科学的年代測定と建築史研究(2)
2.米子八幡神社の棟札と蟇股・神像の年代
(1)米子八幡神社の歴史
日野川下流域北岸に鎮座する米子八幡神社(鳥取県米子市東八幡)は応神天皇のほか、仲哀天皇・神功皇后などの5柱を祀る。養老4年(720)、豊前国(今の大分県)宇佐八幡宮を勧請して創建し、その後、鎌倉幕府を開いた源頼朝が国ごとに8社の八幡宮を造営した際、この地に鶴岡八幡宮を建立し伯耆国(今の鳥取県中西部)の一社として再興したと伝える。奈良時代(8世紀)に遡るという伝承はともかくとして、後述するように、享保18年(1733)「八幡神社棟札書出」(古い棟札を集成して書き写した板書)には天永(1110~13)の元号を記す棟札の内容を転記している。八幡神社の創建年代を考える上で重要な指標となる情報である[原島・中島・浅川2015, 浅川・原島編2015]。
中世(14世紀)には「相見八幡」「相見庄八幡宮」などと称され、相見庄(村)の鎮守社であったことがうかがえる。中世における米子八幡神社の祭祀は、八幡神を勧請した紀氏の後継一族である巨勢氏や相見氏によって掌られたが、かれらは神職であると同時に、軍事力を有する土豪でもあった。相見氏による八幡神社の神職継承は戦国時代末期(16世紀後半)まで及んだが、天正17年(1589)、吉川一族は相見盛宗を追放して内藤綱宗を京都より呼び寄せた。以後、八幡神社の宮司職は内藤氏によって世襲され現在に至る。
現在、神社境内は日野川北岸に鎮座するが、社伝によると、古くは現在地より南方の長者原村(岸本町坂長)に所在し、大寺村(同町大殿)には神宮寺があったとされる。その後、八幡村に境内を移すが、天文19年(1550)日野川流域は大洪水に見舞われ、河川流路の変化によって八幡村は東西に分断される。川の東側に馬場村(現在の東八幡)が新たに誕生し、ここに八幡神社は社殿を遷したのである。
(2)米子八幡神社社殿の年代調査
米子八幡神社の本殿(御神体を収納する中心社殿)と拝殿(本殿の前に置かれる祭儀・拝礼のための社殿)の構造形式を示す。
本殿: 三間社流造 銅板葺(天保13年1842AD/棟札)
拝殿: 入母屋造千鳥破風付 平入銅板葺
向拝一間 切妻造妻入軒唐破風付(寛政11年 1799AD/棟札)
本殿と拝殿をつなぐ中廊下が弊殿であり、本殿・幣殿・拝殿の全体は宇佐神宮を基準とする「八幡造」ではなく、日光東照宮に代表される「権現造」に近い平面になっている。2014年、おもに拝殿を対象として、<1>本殿・拝殿の実測、<2>棟札の撮影と翻刻、<3>蟇股及び木鼻・実肘木・虹梁の絵様(線刻模様)拓本の採取、<4>蟇股の年輪サンプル採取と放射性炭素年代測定をおこなった。
(3)拝殿蟇股の年代判定
米子八幡神社には73枚の棟礼が所蔵される。そのうち建築・再建・改修等に係わる24枚と享保18年「八幡神社棟札書出」も撮影し翻刻した。73 枚の棟札のうち、とくに建築史と係わる15枚の年代と介入を以下に列挙する。
【棟札01】天正17年(1589)若宮建立
【棟札02】寛永11年(1634)修理(棟札現存せず)
【棟札03】承応02年(1653)本殿再興
【棟札04】延宝01年(1673) 「拝殿」初見
本社並別宮二宇末社三座従神門鳥居廳屋拝殿咸造立成畢
【棟札05】元禄07年(1694)造栄(修理?)
【棟札06】正徳05年(1715)造営(修理?)
