頭塔再考(2)
2.頭塔の遺構解釈と先行復元案
(1)頭塔の遺構
頭塔は上下2層の遺構が確認されている。いずれも版築構造の段台である。下層遺構はいびつな台形平面を呈する三重の段台であり、各辺が緩く蛇行し基壇上面が水平ではないなどの建築的欠陥を伴い、仏龕は東面中央でしか発見されていない。また、上層遺構によって大きく削平・撹乱されているため、完成/未完成の判断は微妙だが、報告書ではいちおう完成をみたと推定している。年代については、下層遺講が古墳を破壊している事実が正倉院文書「造南寺所解」の記事と関連付けられることから、大仏殿竣工直後の天平宝字4年(760)ころの着工とみなされる。四聖のうち菩提僊那がこのころ逝去し、聖武上皇、行基はすでにこの世にない。良弁が頭塔造営の主体であった。
本論で復元考察の対象とする上層遺構は、基壇規模が東西長32.75~33.0m(110.5~111.5尺)、推定南北長31.8~32m(107.4~108.1尺)を測り、1 辺110尺前後の方形平面に復元される(天平尺=29.6cm)。基壇を含めて版築のテラスが 7 段確認されており、奇数壇からたちあがる壁面に仏龕を設けて石仏を安置している。石仏の数は、初重が5体、三重が3体、五重が2体、七重が1体の計11体であり、四面で計44体を数える。また、奇数壇は水切り勾配程度の傾斜(5~10°)を有するが水平に近くて比較的長く、偶数段は勾配(25~30°)が奇数段よりも強くて幅が短い。すなわち、奇数段のテラスはほぼ水平で、それに接して直立する壁面に仏龕を設け石仏を納めており、偶数段は短い傾斜面に瓦を葺き下側の壁面と石仏を保護していたと推定される。この場合、瓦葺き裳階(もこし)状の小庇の軒桁を受ける柱が奇数壇上に存在したか否かが問われるであろう。しかしながら、掘立柱の掘形や抜取穴はまったく検出されていないので、柱が立っていたとすれば、テラス石敷に柱の直置きか、土台建のどちらかを想定するしかない。前者の場合、柱下端のアタリ痕跡が確認されているわけでもないし、かりにその構法を採用していたとしても、庇を受ける構造はきわめて不安定なものだったであろう。一方、後者の場合、柱の土台建基礎構法が古代まで遡る証拠はなく、石敷テラス上面に土台のアタリ痕跡はやはり検出できていない。とすれば、瓦は短い斜面に粘土をおいて直接葺いたものであったと推定される。その場合、垂木も粘土で緩斜面に固定し、先端に瓦座を配したのであろうが、構造上、壁面からの瓦座の出は半尺(約15cm)程度、もしくはそれ以下でなければ納まらなかったはずである。なお、頂部には心柱の抜取穴があり、その底部に心礎を残す。
上層の年代について岩永氏は、天平宝治末年から天平神後ころに着工して、『東大寺要録』『東大寺別当次第』の記す神護景雲元年(767)に竣工、長岡宮期に廃絶したであろうと推定している。
(2)発掘調査開始以後の頭塔復元案
奈文研A案・B案: 奈文研の発掘調査開始後、最初に頭塔上層図の復原案を描いたのは細見啓三氏(当時主任研究官)である[巽 1989]。細見氏はすべてのテラスに瓦を葺く七重案(奈文研A案)と偶数段のみ瓦を葺く五重案(奈文研B案)の両案を描いた。いずれもテラス上に柱を立てて瓦屋根を受ける構造としている。日本の建築らしい軒の深さを表現した美しい外観に仕上がっているが、上にのべたように、奇数壇上に柱を立てた痕跡は皆無であり、偶数壇はすこぶる狭く、テラスが前方に傾いている。これを七重案(A案)とすれば、石仏が壁に立つ奇数段もそれがない偶数段も屋根で覆われるという矛盾が露呈し、肝心要の石仏が外から視界に納まりにくいという難点がある。一方、五重案(B案)は石仏との関係からみれば妥当な解釈だが、深い軒を支持していた柱の痕跡がテラス上にないという問題をクリアできていないのはA案と同じである。
