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頭塔再考(3)

3 頭塔の系譜と造立背景

(1)「発想源としての塼塔」説
 楊鴻勛先生が短時間のうちに描きあげた 3 つの復元案のうち、伏鉢状の構造物を最上層に据えた方案 1 と方案 2 に強い衝撃を受け、筆者はそのバリエーションとして自らの復元案を呈示したが、正直に告白するならば、今でも楊先生の復元案のほうがはるかに優れていると思っている。楊先生と筆者の復元案は頭塔を「立体マンダラ」として捉える発想に基づいているが、日本建築史の常識としてみれば、マンダラも宝塔・多宝塔も平安初期(9世紀)以降の密教と複合するものであり、当時の奈文研ではむしろ「塼塔」起源説が優勢であった。中国考古学を専攻する町田章氏がその代表であり、古代瓦研究の第一人者であった上原真人氏も「大野寺土塔・頭塔が瓦葺であるから南方系ではありえず、中国の塼塔の影響を受け、それを低平に表現したものにあたる」[岩永2019:p.376]とみなしていた。発掘調査報告書[2001]の編者である岩永氏も同様であり、新著の第10章「頭塔の系譜と造立事情」において、A「日本の類例」、B「南方起源説」、C「朝鮮半島の類例」、D「中国系の考え方」を細かに検討し、E「中国塼塔が発想源か」という結論を導いている[岩永2019:pp.367-381]。A~Dのうち最も否定的にとらえられているのは西村貞[1929]、石田茂作[1958・1972]、森薀[1971]、斎藤忠[1972]ら諸先学がそろって主張したB「南方起源説」である。東南アジアの上座部からの影響については、大仏開眼会のために招聘されたインド僧菩提僊那が中国経由で来日していることにより排除され、ボロブドールの建立年代も8世紀末~9世紀前半に下り、カンボジアやミャンマーに盛行する方形段台の仏塔はさらに年代が下るので、「問題にならない」として排除している。要するに、段台に瓦屋根を葺いているか否かが岩永氏の判断基準となり、その帰着として「中国の塼塔を発想源とみるのが最も妥当であろう」という結論に至る。要するに、塼を使わない段台遺構を塼塔起源だとみなしているわけだが、その短所は岩永氏自身も承知しており、
  ただし、(略)日本でも塼は多用しており、塼塔そのものを造りえたにもかかわらず、
  大野寺土塔では土のみ、頭・塔では土・石で築いており、決して塼塔ではないのが
  この説の難点である。
と断ったうえで、
  しかし、素材は異なるものの、軸組ではなく素材の単純な積み上げで造る工法、
  瓦を葺くものの軒の出がほとんどない形状、木造塔の場合より明瞭に現れる
  各層のセットバック、などから発想源として塼塔を考えるのは無理ではあるまい。
とまとめている。

(2)塼塔起源説に対する違和感
 中国建築史研究の末端を汚す一人として、筆者は、塼を使わない段台状遺構に塼塔の残影を感じることができないでいる。塼塔について筆者が単純に抱くイメージは、北魏登封の嵩岳寺塔以来、唐代まで塼塔の主流は密檐式多層塔であり、五代以降、塔身のまわりに木造瓦葺きの軒を模倣した腕木や組物を塼造で表現するようになる、という変化のプロセスである。おそらく唐代にあっては木造楼閣式多層塔と密檐式多層塔が併存しており、前者が後者に影響を与えて塔身まわりに木造瓦葺きの軒を石造で表現した塼塔に変容していくのであろう。8世紀中期の頭塔が「塼塔を発想源」にしたというからには、モデルとなった塼塔は密檐式であったはずだが、密檐式塼塔の短い軒は瓦葺きではなく、壁と同様の塼造とするのが一般的である。かりに木造の軒を伴う塼塔が唐代以前に遡るとしても、その軒は腕木に支えられた比較的長いものであり、壁面の外側に半尺程度しか出ない頭塔の瓦屋根とは異なる。
 そもそも五重の塼塔であるならば、当時の日本の技術力をもってすれば建設できないわけはなかったであろうし、木造で塼塔に近い意匠の構造物を模造することもできたはずである。しかも、東大寺境内には天下無双の七重塔が屹立していた。そうした七重双塔がありながら、なぜ1km離れた南大門の正面に塼塔(を発想源とする仏塔)を造らなければならなかったのか。岩永氏は、頭塔の位置が東大寺の南北軸と新薬師寺の東西軸が交差する点に近いことから、両寺の造営に係わった光明皇太后(母)の病気平癒を願う孝謙天皇(娘)の意思を読み取ろうとしている。しかしながら、塼塔と病気平癒にいったい何の因果関係があるというのであろうか。
 