【棟札07】元文03年(1738)修造(修理)
【棟札08】宝暦05年(1755)修栄(修理)
【棟札09】明和08年(1771)修栄(修理)
【棟札10】安永10年(1781)修栄(修理)
【棟札11】寛政11年(1799)拝殿を再建
【棟札12】文化13年(1816)修栄(修理)
【棟札13】天保13年(1842)本殿を再建
【棟札14】慶応02年(1866)修造(修理)
【棟札15】明治20年(1887)屋根葺替
米子八幡神社は16 世紀後半、日野川の大洪水により対岸から現在地に境内を移設し、天正17 年(1589)に新しい神社(若宮)を「建立」し【棟札01】、本殿は承応2 年(1653)と天保13 年(1842)に「再建」【棟札03・13】、拝殿は延宝元年(1673)に初見し【棟札04】と寛政11 年(1799)に「再建」している【棟札11】。承応2 年の拝殿初見、および「建立」「再建」以外の棟札は屋根葺き替えや軽微な修理を指し、20 年前後のサイクルで造替を繰り返している。
拝殿側柱筋の16 枚の蟇股は、塗装・彩色・形状からみて、現在の拝殿(1799)本体よりも古い時期に制作された刳抜蟇股とみなして大過ない。調査以前、内藤宮司はこれらを戦国時代以前と推定していた。様式は2種に分かれる。一つは側柱筋の蟇股14枚であり、番付A05・B06の拓本を採取、放射性炭素年代測定サンプルについては、予算の関係上、蟇股A05のAMSサンプル1点(芯から43年輪目)の採取にとどめた。いま一つは拝殿と幣殿の境の蟇股2枚(番付D03・D04)であり、様式的には格段と古式を示しており、D04は年輪数100層を超えるスギ材なので、まずは奈文研に年輪年代測定を依頼したが、年輪幅の粗密が大きく、年代を特定できなかった。酸素同位対比年代測定については、大がかりな破壊分析になるので断念し、放射性炭素年代測定(ウィグルマッチ法)のサンプル3点を採取した。なお、これら八幡神社拝殿蟇股の様式分析と年代判定に先立ち、『日本建築細部変遷小図録』[天沼1944]と『蟇股』[吉井2006] や佐藤正彦の業績[佐藤1980, 1985]などから網羅的にデータを集め、「蟇股データベース」(全325 枚)を作成している。
拝殿側柱筋蟇股の制作年代: 八幡神社拝殿側柱筋の蟇股(A05)はAMS法放射性炭素年代測定にかけたが、以下のように信頼性の低い候補が複数あらわれた。
1669-1681calAD(信頼限界14.7%) 1738-1756calAD(信頼限界19.5%)
1763-1781calAD(信頼限界22.0%) 1799-1803calAD(信頼限界4.0%)
1938-1945calAD(信頼限界8.0%)
結果として、制作年代については様式の鑑定に頼らざるをえなくなり、蟇股データベースの全国例を山椒しつつ鳥取県内の類例と対比した結果、様式的に最も近いのは鳥取県倉吉市の長谷寺仁王門蟇股(1680)と判断した。「拝殿」の語が初見する延宝元年(1673)の棟札と対応する可能性が高いと思われる。
拝殿・幣殿境蟇股の制作年代: 八幡神社拝殿・幣殿境の蟇股D04[スギ 1212mm × 378mm 年輪101層 心材型]は、装飾された中板を嵌め込む刳抜蟇股である。表面の脚部先端に派手な彩色の雲紋板を貼り付け、延宝期(推定)の形状に近づけているが、裏面をみると、素朴な脚部先端があらわれる。放射性炭素年代測定(ウィグルマッチ)の測定結果は、
1036-1080 cal AD(信頼限界95.4%)
