入梅前のこと(1)
活動記録がずいぶん途切れてしまった。いちばん影響したのは、先週末に大学時代の友人がなくなって浜松まで日帰りしたことで、そのあと学生と三徳山に登ったのだが、体調不良でまさかの雉打ちとなり、おまけに相も変わらず週2回の講義の準備に追われているからである。今年は受講者が多く、両講義とも100講義室でおこなっているが、昨年とは対照的に相性がよいようで、採点→正解者発表→問題作成が苦にならない。平均点が10点満点の8~9点なんだから恐れ入る。BRDの成績がこんなに良い年も記憶にない。やはり方法に尽きるね、教育は・・・
『魏志』倭人伝に係わる、もう一つの解釈
6月7日(金)、環境大学OBの先輩教員が大阪から日帰りで本校を訪問された。田中先生は税制の専門家であるが、日本における税に係わる最初の記録が魏志倭人伝の「租賦を収む、邸閣あり」であることに注目され、2012年に「魏志倭人伝『収租賦有邸閣』の解釈」(『税』67巻3号:p.156-180、2012)と題する論考を発表され、LABLOGで取り上げた。その後も魏志倭人伝に関する興味は深まるばかりであったようで、このたび以下のご論文を発表され、それをわざわざ鳥取までお持ちいただいたのである。
田中章介
「『魏志』倭人伝に係わる、もう一つの解釈-邪馬台国位置論に関連して-」
『大阪学院大学 人文自然論叢』第77-78号:p.1-23、2019年3月
驚いたことに、邪馬台国の位置論にまで言及した労作であり、以下に構成を示す。これからどこかのファミレスにしけこんでじっくり読んできます。
はじめに
Ⅰ 陳寿『魏志』とその先行史書
Ⅱ 『広志』逸文の解析
1.『広志』序説-3つの論点
2.邪馬嘉国と伊都国の位置関係
3.重要熟語「女国」-「邪馬嘉国」の代名詞
Ⅲ 『魏略』および『太平御覧』の参酌
1.『魏略』に学ぶ-「女国」と「女王国」の分別記述
2.『太平御覧』の参酌-「女国」、そして「邪馬臺国」の名称登場
3.「邪馬臺国」に至る別行程「南水行30日陸行1月」の理解
Ⅳ 『魏志』倭人伝による総括
1.卑弥呼の時代背景
2.「邪馬臺国女王所都」の解釈
おわりに
『魏志』倭人伝に係わる、もう一つの解釈
6月7日(金)、環境大学OBの先輩教員が大阪から日帰りで本校を訪問された。田中先生は税制の専門家であるが、日本における税に係わる最初の記録が魏志倭人伝の「租賦を収む、邸閣あり」であることに注目され、2012年に「魏志倭人伝『収租賦有邸閣』の解釈」(『税』67巻3号:p.156-180、2012)と題する論考を発表され、LABLOGで取り上げた。その後も魏志倭人伝に関する興味は深まるばかりであったようで、このたび以下のご論文を発表され、それをわざわざ鳥取までお持ちいただいたのである。
田中章介
「『魏志』倭人伝に係わる、もう一つの解釈-邪馬台国位置論に関連して-」
『大阪学院大学 人文自然論叢』第77-78号:p.1-23、2019年3月
驚いたことに、邪馬台国の位置論にまで言及した労作であり、以下に構成を示す。これからどこかのファミレスにしけこんでじっくり読んできます。
はじめに
Ⅰ 陳寿『魏志』とその先行史書
Ⅱ 『広志』逸文の解析
1.『広志』序説-3つの論点
2.邪馬嘉国と伊都国の位置関係
3.重要熟語「女国」-「邪馬嘉国」の代名詞
Ⅲ 『魏略』および『太平御覧』の参酌
1.『魏略』に学ぶ-「女国」と「女王国」の分別記述
2.『太平御覧』の参酌-「女国」、そして「邪馬臺国」の名称登場
3.「邪馬臺国」に至る別行程「南水行30日陸行1月」の理解
Ⅳ 『魏志』倭人伝による総括
1.卑弥呼の時代背景
2.「邪馬臺国女王所都」の解釈
おわりに
【感想】
