頭塔再考(4)
5.後期密教と立体マンダラ
(1)後期密教とチベット・ブータン地域
インドで8世紀以降に流行する密教が「後期」にあたる。ヒンドゥ教のシャクティ(女性の性的な力)の影響をうけて信仰にセクシャルな側面が顕在化し、また『大日経』が衰退して『金剛頂経』系の密教に偏向したこともあって邪教視される傾向もあり、後期密教と日本の密教はいっさい関係がないと指摘されてきた。
チベット・ブータンは後期密教を信仰する代表的地域である。8世紀後半、北インドの僧パドマサンバヴァ(Padmasaṃbhava 中国名「蓮華生大師」)がこの地に密教をもたらした。「吐蕃」王朝の時代のことである。吐蕃の初代王ソンツェンガンポが7世紀にネパールから妃を迎えて仏教に帰依したことでこの地に仏教は萌芽するが、次第に衰退の兆しをみせはじめ、ティソン・デツェン(Khri srong lde brtsan 742-797)王が仏教再興の肝入としてパドマサンバヴァを招聘したとされる。パドマサンバヴァはボン教系の「魔女」や「悪霊」を調伏し仏教側の護法尊として取り込みながら、インドの後期密教を巧みに変容させてチベット仏教の基礎を築いた。この最初期の宗派をニンマ派(古派=紅教)という。パドマサンバヴァはティソン・デツェン王の支援の下、サムイェー寺(bsam yas、中国語「桑耶寺」)の創建に携わり、寺は771年に落慶法要を迎える。広大な円形平面の中心に高層の楼閣式本堂を据え、その周囲にストゥーパなどの堂塔を対称形に配する「立体マンダラ」式の伽藍である。その源流はインドにあり、後にはモンゴル、清朝北京、熱河などにも同形式の僧院が波及した。このように、チベットにおいては8世紀後半に立体マンダラと呼びうる伽藍が誕生しており、ストゥーパ(宝塔)やマンダラなどの密教的要素も当然招来されていた。
ここまで通説に従い、初期・中期・後期の年代順に密教を概説してきたが、受容する側からみた場合の年代差はさほど大きくない。上にみたように、中国の中期密教は7世紀に導入され、8世紀になって成熟する。一方、チベット周辺で仏教は7世紀に胎動し始め、8世紀後半になって後期密教が根付いてゆく。つまり、中国中原周辺とチベット周辺ではほぼ同時期に密教を受容したことに注目したい。遅くとも8世紀後半までには、両地域にストゥーパ(宝塔)やマンダラが伝わっていたと考える所以である。
(2)ブータンの崖寺とストゥーパ
2012年以来、毎年ブータンを訪れ、おもに崖寺と瞑想洞穴(中国語の「修行洞」)の調査を続けてきた。それと併行して、西蔵自治区および青海・四川・雲南の蔵族自治区もこの5年で4回訪問している。今年(2019)の調査では、本稿を意識してストゥーパ(群)と仏教僧院との位置関係に注目した。なお、チベット・ブータン地域におけるストゥーパは仏舎利塔ではなく、個別の尊格を描いた小さなパネル状の画像を壁面ないし仏龕内に貼りける宝塔/多宝塔の類である。
山野の宝塔群: ストゥーパは必ずしも仏教僧院と複合するわけではない。山野の聖域に独立もしくは群として建設される。たとえば、二つの川の合流地点や峠は地方の境域にとどまらず、天地の境界とみなされ、悪霊が跋扈するのでストゥーパによって浄化するのである。この点、仏法による調伏の機能と似ている。たとえば、ティンプー川とパロ川の合流地点には、向かって左からネパール式、チベット式、ブータン式の三塔が並列され、その前側にはラダック式の小塔までも設置している。上記三塔のうち、ネパール式は上円下円、チベット式は上円下方、ブータン式は上方下方の二重構造になっており、日本語に訳すならば「多宝塔」がふさわしい。しかし、ブータンでストゥ-パが二重になるのは例外的であり、正方形もしくは長方形平面の単層構造が主流である。この場合、日本語では「宝塔」と訳すべきかもしれない。要は、宝塔/多宝塔の区別はなく、これらのストゥーパは一様に現地の言葉ではチョルテン(chorten)と呼ばれている。首都ティンプーからプナカへ至る途中のドチュラ(dochura)峠には長さ約38mのマニ・ダンリム((Mani danlim 壁のように長いストゥーパ)があり、プナカからポプジカに至る途中のラワラ(Lawala)峠には大基壇上に9基のストゥーパを群集させるチョルテンがある。中国の金剛宝座塔を髣髴とさせる造形だが、ストゥーパはいずれもチベット式で、中心の大塔にパドマサンバヴァ、周囲の小塔には釈迦如来、無量光仏、文殊菩薩などを祀り、規則的に配列されたこれらの尊格群=マンダラによって場所を浄化しているものと思われる。