である。拝殿・幣殿境蟇股(D04)の最外層年輪年代は11 世紀代の暦年代を示している。この蟇股は材型なので伐採年代を特定できないが、ひとまず「西暦1036年以降の伐採」であることは確認できた。これと享保18年(1733)「八幡神社棟札書出」を比較すると、天永年間(1110~1113)の棟札の年代を含むことに驚きを禁じえない。「天永」という年紀の蓋然性は少しばかり高まったと言える。
さて、蟇股(D04)は芯(髄)と最終形成年輪を含まない心材型の芯去材である。サンプルを採取した箇所の幅は360mmで、直径は最低でも720mm以上あると考えられ、その直径の外側に何年輪かを加える必要があるが、年輪の目はあらく、仮に100年輪を追加すると直径1.5m前後の太径木となる。それらを考慮した上で、蟇股(101年輪)の最外層年輪の外側に50年、100年、150年、200年の年輪が存在した場合を仮定すると、伐採年代は以下の範囲となる。
1) 50年の場合:1086~1130AD 2)100年の場合:1136~1180AD
3)150年の場合:1186~1230AD 4)200年の場合:1236~1280AD
1)の場合、享保18年「八幡神社棟札書出」に含まれる天永年間(1110~1113)の棟札年代を含んでいる。2)の場合は、天永年間より遅れるが、鎌倉時代に入る直前の平安時代末期に該当する。米子周辺で紀氏一族が土着し活躍したのが11~12世紀頃であり、1)2)の年代に対応している。3)4)は鎌倉時代に含まれるが、年輪の幅がかなり長い(5~10㎜)ので、原木の直径は2mを超える材になるであろうから、とりわけ4)の可能性は低いと思われる。ここでは年代を広めにみて、1)2)3)で納まるとすれば、「平安時代後期~鎌倉時代前期」を原木の伐採年代と推定できるであろう。D04の伐採年代を「平安時代後期~鎌倉時代前期」と仮定して、蟇股データベースの類例と比較してまとめてみよう。
《1》八幡神社拝殿D03・D04は、輪郭の見付け幅が上部を広く、下部を狭くして変化をつけており、全体として最古の遺例とされる宇治上神社本殿左殿の蟇股(1060AD頃)に近い形状をし呈している。これは平安時代後期の特徴と言える。
《2》平安時代の刳抜蟇股は扠首状の二材を左右から組み合わせたものであるが、八幡神社の蟇板D03・D04は一木からの刳り抜きであり、鎌倉時代の特性を示している。ただし、東北の地方様式を有する中尊寺金色堂(岩手県)は蟇股を一木刳り抜きにしており、平安時代後期の山陰にそのような材が存在したとしてもおかしくはないだろう。
《3》D03・D04の脚先の繰形は鎌倉時代以降にみられるような幅がひろいもので、十輪院本堂の蟇股(鎌倉時代前期)によく似ている。こうした造形は平安時代の遺例にみられない。
《4》D03・D04は輪郭の内側2ヶ所に茨をつけ、内角に面を取っている。これもまた鎌倉時代前期中頃以降の様式を示すものである。
以上みたように、八幡神社D03・D04は全体の形状以外では平安時代後期の蟇股遺例の有する特徴はやや希薄であり、どちらかといえば鎌倉時代前期の様式を示している。しかしながら、管見の限り、平安時代の刳抜蟇股は6点しか残っていない。平安時代に存在したであろう多様な様式を網羅的に理解できるわけではないのである。細部にあらわれた鎌倉時代蟇板の特徴にしても、それらが平安時代に遡りえないという保証はない。また、形状からみて平安時代の板蟇板と八幡神社D03・D04に共通点を少なからず認めうる点を考慮するならば、前身建物に使われていた板蟇股を刳り抜いて中世風の蟇股にリニューアルした可能性すらないとは言えまい。