(3)新しい仏教の波動
 筆者は発掘調査報告書[2001]に掲載する頭塔上層の復元案を描き終えた後、塼塔起源説に対する懐疑がさらに増幅していった。方形段台の壁面に多数の仏龕を配し、その中央に円形(もしくは正多角形)の伏鉢状構造物を配する姿は、立体マンダラと表現すべきモニュメントであり、直接的な系譜関係を想定しえないにしても、ボロブドールに代表される上座部仏教の方形段台型仏塔との親縁性を完全に否定するのは行き過ぎだと感じるようになっていたのである。実際、東南アジアの上座部仏教圏に限らず、新疆の北庭高昌回鶻仏寺遺址(10~13世紀)、西蔵ギャンツェ地区白居寺菩提塔(1414)などの大乗仏教圏にも類似のモニュメントが存在しており、それより古い遺構が存在しなかったと確定しているわけではない。現存する塔の内側に古い時代の遺構が隠されている可能性もあるし、なにより新疆から西蔵に至る地域は広大であり、古式の遺構がみつかっていないだけであって、存在しないと断言できる状況には未だないことを知っておくべきである。わたしは発掘調査報告書[2001]の論考を以下のように締めくくった(拙著『建築考古学の実証と復元研究』[浅川2013]に再録するにあたって修正・加筆している)。

  上座部仏教の立体マンダラとしてボロブドールが誕生した8 世紀、インドからチベット
  周辺に仏教が伝播して「ラマ教」と呼ばれるようになり、また日本には土塔や頭塔が
  築造されている。そうした汎アジア的な宗教的波動の一波として、東大寺大仏開眼と
  係わるインド僧菩提僊那や林邑僧仏哲などが日本に招聘され、当時としては最も
  革新的な「立体マンダラ」としての仏塔が日本にも出現したと考えるべきではないだろうか。
  時代は前後するが、東寺旧蔵本の法華経曼荼羅には、伏鉢に似た宝塔を中央に描き、
  周辺の方格部分に多数の仏像を配して宝塔を荘厳している。こういう空間構成を立体化
  したのが頭塔であり、だからこそ「立体マンダラ」という仮称を与えているのだが(略)、
  革新的立体マンダラとしての仏塔は日本に根付かなかった。私見ながら、真言密教とともに
  伝来したとされる宝塔や多宝塔がそれに取って代わったのだろう。とりわけ宝塔に裳階を
  つけた多宝塔は「上円下方」の構造を有しており、最小の立体マンダラというとらえ方も
  できなくはない。そういう見方は大胆すぎるという謗りを免れえないにしても、奈良時代後半の
  立体マンダラから平安時代の宝塔・多宝塔への展開という道筋を想定することは決して
  無益でないと考えている。




4.密教の拡散と毘盧遮那仏
(1)密教の胎動と拡散 
 上に引用した「新しい仏教の波動」とは密教の拡散を意味する。密教はバラモン教およびヒンドゥ教の盛衰と不可分の関係をもって成立し、進化を遂げた。インド土着のバラモン教は前6~5世紀から台頭する仏教に気圧されて衰退するが、民間信仰などを取り込みながらヒンドゥー教へと変容していく。ヒンドゥー教はグプタ王朝の庇護もあり、4~5世紀ころから仏教を凌ぐ勢いをもつようになる。仏教側もヒンドゥ教に対抗すべく変質を迫られた。ヒンドゥ教の基盤となったバラモン教の呪術的要素を取り入れた密教がここに誕生し、本土ではヒンドゥ教の牙城を崩せないまま、周辺諸国に波及していくのである。
 密教は大乗仏教の最終形と言われるが、経典を重視しない。釈迦が悟りを開くプロセスは文章で表現できるほど単純なものではなく、経典偏向の古典的仏教を「顕教」として対置させながら、絶対的真理を体得するための秘密の修行をことに尊重した。また、密教において釈迦はブッダ=如来(悟りを開いた人)の一人という位置づけをしており、大日如来こそがすべての存在や現象を顕在させる宇宙の光源として絶対視される。教義的には初期・中期・後期の三段階に分けて通常理解される。