当時の奈文研平城宮跡発掘調査部の雰囲気を回想するならば、従来のボロブドール風南方起源説を否定して、中国の、おもに中原・華北に卓越した「台榭建築」もしくは「塼塔」を頭塔の源流とみる考えに傾いており、細見案はとりわけ前者をイメージしたものだと聞いている。しかしながら、戦国時代~漢代に盛行した台榭建築はすでに初唐の段階でほぼ消滅しており、塼を使わない方形段台を塼塔の塔身の変形だとみる見方についても全面的な支持を得ていたわけではない。
杉山信三の戒壇説復元案: 以上の奈文研A・B案に対して、杉山信三氏(当時京都市埋蔵文化財研究所長)は頭塔を「戒壇」とみて五重案を呈示した[杉山1991]。杉山案発表後に心柱跡が検出されたので戒壇説はありえないけれども、復元された構造・意匠は奈文研B案に近いものである。ただし、柱の基礎を土台としている。すでに述べたように、土台の圧痕がテラスに残っていたわけでもなく、その前提として、奈良時代建築に土台が使われていたという証拠があるわけでもない。
楊鴻勛の立体マンダラ復元案: その後、1993年に画期が訪れる。奈文研の招聘によって中国社会科学院考古研究所.(考古研)の楊鴻勛先生が来日されたのである。楊先生は建築考古学の大家であり、筆者が1992年に考古研を主たる受入機関として学術振興会特定国派遣研究員の課題「中国早期建築の民族考古学的研究」に取り組んだ際の指導教官であった。楊先生は筆者の案内で短時間ながら頭塔の現場を視察し、その直後に頭塔の復元図を描かれた。奈文研遺構製図室のドラフターと 4 Hの鉛筆を使って、半時間ばかりの間に 3 つの「方案」を仕上げられたのである[浅川 1994]。3 案のうち「方案之三」は奈文研B案や杉山案に近いものだったが、他の2案の発想には仰天させられた。「方案之一」は五重塔最上部に巨大なストゥーパを建てる案、「方案之二」は最上層を多宝塔形式にする案である。チベットや中国西域に現存する方形段台型仏塔=立体マンダラの姿を脳裏に焼きつけているが故の発想と思われるが、その時点まで、日本人研究者の誰一人として円形構造物を最上層に設置するアイデアを示していない。頭塔の最上層は心柱の抜取穴が確認されるのみで、旧遺構面は削平されていたから、楊先生のエスキスが発表されてから後も日本建築史研究者は伏鉢状円形構造物を「何の証拠もない」として斥ける暗黙の反応が共有されていたように記憶する。
しかしながら、まもなく大野寺土塔(大阪府堺市)の発掘調査が進み、十三重塔の最上層に円形構造物の基礎とみられる粘土ブロックが発見され[堺市教育委員会 2007(報告書)]、楊先生の「方案之一」「方案之二」を裏付ける結果となった。ちなみに、大野寺は行基49院の一つであり、土塔は出土瓦銘により神亀四年(727)ころの築造が確定している。土塔の遺構は十三重塔に復元でき、緩傾斜のテラスに瓦を直に葺いたことが明らかになっている。楊先生の頭塔復元案は瓦の直葺きを想定して軒を短くしており、軒支柱を立てていない。日本建築の常識を逸脱しているという誹りを免れ得ないかもしれないが、遺構との整合性については日本人研究者の復元案以上に高く評価せざるをえないだろう。
(3)浅川の復元案