仮にこの蟇板が「棟札書出」にいう天永年間(1110~1113)の造営に対応するとすれば、宇治上神社本殿に次ぐ日本で2番目に古い刳抜蟇板ということになる。しかしながら、いまのところ八幡神社D03・D04は「平安時代後期~鎌倉時代前期」の作と表現するにとどめておきたい。平安時代後期か鎌倉時代前期のどちらに絞れるのかは現状のデータ量では難しい。なお、この蟇股は神社にしては派手すぎるので神宮寺のものではないか、という見方も可能であろう。いずれにしても、宇治上神社本殿の蟇板に似た日本最古級の刳抜蟇板が米子八幡神社に所蔵されているという事実に注目しなければならない。
(1)米子八幡神社の歴史
日野川下流域北岸に鎮座する米子八幡神社(鳥取県米子市東八幡)は応神天皇のほか、仲哀天皇・神功皇后などの5柱を祀る。養老4年(720)、豊前国(今の大分県)宇佐八幡宮を勧請して創建し、その後、鎌倉幕府を開いた源頼朝が国ごとに8社の八幡宮を造営した際、この地に鶴岡八幡宮を建立し伯耆国(今の鳥取県中西部)の一社として再興したと伝える。奈良時代(8世紀)に遡るという伝承はともかくとして、後述するように、享保18年(1733)「八幡神社棟札書出」(古い棟札を集成して書き写した板書)には天永(1110~13)の元号を記す棟札の内容を転記している。八幡神社の創建年代を考える上で重要な指標となる情報である[原島・中島・浅川2015, 浅川・原島編2015]。
中世(14世紀)には「相見八幡」「相見庄八幡宮」などと称され、相見庄(村)の鎮守社であったことがうかがえる。中世における米子八幡神社の祭祀は、八幡神を勧請した紀氏の後継一族である巨勢氏や相見氏によって掌られたが、かれらは神職であると同時に、軍事力を有する土豪でもあった。相見氏による八幡神社の神職継承は戦国時代末期(16世紀後半)まで及んだが、天正17年(1589)、吉川一族は相見盛宗を追放して内藤綱宗を京都より呼び寄せた。以後、八幡神社の宮司職は内藤氏によって世襲され現在に至る。
現在、神社境内は日野川北岸に鎮座するが、社伝によると、古くは現在地より南方の長者原村(岸本町坂長)に所在し、大寺村(同町大殿)には神宮寺があったとされる。その後、八幡村に境内を移すが、天文19年(1550)日野川流域は大洪水に見舞われ、河川流路の変化によって八幡村は東西に分断される。川の東側に馬場村(現在の東八幡)が新たに誕生し、ここに八幡神社は社殿を遷したのである。
(2)米子八幡神社社殿の年代調査
米子八幡神社の本殿(御神体を収納する中心社殿)と拝殿(本殿の前に置かれる祭儀・拝礼のための社殿)の構造形式を示す。
本殿: 三間社流造 銅板葺(天保13年1842AD/棟札)
拝殿: 入母屋造千鳥破風付 平入銅板葺
向拝一間 切妻造妻入軒唐破風付(寛政11年 1799AD/棟札)
本殿と拝殿をつなぐ中廊下が弊殿であり、本殿・幣殿・拝殿の全体は宇佐神宮を基準とする「八幡造」ではなく、日光東照宮に代表される「権現造」に近い平面になっている。2014年、おもに拝殿を対象として、<1>本殿・拝殿の実測、<2>棟札の撮影と翻刻、<3>蟇股及び木鼻・実肘木・虹梁の絵様(線刻模様)拓本の採取、<4>蟇股の年輪サンプル採取と放射性炭素年代測定をおこなった。
(3)拝殿蟇股の年代判定
米子八幡神社には73枚の棟礼が所蔵される。そのうち建築・再建・改修等に係わる24枚と享保18年「八幡神社棟札書出」も撮影し翻刻した。73 枚の棟札のうち、とくに建築史と係わる15枚の年代と介入を以下に列挙する。
【棟札01】天正17年(1589)若宮建立
【棟札02】寛永11年(1634)修理(棟札現存せず)
【棟札03】承応02年(1653)本殿再興
【棟札04】延宝01年(1673) 「拝殿」初見
本社並別宮二宇末社三座従神門鳥居廳屋拝殿咸造立成畢
【棟札05】元禄07年(1694)造栄(修理?)
【棟札06】正徳05年(1715)造営(修理?)
