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陳従周先生生誕百周年(6)

5.蘇州古典園林-世界遺産評定2000

夕陽に映える白銀の借景

 帰国の3年後、1987年から研究所に勤務するようになった。研究所は中国社会科学院考古研と共同で「日中都城の比較研究」を進めていたが、個人的にも住宅総合研究財団の助成によって、貴州のトン族・ミャオ族、西北雲南のチベット・ビルマ語族、黒龍江のツングースと朝鮮族の住居集落に係る調査研究を細々と続けていた。そうした調査の帰途、上海でしばしば1泊し、同済新村の陳従周先生宅にお邪魔した。病床に伏されていた先生のお見舞いである。
 先生がお亡くなりになる2000年3月の直前、蘇州古典園林の第2次世界文化遺産評定の依頼が届いた。イコモスの調査員として5つの庭の文化財価値を審査せよ、というミッションである。第1次世界文化遺産評定は1997年に以下の四園を対象にしておこなわれ、すでに世界遺産リストへの登録を済ませていた。

  1.拙政園   明・正徳4年(1509)
  2.留園    明・万暦21年(1593)
  3.網師園   清・乾隆24年(1758)
  4.環秀山荘  明・万暦年間(16世紀末~17世紀初)

 いずれも全国重点文物保護単位に指定されている。陳先生の名言「江南園林甲天下、蘇州園林甲江南」を引用するまでもなく、上の四園は中国を代表する名園であり、世界遺産の名にふさわしい存在である。
 さて、蘇州には30以上の私邸園林が集中して存在する。そのうち、2000年2月下旬に実施された第2次評定の対象として中国政府が申請したのは以下の五園であった。

  5.獅子林  元・至正二年(1342)   
  6.耦園   清・擁正~光緒年間(19世紀)
  7.芸圃   明・嘉靖年間(16世紀中頃)
  8.滄浪亭  明・嘉靖年間(16世紀中頃)
  9.退思園  清・光緒11~13年(1885~87)

 これらも中国を代表する名園と言えるであろうが、第1次評定対象が全国重点文物保護単位であるのに対して、第2次評定対象はすべてが江蘇省文物保護単位(後に全国重点文物保護単位に格上げ)という点が気がかりであり、第2次評定を進めるにあたって、わたしはまず拙政園と留園の見学を希望した。すでに春の兆しに満ちた季節になっていたが、十数年ぶりに雪が降り始め、植栽と屋根瓦に微かな積雪をみた。夕暮に訪れた拙政園では、積雪と池水に夕陽が反射し、とりわけ北寺塔を借景に取り込んだ風景はえも言われぬ幻想的な世界を生み出していた(図22)。

シリアル・ノミネーション

 世界遺産登録済の二園を視察後に第2次評定対象の五園を訪れると、たしかに全国重点文物保護単位と省級文物保護単位の差を感じ取ることができた。そのすべてを書き留めることは控えるが、たとえば漏窓を例にとるならば、留園のそれは幾何学的かつ抽象的で現代美術に通じるハイレベルの芸術性を有するけれども、第2次評定対象の漏窓は動植物や壺などを直射した具象に傾斜しており(図23)、工芸としては優れているかもしれないが、芸術性が高いとまでは言えないと思った。また、拙政園で演出される大がかりな借景のダイナミズムもない。借景という点では、むしろ近隣の工場・幼稚園・アパートなどが園内からの眺望景観を害している点にも違和感があった。庭園の景観保全にとって、バッファゾーン(緩衝帯)はきわめて重要である。バッファゾーンの開発を抑制することが庭園の保護にとっては必要不可欠であろうと思われた。幸い、当時の蘇州は平江区や同里鎮などに古風な水郷の町並みをよく残しており、こうした水郷の景観と庭園の併存こそが未来への鍵を握るという意見を現地で述べた記憶がある。
 さらに評定の翌日、揚州を訪れ、国家重点文物保護単位の何園と個園を参観した。蘇州の第2次評定対象と比較するならば、庭園としての文化財価値は揚州に軍配が上がる。そういう感想を改めて抱いた。省級文物保護単位を世界遺産にしてよいものか、という問題が最初から存在したわけだが、蘇州・揚州の重点文物保護単位庭園と比べるならば、第2次評定対象の五園は必ずしも文化財価値が突出して高いわけではないということがわたしの心中で一つの結論となったのは事実である。
 しかし、蘇州の場合、市内に30以上の庭園が集中し、水路で連結されている点を軽視できない。蘇州は中国有数の「園林都市」であり「水郷都市」である点を評価するならば、庭園を単体としてとらえるのではなく、第1~2次評定の対象となった九園はシリアル・ノミネーションとして評価すべきと考えられる。また、庭園を世界遺産にすることで広大な面積のバッファゾーンが発生し、そのエリアの開発を抑制することが可能となり、蘇州という歴史都市の保全におおいに貢献するであろう。そうした観点から、第2次評定対象の五園を世界遺産リストに登載すべきというレポートをユネスコ本部に送信した。