伽藍正門から離れて建つストゥーパ: 今年の主要調査地となったポプジカ(popjikha)谷の奥まった山腹に境内を構えるクブン(Kubum)寺は小さな山寺ではあるけれども、ブータンにおいてボン教と係わる唯一の僧院であり、特筆すべき存在である。実際にはニンマ派(古派)仏教と習合しているが、縁起は7世紀に遡る。クブン寺のほぼ正面、およそ150m離れたところに小振りのストゥーパを1棟構えている。参道はなく、ストゥーパのまわりの草原に踏み分け道ができている。このように境内の正面南側に宝塔を配する例は、ブータンでもチベットでも少なからず確認できるが、クブン寺の場合、山間斜面に視覚的な障害物がいっさいないおかげで、本堂/境内とストゥーパの位置関係を鮮明に意識できる。ストゥーパ(群)は中心堂宇からかなり離れている門前正面の境外に建つ。この立地上の特性は本稿にとってきわめて示唆的である。
同じポプジカのケワン(Khewang)寺は平地に境内を構えるニンマ派の寺院である。この寺の場合、門前正面ではなく、僧院背面の村落と境内を両方見通す草原に5つのストゥーパを並列させる。五大如来を祀るチベット式宝塔群であり、その中心仏は大日如(Vairocana)であるとインフォーマントは説明した。このストゥーパ群も門前から220mばかり離れた位置にある。
ポプジカ最大の寺院で仏教大学や瞑想センターを附属させるガンテ(Gangtay)寺の場合、伽藍南門から約400m離れた参道の行き止まり、三叉路の位置に壁式チョルテンを置く。中国の照壁/影壁をイメージさせるかもしれないが、ブータンの壁式チョルテンは進路と同方向を向き周辺にロータリーができる。ガンテ寺の壁式チョルテンの長さは約21m、その両端にチベット式ストゥーパを置く。壁式チョルテン自身も中央と両端部を平柱状に厚くしており、中央部には正面側に釈迦過去仏・釈迦・弥勒、背面側に文殊・観音・金剛の三菩薩を祀り、壁面には真言を反復して記す。
(1)後期密教とチベット・ブータン地域
インドで8世紀以降に流行する密教が「後期」にあたる。ヒンドゥ教のシャクティ(女性の性的な力)の影響をうけて信仰にセクシャルな側面が顕在化し、また『大日経』が衰退して『金剛頂経』系の密教に偏向したこともあって邪教視される傾向もあり、後期密教と日本の密教はいっさい関係がないと指摘されてきた。
チベット・ブータンは後期密教を信仰する代表的地域である。8世紀後半、北インドの僧パドマサンバヴァ(Padmasaṃbhava 中国名「蓮華生大師」)がこの地に密教をもたらした。「吐蕃」王朝の時代のことである。吐蕃の初代王ソンツェンガンポが7世紀にネパールから妃を迎えて仏教に帰依したことでこの地に仏教は萌芽するが、次第に衰退の兆しをみせはじめ、ティソン・デツェン(Khri srong lde brtsan 742-797)王が仏教再興の肝入としてパドマサンバヴァを招聘したとされる。パドマサンバヴァはボン教系の「魔女」や「悪霊」を調伏し仏教側の護法尊として取り込みながら、インドの後期密教を巧みに変容させてチベット仏教の基礎を築いた。この最初期の宗派をニンマ派(古派=紅教)という。パドマサンバヴァはティソン・デツェン王の支援の下、サムイェー寺(bsam yas、中国語「桑耶寺」)の創建に携わり、寺は771年に落慶法要を迎える。広大な円形平面の中心に高層の楼閣式本堂を据え、その周囲にストゥーパなどの堂塔を対称形に配する「立体マンダラ」式の伽藍である。その源流はインドにあり、後にはモンゴル、清朝北京、熱河などにも同形式の僧院が波及した。このように、チベットにおいては8世紀後半に立体マンダラと呼びうる伽藍が誕生しており、ストゥーパ(宝塔)やマンダラなどの密教的要素も当然招来されていた。