【棟札07】元文03年(1738)修造(修理)
【棟札08】宝暦05年(1755)修栄(修理)
【棟札09】明和08年(1771)修栄(修理)
【棟札10】安永10年(1781)修栄(修理)
【棟札11】寛政11年(1799)拝殿を再建
【棟札12】文化13年(1816)修栄(修理)
【棟札13】天保13年(1842)本殿を再建
【棟札14】慶応02年(1866)修造(修理)
【棟札15】明治20年(1887)屋根葺替
米子八幡神社は16 世紀後半、日野川の大洪水により対岸から現在地に境内を移設し、天正17 年(1589)に新しい神社(若宮)を「建立」し【棟札01】、本殿は承応2 年(1653)と天保13 年(1842)に「再建」【棟札03・13】、拝殿は延宝元年(1673)に初見し【棟札04】と寛政11 年(1799)に「再建」している【棟札11】。承応2 年の拝殿初見、および「建立」「再建」以外の棟札は屋根葺き替えや軽微な修理を指し、20 年前後のサイクルで造替を繰り返している。
拝殿側柱筋の16 枚の蟇股は、塗装・彩色・形状からみて、現在の拝殿(1799)本体よりも古い時期に制作された刳抜蟇股とみなして大過ない。調査以前、内藤宮司はこれらを戦国時代以前と推定していた。様式は2種に分かれる。一つは側柱筋の蟇股14枚であり、番付A05・B06の拓本を採取、放射性炭素年代測定サンプルについては、予算の関係上、蟇股A05のAMSサンプル1点(芯から43年輪目)の採取にとどめた。いま一つは拝殿と幣殿の境の蟇股2枚(番付D03・D04)であり、様式的には格段と古式を示しており、D04は年輪数100層を超えるスギ材なので、まずは奈文研に年輪年代測定を依頼したが、年輪幅の粗密が大きく、年代を特定できなかった。酸素同位対比年代測定については、大がかりな破壊分析になるので断念し、放射性炭素年代測定(ウィグルマッチ法)のサンプル3点を採取した。なお、これら八幡神社拝殿蟇股の様式分析と年代判定に先立ち、『日本建築細部変遷小図録』[天沼1944]と『蟇股』[吉井2006] や佐藤正彦の業績[佐藤1980, 1985]などから網羅的にデータを集め、「蟇股データベース」(全325 枚)を作成している。
拝殿側柱筋蟇股の制作年代: 八幡神社拝殿側柱筋の蟇股(A05)はAMS法放射性炭素年代測定にかけたが、以下のように信頼性の低い候補が複数あらわれた。
1669-1681calAD(信頼限界14.7%) 1738-1756calAD(信頼限界19.5%)
1763-1781calAD(信頼限界22.0%) 1799-1803calAD(信頼限界4.0%)
1938-1945calAD(信頼限界8.0%)
結果として、制作年代については様式の鑑定に頼らざるをえなくなり、蟇股データベースの全国例を山椒しつつ鳥取県内の類例と対比した結果、様式的に最も近いのは鳥取県倉吉市の長谷寺仁王門蟇股(1680)と判断した。「拝殿」の語が初見する延宝元年(1673)の棟札と対応する可能性が高いと思われる。
拝殿・幣殿境蟇股の制作年代: 八幡神社拝殿・幣殿境の蟇股D04[スギ 1212mm × 378mm 年輪101層 心材型]は、装飾された中板を嵌め込む刳抜蟇股である。表面の脚部先端に派手な彩色の雲紋板を貼り付け、延宝期(推定)の形状に近づけているが、裏面をみると、素朴な脚部先端があらわれる。放射性炭素年代測定(ウィグルマッチ)の測定結果は、
1036-1080 cal AD(信頼限界95.4%)
である。拝殿・幣殿境蟇股(D04)の最外層年輪年代は11 世紀代の暦年代を示している。この蟇股は材型なので伐採年代を特定できないが、ひとまず「西暦1036年以降の伐採」であることは確認できた。これと享保18年(1733)「八幡神社棟札書出」を比較すると、天永年間(1110~1113)の棟札の年代を含むことに驚きを禁じえない。「天永」という年紀の蓋然性は少しばかり高まったと言える。
さて、蟇股(D04)は芯(髄)と最終形成年輪を含まない心材型の芯去材である。サンプルを採取した箇所の幅は360mmで、直径は最低でも720mm以上あると考えられ、その直径の外側に何年輪かを加える必要があるが、年輪の目はあらく、仮に100年輪を追加すると直径1.5m前後の太径木となる。それらを考慮した上で、蟇股(101年輪)の最外層年輪の外側に50年、100年、150年、200年の年輪が存在した場合を仮定すると、伐採年代は以下の範囲となる。
1) 50年の場合:1086~1130AD 2)100年の場合:1136~1180AD
3)150年の場合:1186~1230AD 4)200年の場合:1236~1280AD
