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頭塔再考(1)

1.東大寺と頭塔

(1)東大寺と毘盧遮那大仏
 聖武天皇(702-756)は天平13年(741)、仏教による国家鎮護のため、日本全土六十余国に国分寺建立の詔を発した。翌年、大和(奈良)の国分寺を若草山麓にあった金鐘寺(こんしゅじ)と定め、寺名を金光明寺と改める。ただし、このとき大和=平城京は日本の首都ではなかった。皇室は恭仁京(現京都府木津川市)、天皇は紫香楽宮(現滋賀県信楽町)にあり、天平15年(743)に毘盧遮那大仏造立の詔を発している。この時点では、紫香楽の甲賀寺で大仏の鋳造が進んでいた。
 天平17年(745)、都は平城京にもどる。還都後、大仏鋳造事業は天平19年ころから大和国分寺で再起動し、金光明寺は「東大寺」と呼ばれるようになる。大和国分寺が六十余国の国分寺を統括する総国分寺として大化けした瞬間と言ってよかろう。艱難辛苦の末、毘盧遮那大仏が完成したのは天平勝宝4年(752)、そののち毘盧遮那仏を覆う金堂、すなわち大仏殿が竣工をみたのは聖武天皇没後の天平宝字2年(758)に下る。東大寺でとりわけ大仏創建に尽力した聖武天皇、良弁(初代別当)、行基(大僧正)、菩提僊那(インド僧)を「四聖」と呼んで崇拝している。このうち本稿と深く係わるのは後二者であり、頭塔の宗教的性格を考察する上で避けて通れない人物である(後出)。東大寺は華厳宗の大本山でもあるが、宗派という概念が日本仏教に定着するのは中世以降のことであって、奈良時代の華厳宗・法相宗・律宗・三論宗・成実宗・倶舎宗はいずれも学派に近いものであり、ほとんどの大寺が複数の学派を修学しており、東大寺の場合も「六宗兼学の寺」とされた。
 東大寺の境内はすこぶる広大であり、中心となるのはもちろん大仏殿院である。伽藍配置は形式上、薬師寺とともに一金堂二塔式に分類されるが、薬師寺では東西の三重塔が回廊の内側にあるのに対して、東大寺では東西の七重塔が回廊外に配されていた。高大な双塔ではあるけれども、伽藍の中心はあくまで大仏殿(金堂)であり、仏舎利を象徴する七重塔は毘盧遮那を荘厳する脇役であったとみなさざるをえない。大仏殿は法隆寺金堂に代表される二重入母屋式のスタイルとは異なり、『周礼』考工記にいう「四阿重屋」のような中国式の構造をしており、その形式は現存する再々建の大仏殿に受け継がれている。すなわち、九間四面の寄棟造平屋建の本体に裳階(もこし)をめぐらせており、二階建の外観にみえるが、じつは平屋の建物である。明清紫禁城太和殿の構造とじつによく似ている。
 こうした独特の構成からなる8世紀の伽藍も、12世紀末の平家の焼き討ちにより、ほぼ灰燼に帰す。8世紀とみなされる唯一の遺構は法華堂の正堂部分のみである。じつは、この小さな堂宇こそが、金鐘行者の異名をもつ若き日の良弁に聖武天皇が与えた羂索院であり、金鐘寺の母胎となった。平家による焼き討ちの直後、無名の僧、重源(1121-1206)が伽藍復興の総合プロデューサ、すなわち大勧進聖に任命される。通説によると、入宋三度の経験をかわれての大抜擢であり、たしかに重源は中国福建省の建築技法を大胆に取り入れ、鎌倉幕府の支援のもと伽藍の復興をなしとげる。ここに中世「大仏様」が誕生したのである。こうして整備された中世東大寺の伽藍も、永禄10年(1567)の三好一族対松永氏の抗争により再び灰燼に帰す。その後、毘盧遮那大仏の修理は元禄4年(1691)に完了し、再々建大仏殿は宝永6年(1709)に竣工した。ちなみに、重源が再建に係わった東大寺境内の建造物は南大門、法華堂礼堂、開山堂内陣の三棟のみ現存する。ただし、鐘楼も鎌倉時代の遺構であり、大勧進聖の職を重源から受け継いだ栄西(1141-1215)の遺作である。栄西もまた二度の入宋経験のある留学僧であり、日本に臨済禅を招来した。結果として、東大寺鐘楼には大仏様と禅宗様の様式が交錯している。

(2)頭塔の調査
 本稿の主題は上に述べた東大寺境内の建造物ではない。東大寺南大門から南へ約 1 ㎞のところに所在する「頭塔」について再考しようとするものである。大仏殿竣工の9年後にあたる神護景雲元年(767)、初代別当良弁が弟子の実忠に命じて造らせた「土塔」がこれにあたり、平安時代末ころから奈良時代の遣唐留学僧、玄眆の首塚とする伝説がひろまって訛音し、「頭塔」という呼称が定着したとされる。
 頭塔は戒壇状を呈する方形段台の壁面に44体の石仏を配した特殊な塔であり、戦前・戦後の昭和を通して注目を集めてきた。西村貞[1929]や石田茂作[1958]は行基が大仏開眼のために招聘したインド僧菩提僊那、林邑僧仏哲などの来日の影響に伴うインド風ストゥーパ、雛壇式塔(方形段台型仏塔)の影響を指摘し、斎藤忠(1972)は堺市大野寺の土塔、岡山県熊山遺跡とともにインドネシア・ジャワ島の仏教遺跡ボロブドール(8世紀後半)との類似性を説いて頭塔の南方起源説を展開した。とくに石田茂作の示した復元案は傾斜の強い偶数段に直接瓦を葺く特殊な外観をもつものであり、日本建築の常識から逸脱した豪快かつ朴訥な意匠によって異彩を放っている。
 奈良国立文化財研究所(奈文研)は、1987年度より頭塔の本格的な発掘調査に着手し、1996年度までに北半全域・東南隅・頂部の調査を終え、2000年度末に正式な調査報告書を刊行した[奈文研2001]。このときの編者が岩永省三氏(現九州大学総合研究博物館教授)であり、わたしは上層遺構の復元を担当した。報告書刊行後も岩永氏は頭塔に係わる論考を発表されており[岩永2003・2007]、このたび頭塔の論考二篇を含む大著『古代都城の空間操作と荘厳』[岩永2019]を上梓され、ご寄贈いただいたので、その内容に触発され、ここに頭塔の復元に係わる問題について再考しようと思い立った次第である。なお、以下に記載する頭塔の発掘調査成果は基本的に奈文研[2001]を要約したものであるが、岩永氏の新著[岩永2019]からも若干補っている。 【続】

《連載情報》
中国科学技術史学会建築史専業委員会主催国際シンポ「木構造営造技術の研究」招聘講演(11月16日@福州大学)
科学的年代測定と建築史研究-日本の木造建築部材とブータンの版築壁跡の分析から-
(1)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2120.html
(2)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2121.html
(3)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2123.html

中国建築学会建築史分会シンポ「近70年建築史学研究と歴史建築保護-中華人民共和国建国70周年記念」招聘講演(11月9日@北京工大)
東大寺頭塔の復元からみた宝塔の起源-チベット仏教の伽藍配置との比較を含めて-
(1)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2101.html
(2)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2103.html
(3)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2107.html
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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