以上の先行業績を踏まえながら、筆者が発掘調査報告書[2001]で披露した頭塔上層遺構の復元案について紹介しておく。すでに述べたように、頭塔(上層)は 1 辺約110尺の方形基壇上にたつ五重の塔とみなされる。このうち四重の部分まで遺構が検出されているので、まずこの部分の屋根構造を考えてみよう。繰り返しになるけれども、塔身の奇数段上面は幅が狭く、勾配が25~30%であるのに対して、石仏をおく偶数段上面は幅がひろく、勾配は 5 ~10%と緩い。これは、偶数段が石仏前面のテラス、奇数段は25~30%の勾配をもつ裳階風の瓦葺き屋根であったことを示している。この裳階状屋根とそれが取りつく壁面においては、垂木をとめる仕口の痕跡がまったくなく、瓦は石敷斜面上に粘土を塗りつけ直接葺いたものと推定される。頭塔における瓦直葺きの技法については石田茂作[1959]の先見的指摘があり、近年における大野寺土塔での瓦出土状況がそれを裏づけた。ただし、木材をまったく用いていないわけではない。第181次調査では、裏面に朱を残す軒平瓦が出土しており、その朱は軒平瓦の先端から 9 ㎝の位置に確認できたので、ここに瓦座を配していたことが分かる。奇数段上面にはわずかながら軒反りも認められる。
屋根に葺いた瓦は、軒丸瓦が6235Mb型式、軒平瓦は6732Fa型式である。丸瓦の直径は17.5㎝、長さ32.4㎝、平瓦は長さ37.8㎝で、幅は短辺23.5㎝・長辺28.8㎝であり、葺足は24.4㎝に復元できるので、初重では 5 枚、二重では 6 枚、三重では 7 枚、四重では 5 枚重ねたことになる。瓦の割付は、初重が82列、二重が62列、三重が42列、四重が22列であり、各段20段減らしに復元できる。鬼瓦はまったく出土していないので、四隅の降棟は熨斗瓦の上に丸瓦を葺いただけの素朴な処理であったろう。瓦屋根の上端は出土した熨斗瓦と面戸瓦で留める。
塔身の最上層では、心柱の痕跡以外に明瞭な遺構がみつかっていないので、五重の復元については推定の域をでないのだが、心柱を有するわけだから、木造多重塔(層塔)の最上層と親近性をもつ意匠の構造物であった可能性は当然あるだろう。そこで五重に元興寺五重小塔の最上層を拡大して配してみたのだが、四重までのずんぐりした外観と最上層の意匠上の不釣り合いが否めない。五重の屋根だけ軒が深く組物が派手にみえてしまうからである。この種の意匠を採用するならば、奈文研B案や杉山案のように、テラス部分に柱をたてて四重までの軒も深くとる構造のほうに意匠の統一性が生まれる。
頭塔五重の意匠を推定するにあたって、最も参照すべきは大野寺の土塔である。土塔最上層の基礎部分では円形にめぐる粘土ブロックが出土しており、頭塔の最上層もまた円形平面を呈した可能性を否定できない。この場合、宝塔・多宝塔系の意匠とも相関性が深くなる。伏鉢状の塔身を宝形屋根で覆う「宝塔」は空海の密教招来とともに日本に伝来したとされるが、あとで述べるように、8世紀の中国においてすでに密教は流行しており、敦煌莫崗窟の建築壁画には北周~唐代の類例が描かれている[蕭黙1989]。それらが日本の宝塔・多宝塔の形式に直結するわけではないにせよ、8世紀の遣唐使が密教系宝塔・多宝塔の実物もしくは図像資料を見た可能性を否定できるわけではなかろう。
そもそも「多宝塔」という名称は『法華経』見宝塔品に由来し、多宝如来(過去仏)と現在の釈迦の二仏を併祀する塔の総称であって、特定の形式を指すものではない。日本でも白鳳期(7世紀末)に遡る長谷寺の銅板法華説相図(千仏多宝仏塔)は、銘文に「多寳佛塔」の四文字を含み、その画像表現は六角三重塔になっていて、多宝・釈迦の両如来を初重内部に配する。要するに、伏鉢状の宝塔に裳階をつけて上円下方の二重にみせる平安期以降の多宝塔とは異質の塔婆を多宝塔と呼んでいるのである。しかしながら、銅板法華説相図にみえる多宝塔が「六角」の平面を呈する点には注意を要する。「六角」あるいは「八角」などの正多角形が「円」の代替表現であることは明らかであり、韓国慶州の仏国寺多宝石塔(8 世紀)では初重を方形、二重を八角形とするが、二重高欄上の蓮華座は円形を呈している。余談ながら、鳥取市の大雲院(天台宗)には徳川歴代将軍の位牌を安置する御霊屋があり、その本尊を木造の宝塔厨子(17世紀中期)とする。厨子の内部は法華経八巻に囲まれた状態で多宝・釈迦の両如来を併祀している。そして、建築史学的には「宝塔」と呼ぶべきこの厨子を大雲院では「多宝塔」と呼んでいる。
