるわけだから、2~3日乗ってもさほど疲れない。目覚めると、車窓は江南の水郷地帯に変わっていて、それはまもなくわたしの研究主題になる風景であり、どれだけ眺めても飽きはしなかった。
20時間近く列車に揺られ、翌27日の午後4時25分、上海駅に着いた。同済大学外事弁公室の劉利生氏と徐毓盛氏の出迎えをうけ、車で大学へ。留学生楼2階の2029号室をあてがわれた。木造ではあるが、十畳ばかりの大部屋だ。一般の学部留学生なら2人、中国人の学生なら4~6人の相部屋となるが、わたしは大学院生だったので特別扱いを受けたのである。

同済大学文遠楼接待室
翌28日は譚垣教授(1903-96)の自邸に招かれた。谭先生は広東の出身で、解放以前にペンシルバニア大学(米)で建築を学び、帰国後は上海の范文照建築師事務所で設計に携わった。1931年から南京中央大学建築系教授となり、1937年には重慶大学建築系併任。1947年より之江大学教授。解放後、1952年より同済大学建築系教授となった。1918年生まれの陳先生より15歳年上で、1983年当時すでに80歳であり、日本でいえば名誉教授にあたるが、中国では教授は永遠に教授である。ちなみに同年、陳先生は65歳、わたしは26歳であった。
翌29日は何もなかった・・・わけではない。一年前のこの日、ぼくは鳥取で結婚式をあげていた。新婚旅行は北京だった。1週間後、新婦は嬉々として帰国し、ぼくは一人ベソをかいて北京に残った。記念日なので、キャンパスをでて大きな郵便局から国際電話をかけて新婦と長話をした。月にいちどの浪費である。
8月31日、同済大学文遠楼接待室に院儀三副教授(都市計画)、呉光祖副教授(建築史)、路秉傑副教授(建築史)、劉利生氏(外事弁公室)の4名が集結し、わたしの研究計画について話しあった。とくに呉氏の提案により、江蘇・浙江の民家を調査することを教育部に提出してみてはどうか、と言われ、有難く同意した。9月2日、再び文遠楼接待室へ。呉先生の紹介により建築系主任の羅小未教授と面会した。譚垣教授が開学当初のボスであり重鎮であるとすれば、羅教授は1983年当時の建築系リーダーであった。やはり広東の人で、解放前夜の1948年に上海の聖ヨハネ大学を卒業し、解放後、同済大学に着任した。専門は建築理論・西洋建築/近代建築史。後に『時代建築』誌の主編者となる。あの日も最新の『時代建築』を1冊贈呈された記憶がある。また数年後に来日され、奈文研で再会した際、枯山水に大変興味があると仰っていた。
聖ヨハネ大学(上海)
ちなみに、聖ヨハネ大学は1879年に開校した聖ヨハネ書院に起源する。「東洋のハーバード大学」をめざしており、1905年には4学部を備えた総合大学となり、富裕層の子弟を数多く教育した。解放後もしばらく存続したが、1952年以降、華東師範大学や復旦大学等へ学部を移管した。当初のキャンパスは現在の華東政法大学の敷地にあったが、旧建造物は残っていない。ちなみに、陳従周先生は1950年に聖ヨハネ大学の副教授を併任している。
山東水餃子
その日の午後、路先生が留学生楼を訪ねてきた。研究計画の細部を詰めるためである。結局、以下のような結論に至る。
1983年
09月: 江蘇・浙江調査の準備 上海郊外農村・農家の視察
10月: 浙江省北部の民家調査
11月: 江蘇省太湖周辺の民家調査
12月: 資料整理
1984年
01月: 冬休み(3週間帰国)
02月: 華南漢族・少数民族調査の準備
03月以降: 福建・広東・広西・海南島・雲南・貴州などの調査
08月: 帰国
当時としては画期的なフィールドワークの構想である。日中友好が叫ばれてはいたものの、文革終焉後数年しか経っていない特殊な状況下にあって、ビザなしで外国人が訪問可能な都市は30ヶ所程度にすぎなかった。未開放の地域に入る場合、複雑な申請を経由してヴィザを得る必要がある。その許可が下りるとは限らない。また、原則として農村には入れない。未開放地や農村を外国人がうろうろしていると、スパイ扱いされる時代であった。とくに図面や地図をつくるのはタブーであり、そうした状況にありながら、上の調査計画を練り上げてくださった同済大学には今でも感謝の気持ちしかない。
9月4日、路先生が同済新村の自宅に招いてくださった。出身地の山東水餃子をいっしょにつくって腹いっぱい食べさせていただいた。路さんとわたしが小麦粉をこねて皮をつくり、奥様は黄韮と葱と豚肉で餡をつくった。黄韮が異常に多いのだが、それがとても美味い。その後、おなじ同済新村の陳従周先生宅に案内された。そのときはまだこの大家の偉大さを知らないでいたが、先生は大歓迎してくださった。『説園』ほか数冊のご著書に加えて、拓本まで贈呈いただいた。これが陳先生との出会いである。【続】
中国留学時代の古いノートを引っ張り出して、汚い文字列を読み返してみた。今となっては貴重な資料である。
1983年8月26日、北京語言学院での一年間の研修を終えて上海に向かった。午後7時、九楼前に集合すると、半年間同室だった武藤や、倉吉出身の鵜沼などの日本人の若者たちに加えて、カメルーンやネパールの留学生が見送りにきてくれた。北京での一年間、私は「北京語言学院六楼隊」というサッカーチームに属していて、左サイドバックでそこそこ勝利に貢献していた。チームメートは大半がアフリカ系の留学生であり、一部アジア系も含んでいて、そのメンバーが北京駅にまでついてきてくれたのである。あおちゃんとゆーぼうも駅に来ていて驚いた。家庭教師をしていた新聞社特派員のお子さんたちである。
上海行きの夜行列車(21次特快)は午後9時8分、北京駅を出発した。切符がノートに貼り付けてある。「硬座特快臥(中)」とプリントされており、コンパートメント(軟臥)ではなく、硬い三段ベッドの中段で眠ったようだ。値段は43.10元。当時のレートを調べると、1元(中国)≒120円(日本)なので、日本円なら5,172円に換算できる。たしか軟臥は8,000円ぐらいだったと思う。記憶も記録も残っていないが、このチケットは自分で購入したのではなく、語言学院が買い与えてくれたような気がする。ちなみに、硬座(ハードシート)はつらいが、硬臥(ハードスリーパー)は快適である。寝台に横になれるわけだから、2~3日乗ってもさほど疲れない。目覚めると、車窓は江南の水郷地帯に変わっていて、それはまもなくわたしの研究主題になる風景であり、どれだけ眺めても飽きはしなかった。
20時間近く列車に揺られ、翌27日の午後4時25分、上海駅に着いた。同済大学外事弁公室の劉利生氏と徐毓盛氏の出迎えをうけ、車で大学へ。留学生楼2階の2029号室をあてがわれた。木造ではあるが、十畳ばかりの大部屋だ。一般の学部留学生なら2人、中国人の学生なら4~6人の相部屋となるが、わたしは大学院生だったので特別扱いを受けたのである。