ここまで通説に従い、初期・中期・後期の年代順に密教を概説してきたが、受容する側からみた場合の年代差はさほど大きくない。上にみたように、中国の中期密教は7世紀に導入され、8世紀になって成熟する。一方、チベット周辺で仏教は7世紀に胎動し始め、8世紀後半になって後期密教が根付いてゆく。つまり、中国中原周辺とチベット周辺ではほぼ同時期に密教を受容したことに注目したい。遅くとも8世紀後半までには、両地域にストゥーパ(宝塔)やマンダラが伝わっていたと考える所以である。
(2)ブータンの崖寺とストゥーパ
2012年以来、毎年ブータンを訪れ、おもに崖寺と瞑想洞穴(中国語の「修行洞」)の調査を続けてきた。それと併行して、西蔵自治区および青海・四川・雲南の蔵族自治区もこの5年で4回訪問している。今年(2019)の調査では、本稿を意識してストゥーパ(群)と仏教僧院との位置関係に注目した。なお、チベット・ブータン地域におけるストゥーパは仏舎利塔ではなく、個別の尊格を描いた小さなパネル状の画像を壁面ないし仏龕内に貼りける宝塔/多宝塔の類である。
山野の宝塔群: ストゥーパは必ずしも仏教僧院と複合するわけではない。山野の聖域に独立もしくは群として建設される。たとえば、二つの川の合流地点や峠は地方の境域にとどまらず、天地の境界とみなされ、悪霊が跋扈するのでストゥーパによって浄化するのである。この点、仏法による調伏の機能と似ている。たとえば、ティンプー川とパロ川の合流地点には、向かって左からネパール式、チベット式、ブータン式の三塔が並列され、その前側にはラダック式の小塔までも設置している。上記三塔のうち、ネパール式は上円下円、チベット式は上円下方、ブータン式は上方下方の二重構造になっており、日本語に訳すならば「多宝塔」がふさわしい。しかし、ブータンでストゥ-パが二重になるのは例外的であり、正方形もしくは長方形平面の単層構造が主流である。この場合、日本語では「宝塔」と訳すべきかもしれない。要は、宝塔/多宝塔の区別はなく、これらのストゥーパは一様に現地の言葉ではチョルテン(chorten)と呼ばれている。首都ティンプーからプナカへ至る途中のドチュラ(dochura)峠には長さ約38mのマニ・ダンリム((Mani danlim 壁のように長いストゥーパ)があり、プナカからポプジカに至る途中のラワラ(Lawala)峠には大基壇上に9基のストゥーパを群集させるチョルテンがある。中国の金剛宝座塔を髣髴とさせる造形だが、ストゥーパはいずれもチベット式で、中心の大塔にパドマサンバヴァ、周囲の小塔には釈迦如来、無量光仏、文殊菩薩などを祀り、規則的に配列されたこれらの尊格群=マンダラによって場所を浄化しているものと思われる。
伽藍正門から離れて建つストゥーパ: 今年の主要調査地となったポプジカ(popjikha)谷の奥まった山腹に境内を構えるクブン(Kubum)寺は小さな山寺ではあるけれども、ブータンにおいてボン教と係わる唯一の僧院であり、特筆すべき存在である。実際にはニンマ派(古派)仏教と習合しているが、縁起は7世紀に遡る。クブン寺のほぼ正面、およそ150m離れたところに小振りのストゥーパを1棟構えている。参道はなく、ストゥーパのまわりの草原に踏み分け道ができている。このように境内の正面南側に宝塔を配する例は、ブータンでもチベットでも少なからず確認できるが、クブン寺の場合、山間斜面に視覚的な障害物がいっさいないおかげで、本堂/境内とストゥーパの位置関係を鮮明に意識できる。ストゥーパ(群)は中心堂宇からかなり離れている門前正面の境外に建つ。この立地上の特性は本稿にとってきわめて示唆的である。
同じポプジカのケワン(Khewang)寺は平地に境内を構えるニンマ派の寺院である。この寺の場合、門前正面ではなく、僧院背面の村落と境内を両方見通す草原に5つのストゥーパを並列させる。五大如来を祀るチベット式宝塔群であり、その中心仏は大日如(Vairocana)であるとインフォーマントは説明した。このストゥーパ群も門前から220mばかり離れた位置にある。