こうした諸例を視野に納めつつ大野寺土塔の最上層の円形基礎遺構を参照するならば、頭塔の五重に円形平面、もしくはその代替たる正多角形平面の構造物が存在していたとしても不思議ではない。そこで、頭塔と建設年代の近い法隆寺夢殿を五重に縮小して配する復元案を検討してみた。しかし、諸先学の復元例と同じく、四重までの意匠と五重の意匠に大きな乖離がある。石仏を飾る四重までの段台構造と調和させようとするならば、五重の意匠には以下のような工夫が必要であると考えた。まず、四重屋根の上に下段と同じテラスをもう 1 段設け、その上に低い壁をたちあげて 3 寸前後の屋根勾配を確保し、屋根面に直接瓦を葺く。こうして瓦葺きとする場合、円形ではなく八角形平面を採用せざるをえない。正多角形でなければ瓦が納まらないのである。
この八角屋根は勾配をややきつくして、五重を含む上層頭塔の全体が古代インドのストゥーパに近い姿につくる。ただし、頂部はフラットにして直径98㎝ほどの伏鉢を置き、これを心柱が突き抜け相輪を支える。初重軒と三重軒を引き通した線に五重軒がくる(傾斜角35度)と仮定すれば、五重塔身の高さは63㎝、五重基底部の一辺は約416㎝に復元できる。五重塔身の規模は瓦の大きさにより規定される。八角形平面の一辺に平瓦が 4 枚のる大きさがちょうどよく、この場合、八角形の一辺は約120㎝( 4 尺)、対辺間距離は約290㎝となるので、五重テラスの出は約63㎝と非常に短くなる。また、塔身の高さもわずか63㎝程度であり、このスケールでは五重のテラスに人は上がれないし、壁面に仏龕を設けるのも容易ではない。しかしながら、四重の壁面各辺に仏龕が中央 1 ヶ所しかないことは、五重に仏龕がなかったことを想像させる。五重は、おそらくそれ自体が巨大な伏鉢としての意味をもっていたのであろう。巨大な伏鉢とは言っても、四重までの全容積に比べれば規模は小さい。規模が小さいからこそ、そのすべてが削平され、遺構としての痕跡を微塵も残さなかったと理解したい。なお、相輪については、年代の近い元興寺五重小塔を参考にすることも可能だが、水煙・竜車の代わりに四葉・六葉・八葉・火炎宝珠を伴う宝塔系のものとした。
【続】
《連載情報》
中国科学技術史学会建築史専業委員会主催国際シンポ「木構造営造技術の研究」招聘講演(11月16日@福州大学)
科学的年代測定と建築史研究-日本の木造建築部材とブータンの版築壁跡の分析から-
(1)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2120.html
(2)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2121.html
(3)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2123.html
中国建築学会建築史分会シンポ「近70年建築史学研究と歴史建築保護-中華人民共和国建国70周年記念」招聘講演(11月9日@北京工大)
東大寺頭塔の復元からみた宝塔の起源-チベット仏教の伽藍配置との比較を含めて-
(1)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2101.html
(2)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2103.html