6.蝋梅夢想-江南再訪2018

耦園雪景

 ここ2年間、年末から元旦の4日間を上海で過ごしている。留学時代から35年が過ぎ、上海はいまや東アジア最大の都市に成長している。その現代化にはとてもついていけないと思うところもあるが、租界時代の様式建築や里弄住宅は此処其処に残っており、懐かしい想いが湧き上がってくる。昨年(2018)は短時間ではあるけれども、無錫・蘇州に足をのばした。両市とも鄙びた歴史都市というイメージはすでにない。人口数百万を抱える工業都市としての性格が強くなっている。開発の波は広範囲に及び、歴史的にみえる町並みも多くは重建であり、かつて体感できた「場所の風土性」は著しく低減している。
 暖冬に気の緩む日本人を江南の街は寒気で迎えた。日本海を覆う寒気団が東シナ海沿岸にまでひろがっており、日が暮れると零下にまで気温が下がる。日本に比べマイナス10℃の感覚があった。無錫から蘇州に至り、寒山寺のあたりから雪が舞い始めた。江南の降雪は十年ぶりなのだという。まもなく耦園にたどり着く。思い起こせば、2000年2月下旬の第2次世界遺産評定時にも降雪があり、不思議な縁を感じた次第である。
 耦園は清の雍正年間に陸錦の築造した「渉園」に始まり、光緒元年(1874)、両江を統括する瀋秉成総督の宅園となる。中央に邸宅をおいて、左右に「東花園」「西花園」を配する空間構成から「寓(耦)園」と改称された。耦園の耦(寓)は偶数の「偶」、配偶者の「偶」に通じ、夫婦とその私庭の数を意味している。ちなみに、本稿が主題に使った「家庭」はホームの意ではない。それは家(住宅)と庭(園林)の複合語であり、「私邸庭園」の意味に近いと勝手に思っている。
 耦園は東を京杭大運河、南北を水路に囲まれており、まさに水郷都市の庭の代表例であるが、2000年の段階ではバッファゾーンに若干の問題を抱えていた。南面中央の入口の対岸にソ連風の大きな工場が建っており(図24)、庭園の隣には幼稚園もあってカラフルな遊具が目についた。ソ連型の工場はたしかに江南の水郷や庭園とは不釣り合いだが、いずれ近代化遺産として文化財価値を高める可能性もある。工場にせよ、幼稚園にせよ、撤去や移転を指示できるような資格はそもそもわたしにはない。「うまい具合に植栽で修景してください」と頼む以外に助言はできなかった。
 しかし、18年ぶりに耦園を訪れると、工場も幼稚園も消え失せており、庭を囲む水路の外側は緑地公園化している(図25)。理想的といえば理想的なバッファゾーンの保全的再開発だが、日本なら絶対に不可能であり、共産主義国家でしかなしえない開発だと感じて、少し複雑な心境になった。

雪うち透す蝋梅の花

 耦園の中庭(天井)で蝋梅をみた(図26)。蝋梅は屋敷奥の大きな園林ではなく、建物に囲まれた天井(テンセイ)にポツンと植えられることが多い。あの日は風に舞う粉雪やうっすらひろがる積雪にあらがうように黄金色の蕾と花が際立ってみえた。まさに「雪中四友」の代表格と称賛すべき冬の花である。
 日本では白梅や紅梅は日常の風景としてよくみかけるが、蝋梅は決して多くない。どうやら江戸時代に南方中国から輸入された樹木であり、唐梅(カラウメ=中国の梅)の別称がある。芥川龍之介は「蝋梅や雪うち透す枝のたけ」という俳句を詠んでいる。冬の雪をうち透かしてしまうほどの訴求力をもった蝋梅の美しさを称賛しているのであり、たしかに大型の和風住宅や社寺の庭で稀にみることがある。そんな蝋梅をみつけると、江南の庭を思い出して頬が緩む。
 無錫・蘇州・上海の旅から帰国して2週間たった寒い日、学生とともに鳥取市稲常の西尾家住宅を調査した際、前庭で満開になった蝋梅を発見し(図27)、心がときめいた。年末から降り積もった根雪を背景にして、主屋と土蔵と長屋門に囲まれた前庭の主役になっている。天井に咲く耦園の蝋梅を思い起こさずにはいられなかった。
 それからしばらくして、今度はスーパーマーケットの花売り場で、蝋梅の切花を発見した。近隣の農家が栽培したものである。急ぎ購入して自宅に飾ることにした。花瓶に活けた蝋梅を、迷うことなく陳従周先生自作自筆詩(前出とは別の詩)の額の脇に置く(図28)。部屋中の感覚が黄色の花と蕾に向けられ、香水のような強い芳香に部屋が満たされた。
 このように、わたしは久方ぶりの江南訪問を契機にして、蝋梅を愛でるようになった。ついには蝋梅の苗を取り寄せ、庭の片隅に植えてしまったので、来年の冬は家庭(いえにわ=私庭)で蝋梅を鑑賞できるだろうと期待している。江南の想い出とともに、雪深い鳥取の冬をうち透かす魅力を感じる花だからかもしれない。


【参考文献】
浅川(1987a)「住空間の民族誌-中国江南の伝統的住居をめぐって-」『国立民族学博物館研究報告』11巻3号:p.669-779
浅川(1987b)「“竈間”の民族誌-江浙地方のカマドと台所-」『季刊人類学』18巻3号:p.60-125
浅川(1987c)「カマド神と住空間の象徴論-続“竈間”の民族誌-」『季刊人類学』18巻4号 :p.107-145
浅川(1994)『住まいの民族建築学-江南漢族と華南少数民族の住居論-』建築資料研究社
浅川(1996)「江南住宅の木造構法と部材呼称-寧波と紹興での調査から-」『中国の方言と地域文化』 (4):p.24-43、京都大学

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魯班13世

Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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