1)の場合、享保18年「八幡神社棟札書出」に含まれる天永年間(1110~1113)の棟札年代を含んでいる。2)の場合は、天永年間より遅れるが、鎌倉時代に入る直前の平安時代末期に該当する。米子周辺で紀氏一族が土着し活躍したのが11~12世紀頃であり、1)2)の年代に対応している。3)4)は鎌倉時代に含まれるが、年輪の幅がかなり長い(5~10㎜)ので、原木の直径は2mを超える材になるであろうから、とりわけ4)の可能性は低いと思われる。ここでは年代を広めにみて、1)2)3)で納まるとすれば、「平安時代後期~鎌倉時代前期」を原木の伐採年代と推定できるであろう。D04の伐採年代を「平安時代後期~鎌倉時代前期」と仮定して、蟇股データベースの類例と比較してまとめてみよう。
《1》八幡神社拝殿D03・D04は、輪郭の見付け幅が上部を広く、下部を狭くして変化をつけており、全体として最古の遺例とされる宇治上神社本殿左殿の蟇股(1060AD頃)に近い形状をし呈している。これは平安時代後期の特徴と言える。
《2》平安時代の刳抜蟇股は扠首状の二材を左右から組み合わせたものであるが、八幡神社の蟇板D03・D04は一木からの刳り抜きであり、鎌倉時代の特性を示している。ただし、東北の地方様式を有する中尊寺金色堂(岩手県)は蟇股を一木刳り抜きにしており、平安時代後期の山陰にそのような材が存在したとしてもおかしくはないだろう。
《3》D03・D04の脚先の繰形は鎌倉時代以降にみられるような幅がひろいもので、十輪院本堂の蟇股(鎌倉時代前期)によく似ている。こうした造形は平安時代の遺例にみられない。
《4》D03・D04は輪郭の内側2ヶ所に茨をつけ、内角に面を取っている。これもまた鎌倉時代前期中頃以降の様式を示すものである。
以上みたように、八幡神社D03・D04は全体の形状以外では平安時代後期の蟇股遺例の有する特徴はやや希薄であり、どちらかといえば鎌倉時代前期の様式を示している。しかしながら、管見の限り、平安時代の刳抜蟇股は6点しか残っていない。平安時代に存在したであろう多様な様式を網羅的に理解できるわけではないのである。細部にあらわれた鎌倉時代蟇板の特徴にしても、それらが平安時代に遡りえないという保証はない。また、形状からみて平安時代の板蟇板と八幡神社D03・D04に共通点を少なからず認めうる点を考慮するならば、前身建物に使われていた板蟇股を刳り抜いて中世風の蟇股にリニューアルした可能性すらないとは言えまい。
仮にこの蟇板が「棟札書出」にいう天永年間(1110~1113)の造営に対応するとすれば、宇治上神社本殿に次ぐ日本で2番目に古い刳抜蟇板ということになる。しかしながら、いまのところ八幡神社D03・D04は「平安時代後期~鎌倉時代前期」の作と表現するにとどめておきたい。平安時代後期か鎌倉時代前期のどちらに絞れるのかは現状のデータ量では難しい。なお、この蟇股は神社にしては派手すぎるので神宮寺のものではないか、という見方も可能であろう。いずれにしても、宇治上神社本殿の蟇板に似た日本最古級の刳抜蟇板が米子八幡神社に所蔵されているという事実に注目しなければならない。
(4) 女神像の年代判定
米子八幡神社の神像類については、2012年3月29日に関西大学の長谷洋一教授(日本彫刻史)が24点の調査おこなった。同年4月には長谷教授による『八幡神社神像類調査概要』が著され、ネット上で公開されている(https://www.yonago-hachiman.com › app › download › 神像調査概要)。その報告の結論5項目のうち4項目を以下に転載する。
(1) 11点が11世紀から12世紀(平安時代中期~末期・鎌倉時代初頭)に製作された神像や仏像であること。
(2) 平安時代の神像がまとまって確認されたことは、全国でもめずらしい事例と言える。
(3) 片膝立ての女神像は、広葉樹(クスと思われる)の一木造で造られ、片膝を立てる座り方や球状の面部や厚い着衣の表現などから11世紀の作品とみられ、山陰地方(鳥取・島根)で最古級の作品とみられる。(ただし今後、神像調査がすすめば訂正の可能性も)
(4) そのほかの女神像・男神像も12世紀(平安時代後期)の神像の特徴(豊かな表情や奥行きが少なく肩幅が広い)をよく表しており、現状では神像彫刻(の指定)がない鳥取県や米子市では貴重な作品群と言える。
その後、2013年1月に右膝立ちの女神像も発見された。右膝立ちと左膝立ちの女神像は一対のものである。これら神像類についても、内藤宮司の強い意向を踏まえ、AMS法による放射性炭素年代測定に踏み切ることになった。神像のサンプルはいずれも底面である。結果は以下のとおり。
立膝女神像(A)ムクノキ