(3)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2107.html
(4)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2110.html
(5)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2111.html
(1)頭塔の遺構
頭塔は上下2層の遺構が確認されている。いずれも版築構造の段台である。下層遺構はいびつな台形平面を呈する三重の段台であり、各辺が緩く蛇行し基壇上面が水平ではないなどの建築的欠陥を伴い、仏龕は東面中央でしか発見されていない。また、上層遺構によって大きく削平・撹乱されているため、完成/未完成の判断は微妙だが、報告書ではいちおう完成をみたと推定している。年代については、下層遺講が古墳を破壊している事実が正倉院文書「造南寺所解」の記事と関連付けられることから、大仏殿竣工直後の天平宝字4年(760)ころの着工とみなされる。四聖のうち菩提僊那がこのころ逝去し、聖武上皇、行基はすでにこの世にない。良弁が頭塔造営の主体であった。
本論で復元考察の対象とする上層遺構は、基壇規模が東西長32.75~33.0m(110.5~111.5尺)、推定南北長31.8~32m(107.4~108.1尺)を測り、1 辺110尺前後の方形平面に復元される(天平尺=29.6cm)。基壇を含めて版築のテラスが 7 段確認されており、奇数壇からたちあがる壁面に仏龕を設けて石仏を安置している。石仏の数は、初重が5体、三重が3体、五重が2体、七重が1体の計11体であり、四面で計44体を数える。また、奇数壇は水切り勾配程度の傾斜(5~10°)を有するが水平に近くて比較的長く、偶数段は勾配(25~30°)が奇数段よりも強くて幅が短い。すなわち、奇数段のテラスはほぼ水平で、それに接して直立する壁面に仏龕を設け石仏を納めており、偶数段は短い傾斜面に瓦を葺き下側の壁面と石仏を保護していたと推定される。この場合、瓦葺き裳階(もこし)状の小庇の軒桁を受ける柱が奇数壇上に存在したか否かが問われるであろう。しかしながら、掘立柱の掘形や抜取穴はまったく検出されていないので、柱が立っていたとすれば、テラス石敷に柱の直置きか、土台建のどちらかを想定するしかない。前者の場合、柱下端のアタリ痕跡が確認されているわけでもないし、かりにその構法を採用していたとしても、庇を受ける構造はきわめて不安定なものだったであろう。一方、後者の場合、柱の土台建基礎構法が古代まで遡る証拠はなく、石敷テラス上面に土台のアタリ痕跡はやはり検出できていない。とすれば、瓦は短い斜面に粘土をおいて直接葺いたものであったと推定される。その場合、垂木も粘土で緩斜面に固定し、先端に瓦座を配したのであろうが、構造上、壁面からの瓦座の出は半尺(約15cm)程度、もしくはそれ以下でなければ納まらなかったはずである。なお、頂部には心柱の抜取穴があり、その底部に心礎を残す。
上層の年代について岩永氏は、天平宝治末年から天平神後ころに着工して、『東大寺要録』『東大寺別当次第』の記す神護景雲元年(767)に竣工、長岡宮期に廃絶したであろうと推定している。
(2)発掘調査開始以後の頭塔復元案