ポプジカ最大の寺院で仏教大学や瞑想センターを附属させるガンテ(Gangtay)寺の場合、伽藍南門から約400m離れた参道の行き止まり、三叉路の位置に壁式チョルテンを置く。中国の照壁/影壁をイメージさせるかもしれないが、ブータンの壁式チョルテンは進路と同方向を向き周辺にロータリーができる。ガンテ寺の壁式チョルテンの長さは約21m、その両端にチベット式ストゥーパを置く。壁式チョルテン自身も中央と両端部を平柱状に厚くしており、中央部には正面側に釈迦過去仏・釈迦・弥勒、背面側に文殊・観音・金剛の三菩薩を祀り、壁面には真言を反復して記す。
(3)四川と青海のストゥーパ
四川の群集ストゥーパ 今夏、四川省の甘孜藏(カンゼ・チベット)族自治州でいくつかの僧院を視察した。色達のラルンガン大僧院(喇荣五明佛学院)は高地4,000mの地に四千人の修学僧・尼僧を抱えるニンマ派最大の寺院である。駐車場で車を下りてからバスにのって参道(山道)を上がり、ようやく境内に至る。一方、駐車場の反対側にはストゥーパを方形区画のなかに群集させている。塔数を数える余裕はなかったが、多数の多宝塔を方形の敷地に配する姿はマンダラを立体化したようにみえる。康定のラガン僧院(塔公寺)でも門前から数百メートル離れた敷地に同様の群集ストゥーパを確認できた。
青海の立体マンダラ 2015年には青海省同仁県で二つの立体マンダラをみた。青海(アムド)はツォンカパの故郷であるだけにゲルク派の勢力が強く、14~17世紀以降の開山となる寺院が多い。最もよく知られている例は「アムド第一の塔」と知られるゴマル(郭麻日)寺のチョルテンである。境内の正門からかなり離れた位置にその立体マンダラは現存する。五重の段台上の最上層中央に巨大なストゥーパをおく。全体で上円下方の多宝塔形をなすが、基壇にあたる最下段では各辺の両端に小振りのストゥーパを2基ずつ配するので、あわせて9基の多宝塔が対称形に配列される。中心大塔の下方部分は戒壇状の構造で壁面に多数の仏像を配しているが、ボロブドールなどと比べればテラスの出ははるかに短い。しかし、人はその上を歩いて参拝することが可能であり、テラス上面のすこし下に短い軒をせり出して壁面の諸仏を保護している。一般的な白塔ではなく、壁面を極彩色に飾る。
ゴマル寺の中心大塔をみる限り、上円下方の下方部分がたんなる板状多層の段台基壇から戒壇状に高層化することで、多宝塔が立体マンダラに進化するプロセスを想像させる。両者の中間形を示すのが四川省康定の見成塔である。見成塔は寺院に従属しない独立した大塔であり、下方部分は3段に分節されるが、戒壇状というほどではなく、外観はわずかに逓減する台形に近い印象がある。青海省同仁県のセンゲマンゴ下寺(下吾屯寺)の境内回廊の外側にも、ゴマル寺のチョルテンをやや縮小した極彩色の立体マンダラがあり、回廊に平行させて白い多宝塔形式のストゥーパを並べていた。【続】
《連載情報》
中国科学技術史学会建築史専業委員会主催国際シンポ「木構造営造技術の研究」招聘講演(11月16日@福州大学)
科学的年代測定と建築史研究-日本の木造建築部材とブータンの版築壁跡の分析から-
(1)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2120.html
(2)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2121.html
(3)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2123.html
中国建築学会建築史分会シンポ「近70年建築史学研究と歴史建築保護-中華人民共和国建国70周年記念」招聘講演(11月9日@北京工大)
東大寺頭塔の復元からみた宝塔の起源-チベット仏教の伽藍配置との比較を含めて-
(1)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2101.html
(2)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2103.html
(3)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2107.html
(4)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2110.html