(2)初期密教と行基
 インドで4~6世紀ころおこなわれた初期密教は、バラモン系の呪術を積極的に取り込み、陀羅尼や真言の読誦によって現世利益を追求しようとした。こうした素朴な密教を「雑密」とも呼ぶ。東大寺大仏造営に係わる「四聖」のうち、若き日の良弁や行基には雑密の匂いがしないでもない。とりわけ行基(6668-749)は反権力の立場から諸国を行脚して困窮者救済の諸事業を実践し、朝廷から弾圧を受けている。行基自身は唐に渡っていないが、行基の師とされる道昭は入唐して玄奘の教えを受けた高僧であり、道昭を通じてインドの情報を間接的に吸収していたと考えてよかろう。その行基が大野寺に土塔を築いたわけであり、東大寺の初代大僧正就任以後は、開眼会のためにインド僧菩提僊那、チャンパ(林邑)僧仏哲、唐僧道璿を招聘したのである。行基自身は大仏開眼会(752)前の天平21年(749)に物故するので、頭塔の造営(下層着工は760~)とは無縁のようにみえるが、行基という僧侶を介して大野寺土塔と東大寺頭塔(元の呼称は土塔)が結ばれる点、看過できまい。とくに塼塔起源説の拠り所である瓦葺きの屋根については、いきなり塼塔に起源を求めるのは飛躍に過ぎる。むしろ行基が大野寺の土塔で独創的に成功させた瓦直葺きの手法を頭塔が継承したとひとまず理解すべきではないだろうか。

(3)中期密教と東大寺
 体系的な経典をもたない初期密教(雑密)が中期密教に脱皮するのは7世紀以降であり、『大日経(大毘遮那経)』や『金剛頂経』が成立する。これを「純密」とも呼ぶ。中国にこれらを伝えた先達は金剛智(Vajrabodhi 671- 741)と善無畏(Śubhakarasiṃha 637- 735)とされる。前者はおもに『金剛頂経』系の密教を伝え、後者は『大日経』などを漢訳した。こうした先駆的業績を受け継いで中国の密教を成熟させたのが不空(Amoghavajra 705-774)である。長安近郊に出自する恵果(746-806)は不空に師事して金剛頂系を、また善無畏の弟子、玄超から『大日経』系を学んで、二つの密教を統合し、その奥義を長安青龍寺で空海に伝授した。つまり、空海が9世紀の日本で開花させた真言宗は中期密教の頂点を反映するものだが、中国において中期密教は7~8世紀に隆盛しているわけだから、奈良時代の遣唐留学僧やインド・中国からの招聘僧が、その情報に触れないはずはなかったと思われる。
 そうした新しい情報の影響をうけて造営されたのが東大寺大仏殿ではなかったか。この憶測の拠り所は、東大寺の本尊を毘盧遮那仏としている点である。毘盧遮那とはサンスクリット(梵語)のヴァイローチャナ(Vairocana)の漢音訳であり、「光明遍照」を意味し、密教における大日如来にほかならない。華厳経の毘盧遮那は静的で寡黙、密教の大日如来は動的で雄弁というような違いはあるにせよ、毘盧遮那を釈迦以上の宇宙の中心尊格とみなす点は共通している。華厳経にはすでに真言宗的な要素が包含されていたとすれば、宝塔/多宝塔やマンダラのような密教の要素が8世紀の日本に存在した可能性も浮上する。こうした視点で頭塔をとらえることはできまいか。 【続】


《連載情報》
中国科学技術史学会建築史専業委員会主催国際シンポ「木構造営造技術の研究」招聘講演(11月16日@福州大学)
科学的年代測定と建築史研究-日本の木造建築部材とブータンの版築壁跡の分析から-
(1)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2120.html
(2)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2121.html
(3)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2123.html

中国建築学会建築史分会シンポ「近70年建築史学研究と歴史建築保護-中華人民共和国建国70周年記念」招聘講演(11月9日@北京工大)
東大寺頭塔の復元からみた宝塔の起源-チベット仏教の伽藍配置との比較を含めて-
(1)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2101.html
(2)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2103.html
(3)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2107.html
(4)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2110.html
(5)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2111.html

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Author:魯班13世
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魯班(ルパン)は大工の神様や棟梁を表す中国語。魯搬とも書く。古代の日本は百済から「露盤博士」を迎えて本格的な寺院の造営に着手した。魯班=露盤です。研究室は保存修復スタジオと自称してますが、OBを含む別働隊「魯班営造学社(アトリエ・ド・ルパン)」を緩やかに組織しています。13は謎の数字、、、ぐふふ。

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