邪馬台国と卑弥呼に係る先行研究、および古代中国の関係文献を渉猟された大労作であり、わたしのような建築屋がどうのこうの言えるほどの資格はないけれども、恥ずかしながら感想を述べさせていただきます。
田中先生のご高説は、30ページの「小括」にまず短くまとめられているので、引用しておきましょう。
本節を総括すると、3世紀中葉のわが国はいまだ列島統一には至っておらず、むしろ
①北九州勢力(伊都国・奴国などを含む邪馬嘉国連合)、②狗奴国勢力、並びに
③畿内大和の新興勢力(『魏志』倭人伝にいう邪馬壹国、すなわち初期ヤマト政権
またはその前身)の鼎立状態にあったと結論づけることができるのである。
なお、ヤマト政権による北部九州を含む列島的統一は、ヤマト政権と加耶・百済との
密接な直接交流の生じる直前の、ほぼ4世紀前半と解されるのである。
そして、抜群にユニークな視点は、女王(卑弥呼)を中心とする「女国」とは北九州の邪馬嘉国連合であって、大和朝廷の源流たる邪馬台国ではない、という点であります。とてもおもしろい発想であり、感心させられました。ただ、一般的に「臺(台)」もしくは「壹(壱)」の誤記と理解される「嘉」を誤記でないと判断してよいのか、気になるところです。というのも、「邪馬臺」はヤマト、「邪馬壹」はヤメ(八女・邪馬渓)、投馬(ツマ)はイズモ、狗奴(クナ)はクマ(熊本・球磨川・熊襲等)の音写としてそれぞれ捉えられるわけですが、はたして「邪馬嘉」に対応する地名が北九州の海岸寄りに存在するのか否か。
検索してみると、熊本北部に山鹿(ヤマガ)市を発見。福岡県八女(ヤメ)市の南に隣接する行政区でドキッとしましたが、佐賀の吉野ヶ里よりははるか南に位置するので、むしろ地理的には②狗奴国勢力にあたるのではないか、少なくとも①北九州勢力(伊都国・奴国などの連合)からやや遠い山間部にあると思えるのです(因幡方言でヤマガは山間部の田舎を意味します)。もっとも、八女にしても耶馬溪(ヤバケイ、大分県日田市)にしても、やはり②から遠いところにあって山鹿に近いので、それらを一括したいところですが、すでに述べたように、いずれも②狗奴国勢力とみなすべき場所の縁辺部にあたるように思われます。
ちなみに、熊本県には高千穂に近い東側の山間部に山都(ヤマト)町が位置しています。上益城郡山都町。かつて同町の「通潤橋」(重要文化的景観)を訪問した際、「火の国 ぶらり(Ⅲ)」紀行で、以下のごとき不遜な文章を書いてしまいました(2011年大晦日)。
クリスマスには山都にいた。山都は「やまず」とでも読むのだろうと車を走らせて
いたところ、道路標識に YAMATO とあるのに驚いた。さらに、高千穂まで40キロ
ばかりの地点だというから、(そうか八女などと並んでここも「卑弥呼の国」の有力
候補地なのだろう)と考えていた右手に「邪馬台国」というラブホテルがあらわれた。
山都は天岩戸神社にも近く、地名だけみるとしゃれにならない神話スポットなのですが、これらもまた②狗奴国勢力の範囲と思しき場所であります。こうして地名だけみてみると、
山鹿-八女-耶馬溪-山都
が連鎖してくるので、「邪馬嘉国連合」なるものが存在するとすれば、それは②狗奴国勢力と同義か、その一部をさすのではないか、と推測したくなってくる。このあたりを「邪馬嘉国」とみれば、田中論文8ページの「伊都国近傍の邪馬嘉国」という『韓苑』の記載とも整合するように思えるのですが・・・
以上は戯言です。田中先生の綿密な考証とは全然レベルがちがう。それにしても、邪馬台国あるいは倭国と敵対関係にあった狗奴国の勢力範囲にヤマトなる地名やら天孫降臨ゆかりの聖地があるのはなぜなのか、脳みそを耳掻きでくすぐられるような心境に陥りました。