(5)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2111.html
四川の群集ストゥーパ 今夏、四川省の甘孜藏(カンゼ・チベット)族自治州でいくつかの僧院を視察した。色達のラルンガン大僧院(喇荣五明佛学院)は高地4,000mの地に四千人の修学僧・尼僧を抱えるニンマ派最大の寺院である。駐車場で車を下りてからバスにのって参道(山道)を上がり、ようやく境内に至る。一方、駐車場の反対側にはストゥーパを方形区画のなかに群集させている。塔数を数える余裕はなかったが、多数の多宝塔を方形の敷地に配する姿はマンダラを立体化したようにみえる。康定のラガン僧院(塔公寺)でも門前から数百メートル離れた敷地に同様の群集ストゥーパを確認できた。
青海の立体マンダラ 2015年には青海省同仁県で二つの立体マンダラをみた。青海(アムド)はツォンカパの故郷であるだけにゲルク派の勢力が強く、14~17世紀以降の開山となる寺院が多い。最もよく知られている例は「アムド第一の塔」と知られるゴマル(郭麻日)寺のチョルテンである。境内の正門からかなり離れた位置にその立体マンダラは現存する。五重の段台上の最上層中央に巨大なストゥーパをおく。全体で上円下方の多宝塔形をなすが、基壇にあたる最下段では各辺の両端に小振りのストゥーパを2基ずつ配するので、あわせて9基の多宝塔が対称形に配列される。中心大塔の下方部分は戒壇状の構造で壁面に多数の仏像を配しているが、ボロブドールなどと比べればテラスの出ははるかに短い。しかし、人はその上を歩いて参拝することが可能であり、テラス上面のすこし下に短い軒をせり出して壁面の諸仏を保護している。一般的な白塔ではなく、壁面を極彩色に飾る。
ゴマル寺の中心大塔をみる限り、上円下方の下方部分がたんなる板状多層の段台基壇から戒壇状に高層化することで、多宝塔が立体マンダラに進化するプロセスを想像させる。両者の中間形を示すのが四川省康定の見成塔である。見成塔は寺院に従属しない独立した大塔であり、下方部分は3段に分節されるが、戒壇状というほどではなく、外観はわずかに逓減する台形に近い印象がある。青海省同仁県のセンゲマンゴ下寺(下吾屯寺)の境内回廊の外側にも、ゴマル寺のチョルテンをやや縮小した極彩色の立体マンダラがあり、回廊に平行させて白い多宝塔形式のストゥーパを並べていた。【続】
《連載情報》
中国科学技術史学会建築史専業委員会主催国際シンポ「木構造営造技術の研究」招聘講演(11月16日@福州大学)
科学的年代測定と建築史研究-日本の木造建築部材とブータンの版築壁跡の分析から-
(1)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2120.html
(2)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2121.html
(3)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2123.html
中国建築学会建築史分会シンポ「近70年建築史学研究と歴史建築保護-中華人民共和国建国70周年記念」招聘講演(11月9日@北京工大)
東大寺頭塔の復元からみた宝塔の起源-チベット仏教の伽藍配置との比較を含めて-
(1)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2101.html
(2)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2103.html
(3)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2107.html
(4)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2110.html
(5)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2111.html