奈文研A案・B案: 奈文研の発掘調査開始後、最初に頭塔上層図の復原案を描いたのは細見啓三氏(当時主任研究官)である[巽 1989]。細見氏はすべてのテラスに瓦を葺く七重案(奈文研A案)と偶数段のみ瓦を葺く五重案(奈文研B案)の両案を描いた。いずれもテラス上に柱を立てて瓦屋根を受ける構造としている。日本の建築らしい軒の深さを表現した美しい外観に仕上がっているが、上にのべたように、奇数壇上に柱を立てた痕跡は皆無であり、偶数壇はすこぶる狭く、テラスが前方に傾いている。これを七重案(A案)とすれば、石仏が壁に立つ奇数段もそれがない偶数段も屋根で覆われるという矛盾が露呈し、肝心要の石仏が外から視界に納まりにくいという難点がある。一方、五重案(B案)は石仏との関係からみれば妥当な解釈だが、深い軒を支持していた柱の痕跡がテラス上にないという問題をクリアできていないのはA案と同じである。
当時の奈文研平城宮跡発掘調査部の雰囲気を回想するならば、従来のボロブドール風南方起源説を否定して、中国の、おもに中原・華北に卓越した「台榭建築」もしくは「塼塔」を頭塔の源流とみる考えに傾いており、細見案はとりわけ前者をイメージしたものだと聞いている。しかしながら、戦国時代~漢代に盛行した台榭建築はすでに初唐の段階でほぼ消滅しており、塼を使わない方形段台を塼塔の塔身の変形だとみる見方についても全面的な支持を得ていたわけではない。
杉山信三の戒壇説復元案: 以上の奈文研A・B案に対して、杉山信三氏(当時京都市埋蔵文化財研究所長)は頭塔を「戒壇」とみて五重案を呈示した[杉山1991]。杉山案発表後に心柱跡が検出されたので戒壇説はありえないけれども、復元された構造・意匠は奈文研B案に近いものである。ただし、柱の基礎を土台としている。すでに述べたように、土台の圧痕がテラスに残っていたわけでもなく、その前提として、奈良時代建築に土台が使われていたという証拠があるわけでもない。
楊鴻勛の立体マンダラ復元案: その後、1993年に画期が訪れる。奈文研の招聘によって中国社会科学院考古研究所.(考古研)の楊鴻勛先生が来日されたのである。楊先生は建築考古学の大家であり、筆者が1992年に考古研を主たる受入機関として学術振興会特定国派遣研究員の課題「中国早期建築の民族考古学的研究」に取り組んだ際の指導教官であった。楊先生は筆者の案内で短時間ながら頭塔の現場を視察し、その直後に頭塔の復元図を描かれた。奈文研遺構製図室のドラフターと 4 Hの鉛筆を使って、半時間ばかりの間に 3 つの「方案」を仕上げられたのである[浅川 1994]。3 案のうち「方案之三」は奈文研B案や杉山案に近いものだったが、他の2案の発想には仰天させられた。「方案之一」は五重塔最上部に巨大なストゥーパを建てる案、「方案之二」は最上層を多宝塔形式にする案である。チベットや中国西域に現存する方形段台型仏塔=立体マンダラの姿を脳裏に焼きつけているが故の発想と思われるが、その時点まで、日本人研究者の誰一人として円形構造物を最上層に設置するアイデアを示していない。頭塔の最上層は心柱の抜取穴が確認されるのみで、旧遺構面は削平されていたから、楊先生のエスキスが発表されてから後も日本建築史研究者は伏鉢状円形構造物を「何の証拠もない」として斥ける暗黙の反応が共有されていたように記憶する。
しかしながら、まもなく大野寺土塔(大阪府堺市)の発掘調査が進み、十三重塔の最上層に円形構造物の基礎とみられる粘土ブロックが発見され[堺市教育委員会 2007(報告書)]、楊先生の「方案之一」「方案之二」を裏付ける結果となった。ちなみに、大野寺は行基49院の一つであり、土塔は出土瓦銘により神亀四年(727)ころの築造が確定している。土塔の遺構は十三重塔に復元でき、緩傾斜のテラスに瓦を直に葺いたことが明らかになっている。楊先生の頭塔復元案は瓦の直葺きを想定して軒を短くしており、軒支柱を立てていない。日本建築の常識を逸脱しているという誹りを免れ得ないかもしれないが、遺構との整合性については日本人研究者の復元案以上に高く評価せざるをえないだろう。