邪馬台国と卑弥呼に係る先行研究、および古代中国の関係文献を渉猟された大労作であり、わたしのような建築屋がどうのこうの言えるほどの資格はないけれども、恥ずかしながら感想を述べさせていただきます。
田中先生のご高説は、30ページの「小括」にまず短くまとめられているので、引用しておきましょう。
本節を総括すると、3世紀中葉のわが国はいまだ列島統一には至っておらず、むしろ
①北九州勢力(伊都国・奴国などを含む邪馬嘉国連合)、②狗奴国勢力、並びに
③畿内大和の新興勢力(『魏志』倭人伝にいう邪馬壹国、すなわち初期ヤマト政権
またはその前身)の鼎立状態にあったと結論づけることができるのである。
なお、ヤマト政権による北部九州を含む列島的統一は、ヤマト政権と加耶・百済との
密接な直接交流の生じる直前の、ほぼ4世紀前半と解されるのである。
そして、抜群にユニークな視点は、女王(卑弥呼)を中心とする「女国」とは北九州の邪馬嘉国連合であって、大和朝廷の源流たる邪馬台国ではない、という点であります。とてもおもしろい発想であり、感心させられました。ただ、一般的に「臺(台)」もしくは「壹(壱)」の誤記と理解される「嘉」を誤記でないと判断してよいのか、気になるところです。というのも、「邪馬臺」はヤマト、「邪馬壹」はヤメ(八女・邪馬渓)、投馬(ツマ)はイズモ、狗奴(クナ)はクマ(熊本・球磨川・熊襲等)の音写としてそれぞれ捉えられるわけですが、はたして「邪馬嘉」に対応する地名が北九州の海岸寄りに存在するのか否か。
検索してみると、熊本北部に山鹿(ヤマガ)市を発見。福岡県八女(ヤメ)市の南に隣接する行政区でドキッとしましたが、佐賀の吉野ヶ里よりははるか南に位置するので、むしろ地理的には②狗奴国勢力にあたるのではないか、少なくとも①北九州勢力(伊都国・奴国などの連合)からやや遠い山間部にあると思えるのです(因幡方言でヤマガは山間部の田舎を意味します)。もっとも、八女にしても耶馬溪(ヤバケイ、大分県日田市)にしても、やはり②から遠いところにあって山鹿に近いので、それらを一括したいところですが、すでに述べたように、いずれも②狗奴国勢力とみなすべき場所の縁辺部にあたるように思われます。
ちなみに、熊本県には高千穂に近い東側の山間部に山都(ヤマト)町が位置しています。上益城郡山都町。かつて同町の「通潤橋」(重要文化的景観)を訪問した際、「火の国 ぶらり(Ⅲ)」紀行で、以下のごとき不遜な文章を書いてしまいました(2011年大晦日)。
クリスマスには山都にいた。山都は「やまず」とでも読むのだろうと車を走らせて
いたところ、道路標識に YAMATO とあるのに驚いた。さらに、高千穂まで40キロ
ばかりの地点だというから、(そうか八女などと並んでここも「卑弥呼の国」の有力
候補地なのだろう)と考えていた右手に「邪馬台国」というラブホテルがあらわれた。
山都は天岩戸神社にも近く、地名だけみるとしゃれにならない神話スポットなのですが、これらもまた②狗奴国勢力の範囲と思しき場所であります。こうして地名だけみてみると、
山鹿-八女-耶馬溪-山都
が連鎖してくるので、「邪馬嘉国連合」なるものが存在するとすれば、それは②狗奴国勢力と同義か、その一部をさすのではないか、と推測したくなってくる。このあたりを「邪馬嘉国」とみれば、田中論文8ページの「伊都国近傍の邪馬嘉国」という『韓苑』の記載とも整合するように思えるのですが・・・
以上は戯言です。田中先生の綿密な考証とは全然レベルがちがう。それにしても、邪馬台国あるいは倭国と敵対関係にあった狗奴国の勢力範囲にヤマトなる地名やら天孫降臨ゆかりの聖地があるのはなぜなのか、脳みそを耳掻きでくすぐられるような心境に陥りました。