同済大学文遠楼接待室
翌28日は譚垣教授(1903-96)の自邸に招かれた。谭先生は広東の出身で、解放以前にペンシルバニア大学(米)で建築を学び、帰国後は上海の范文照建築師事務所で設計に携わった。1931年から南京中央大学建築系教授となり、1937年には重慶大学建築系併任。1947年より之江大学教授。解放後、1952年より同済大学建築系教授となった。1918年生まれの陳先生より15歳年上で、1983年当時すでに80歳であり、日本でいえば名誉教授にあたるが、中国では教授は永遠に教授である。ちなみに同年、陳先生は65歳、わたしは26歳であった。
翌29日は何もなかった・・・わけではない。一年前のこの日、ぼくは鳥取で結婚式をあげていた。新婚旅行は北京だった。1週間後、新婦は嬉々として帰国し、ぼくは一人ベソをかいて北京に残った。記念日なので、キャンパスをでて大きな郵便局から国際電話をかけて新婦と長話をした。月にいちどの浪費である。
8月31日、同済大学文遠楼接待室に院儀三副教授(都市計画)、呉光祖副教授(建築史)、路秉傑副教授(建築史)、劉利生氏(外事弁公室)の4名が集結し、わたしの研究計画について話しあった。とくに呉氏の提案により、江蘇・浙江の民家を調査することを教育部に提出してみてはどうか、と言われ、有難く同意した。9月2日、再び文遠楼接待室へ。呉先生の紹介により建築系主任の羅小未教授と面会した。譚垣教授が開学当初のボスであり重鎮であるとすれば、羅教授は1983年当時の建築系リーダーであった。やはり広東の人で、解放前夜の1948年に上海の聖ヨハネ大学を卒業し、解放後、同済大学に着任した。専門は建築理論・西洋建築/近代建築史。後に『時代建築』誌の主編者となる。あの日も最新の『時代建築』を1冊贈呈された記憶がある。また数年後に来日され、奈文研で再会した際、枯山水に大変興味があると仰っていた。

ちなみに、聖ヨハネ大学は1879年に開校した聖ヨハネ書院に起源する。「東洋のハーバード大学」をめざしており、1905年には4学部を備えた総合大学となり、富裕層の子弟を数多く教育した。解放後もしばらく存続したが、1952年以降、華東師範大学や復旦大学等へ学部を移管した。当初のキャンパスは現在の華東政法大学の敷地にあったが、旧建造物は残っていない。ちなみに、陳従周先生は1950年に聖ヨハネ大学の副教授を併任している。
山東水餃子
その日の午後、路先生が留学生楼を訪ねてきた。研究計画の細部を詰めるためである。結局、以下のような結論に至る。
1983年
09月: 江蘇・浙江調査の準備 上海郊外農村・農家の視察
10月: 浙江省北部の民家調査
11月: 江蘇省太湖周辺の民家調査
12月: 資料整理
1984年
01月: 冬休み(3週間帰国)
02月: 華南漢族・少数民族調査の準備
03月以降: 福建・広東・広西・海南島・雲南・貴州などの調査
08月: 帰国
当時としては画期的なフィールドワークの構想である。日中友好が叫ばれてはいたものの、文革終焉後数年しか経っていない特殊な状況下にあって、ビザなしで外国人が訪問可能な都市は30ヶ所程度にすぎなかった。未開放の地域に入る場合、複雑な申請を経由してヴィザを得る必要がある。その許可が下りるとは限らない。また、原則として農村には入れない。未開放地や農村を外国人がうろうろしていると、スパイ扱いされる時代であった。とくに図面や地図をつくるのはタブーであり、そうした状況にありながら、上の調査計画を練り上げてくださった同済大学には今でも感謝の気持ちしかない。
9月4日、路先生が同済新村の自宅に招いてくださった。出身地の山東水餃子をいっしょにつくって腹いっぱい食べさせていただいた。路さんとわたしが小麦粉をこねて皮をつくり、奥様は黄韮と葱と豚肉で餡をつくった。黄韮が異常に多いのだが、それがとても美味い。その後、おなじ同済新村の陳従周先生宅に案内された。そのときはまだこの大家の偉大さを知らないでいたが、先生は大歓迎してくださった。『説園』ほか数冊のご著書に加えて、拓本まで贈呈いただいた。これが陳先生との出会いである。【続】