(3)浅川の復元案
以上の先行業績を踏まえながら、筆者が発掘調査報告書[2001]で披露した頭塔上層遺構の復元案について紹介しておく。すでに述べたように、頭塔(上層)は 1 辺約110尺の方形基壇上にたつ五重の塔とみなされる。このうち四重の部分まで遺構が検出されているので、まずこの部分の屋根構造を考えてみよう。繰り返しになるけれども、塔身の奇数段上面は幅が狭く、勾配が25~30%であるのに対して、石仏をおく偶数段上面は幅がひろく、勾配は 5 ~10%と緩い。これは、偶数段が石仏前面のテラス、奇数段は25~30%の勾配をもつ裳階風の瓦葺き屋根であったことを示している。この裳階状屋根とそれが取りつく壁面においては、垂木をとめる仕口の痕跡がまったくなく、瓦は石敷斜面上に粘土を塗りつけ直接葺いたものと推定される。頭塔における瓦直葺きの技法については石田茂作[1959]の先見的指摘があり、近年における大野寺土塔での瓦出土状況がそれを裏づけた。ただし、木材をまったく用いていないわけではない。第181次調査では、裏面に朱を残す軒平瓦が出土しており、その朱は軒平瓦の先端から 9 ㎝の位置に確認できたので、ここに瓦座を配していたことが分かる。奇数段上面にはわずかながら軒反りも認められる。
屋根に葺いた瓦は、軒丸瓦が6235Mb型式、軒平瓦は6732Fa型式である。丸瓦の直径は17.5㎝、長さ32.4㎝、平瓦は長さ37.8㎝で、幅は短辺23.5㎝・長辺28.8㎝であり、葺足は24.4㎝に復元できるので、初重では 5 枚、二重では 6 枚、三重では 7 枚、四重では 5 枚重ねたことになる。瓦の割付は、初重が82列、二重が62列、三重が42列、四重が22列であり、各段20段減らしに復元できる。鬼瓦はまったく出土していないので、四隅の降棟は熨斗瓦の上に丸瓦を葺いただけの素朴な処理であったろう。瓦屋根の上端は出土した熨斗瓦と面戸瓦で留める。
塔身の最上層では、心柱の痕跡以外に明瞭な遺構がみつかっていないので、五重の復元については推定の域をでないのだが、心柱を有するわけだから、木造多重塔(層塔)の最上層と親近性をもつ意匠の構造物であった可能性は当然あるだろう。そこで五重に元興寺五重小塔の最上層を拡大して配してみたのだが、四重までのずんぐりした外観と最上層の意匠上の不釣り合いが否めない。五重の屋根だけ軒が深く組物が派手にみえてしまうからである。この種の意匠を採用するならば、奈文研B案や杉山案のように、テラス部分に柱をたてて四重までの軒も深くとる構造のほうに意匠の統一性が生まれる。
頭塔五重の意匠を推定するにあたって、最も参照すべきは大野寺の土塔である。土塔最上層の基礎部分では円形にめぐる粘土ブロックが出土しており、頭塔の最上層もまた円形平面を呈した可能性を否定できない。この場合、宝塔・多宝塔系の意匠とも相関性が深くなる。伏鉢状の塔身を宝形屋根で覆う「宝塔」は空海の密教招来とともに日本に伝来したとされるが、あとで述べるように、8世紀の中国においてすでに密教は流行しており、敦煌莫崗窟の建築壁画には北周~唐代の類例が描かれている[蕭黙1989]。それらが日本の宝塔・多宝塔の形式に直結するわけではないにせよ、8世紀の遣唐使が密教系宝塔・多宝塔の実物もしくは図像資料を見た可能性を否定できるわけではなかろう。
そもそも「多宝塔」という名称は『法華経』見宝塔品に由来し、多宝如来(過去仏)と現在の釈迦の二仏を併祀する塔の総称であって、特定の形式を指すものではない。日本でも白鳳期(7世紀末)に遡る長谷寺の銅板法華説相図(千仏多宝仏塔)は、銘文に「多寳佛塔」の四文字を含み、その画像表現は六角三重塔になっていて、多宝・釈迦の両如来を初重内部に配する。要するに、伏鉢状の宝塔に裳階をつけて上円下方の二重にみせる平安期以降の多宝塔とは異質の塔婆を多宝塔と呼んでいるのである。しかしながら、銅板法華説相図にみえる多宝塔が「六角」の平面を呈する点には注意を要する。「六角」あるいは「八角」などの正多角形が「円」の代替表現であることは明らかであり、韓国慶州の仏国寺多宝石塔(8 世紀)では初重を方形、二重を八角形とするが、二重高欄上の蓮華座は円形を呈している。余談ながら、鳥取市の大雲院(天台宗)には徳川歴代将軍の位牌を安置する御霊屋があり、その本尊を木造の宝塔厨子(17世紀中期)とする。厨子の内部は法華経八巻に囲まれた状態で多宝・釈迦の両如来を併祀している。そして、建築史学的には「宝塔」と呼ぶべきこの厨子を大雲院では「多宝塔」と呼んでいる。
こうした諸例を視野に納めつつ大野寺土塔の最上層の円形基礎遺構を参照するならば、頭塔の五重に円形平面、もしくはその代替たる正多角形平面の構造物が存在していたとしても不思議ではない。そこで、頭塔と建設年代の近い法隆寺夢殿を五重に縮小して配する復元案を検討してみた。しかし、諸先学の復元例と同じく、四重までの意匠と五重の意匠に大きな乖離がある。石仏を飾る四重までの段台構造と調和させようとするならば、五重の意匠には以下のような工夫が必要であると考えた。まず、四重屋根の上に下段と同じテラスをもう 1 段設け、その上に低い壁をたちあげて 3 寸前後の屋根勾配を確保し、屋根面に直接瓦を葺く。こうして瓦葺きとする場合、円形ではなく八角形平面を採用せざるをえない。正多角形でなければ瓦が納まらないのである。
この八角屋根は勾配をややきつくして、五重を含む上層頭塔の全体が古代インドのストゥーパに近い姿につくる。ただし、頂部はフラットにして直径98㎝ほどの伏鉢を置き、これを心柱が突き抜け相輪を支える。初重軒と三重軒を引き通した線に五重軒がくる(傾斜角35度)と仮定すれば、五重塔身の高さは63㎝、五重基底部の一辺は約416㎝に復元できる。五重塔身の規模は瓦の大きさにより規定される。八角形平面の一辺に平瓦が 4 枚のる大きさがちょうどよく、この場合、八角形の一辺は約120㎝( 4 尺)、対辺間距離は約290㎝となるので、五重テラスの出は約63㎝と非常に短くなる。また、塔身の高さもわずか63㎝程度であり、このスケールでは五重のテラスに人は上がれないし、壁面に仏龕を設けるのも容易ではない。しかしながら、四重の壁面各辺に仏龕が中央 1 ヶ所しかないことは、五重に仏龕がなかったことを想像させる。五重は、おそらくそれ自体が巨大な伏鉢としての意味をもっていたのであろう。巨大な伏鉢とは言っても、四重までの全容積に比べれば規模は小さい。規模が小さいからこそ、そのすべてが削平され、遺構としての痕跡を微塵も残さなかったと理解したい。なお、相輪については、年代の近い元興寺五重小塔を参考にすることも可能だが、水煙・竜車の代わりに四葉・六葉・八葉・火炎宝珠を伴う宝塔系のものとした。
【続】
《連載情報》
中国科学技術史学会建築史専業委員会主催国際シンポ「木構造営造技術の研究」招聘講演(11月16日@福州大学)
科学的年代測定と建築史研究-日本の木造建築部材とブータンの版築壁跡の分析から-
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中国建築学会建築史分会シンポ「近70年建築史学研究と歴史建築保護-中華人民共和国建国70周年記念」招聘講演(11月9日@北京工大)
東大寺頭塔の復元からみた宝塔の起源-チベット仏教の伽藍配置との比較を含めて-
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