777-790 cal AD(信頼限界4.2%) 808-842 cal AD(信頼限界5.4%)
862-973 cal AD(信頼限界85.8%)
立膝女神像(B)ムクノキ
777-791 cal AD(5.2%) 805-843 cal AD(8.0%)
860-973 cal AD(82.3%)
以上のように、2点とも8~10世紀に遡る驚異的な炭素14年代が得られた。信頼性からみると、(A)は西暦862~973年、(B)は西暦860~973年の可能性が高いであろう。ただし、残存する年輪は(A)が12層、(B)が11層と極端に少ない。拝殿蟇股D04の残存年輪が101であるから、それよりも90年も少ないのである。ここでその年輪差の近似値=90年輪を上のデータに加えてみよう。すると、
(A)西暦952-1063 年 (B)西暦950-1063 年
となって、拝殿蟇股D04の暦年代(西暦1036~1080年)と近似する。これから先の考察は拝殿蟇股D04と同じであるが、神像の方をやや古く見積もるべきかもしれない。いずれにしても、筆者らが推定する拝殿蟇股D03・D04の年代(平安時代後期~鎌倉時代前期)と長谷教授が推定する神像類の年代(平安時代中期~平安末期・鎌倉時代初頭)はよく一致しており、紀氏一族の土着から隆盛期(11~12世紀)に神社が造営された蓋然性がいっそう高まったと言わざるをえない。【続】
《連載情報》
中国科学技術史学会建築史専業委員会主催国際シンポ「木構造営造技術の研究」招聘講演(11月16日@福州大学)
科学的年代測定と建築史研究-日本の木造建築部材とブータンの版築壁跡の分析から-
(1)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2120.html
(2)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2121.html
(3)http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-2123.html
中国建築学会建築史分会シンポ「近70年建築史学研究と歴史建築保護-中華人民共和国建国70周年記念」招聘講演(11月9日@北京工大)
東大寺頭塔の復元からみた宝塔の起源-チベット仏教の伽藍配置との比較を含めて-
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米子八幡神社の神像類については、2012年3月29日に関西大学の長谷洋一教授(日本彫刻史)が24点の調査おこなった。同年4月には長谷教授による『八幡神社神像類調査概要』が著され、ネット上で公開されている(https://www.yonago-hachiman.com › app › download › 神像調査概要)。その報告の結論5項目のうち4項目を以下に転載する。
(1) 11点が11世紀から12世紀(平安時代中期~末期・鎌倉時代初頭)に製作された神像や仏像であること。
(2) 平安時代の神像がまとまって確認されたことは、全国でもめずらしい事例と言える。
(3) 片膝立ての女神像は、広葉樹(クスと思われる)の一木造で造られ、片膝を立てる座り方や球状の面部や厚い着衣の表現などから11世紀の作品とみられ、山陰地方(鳥取・島根)で最古級の作品とみられる。(ただし今後、神像調査がすすめば訂正の可能性も)
(4) そのほかの女神像・男神像も12世紀(平安時代後期)の神像の特徴(豊かな表情や奥行きが少なく肩幅が広い)をよく表しており、現状では神像彫刻(の指定)がない鳥取県や米子市では貴重な作品群と言える。
その後、2013年1月に右膝立ちの女神像も発見された。右膝立ちと左膝立ちの女神像は一対のものである。これら神像類についても、内藤宮司の強い意向を踏まえ、AMS法による放射性炭素年代測定に踏み切ることになった。神像のサンプルはいずれも底面である。結果は以下のとおり。
立膝女神像(A)ムクノキ
777-790 cal AD(信頼限界4.2%) 808-842 cal AD(信頼限界5.4%)
862-973 cal AD(信頼限界85.8%)
立膝女神像(B)ムクノキ
777-791 cal AD(5.2%) 805-843 cal AD(8.0%)
860-973 cal AD(82.3%)
以上のように、2点とも8~10世紀に遡る驚異的な炭素14年代が得られた。信頼性からみると、(A)は西暦862~973年、(B)は西暦860~973年の可能性が高いであろう。ただし、残存する年輪は(A)が12層、(B)が11層と極端に少ない。拝殿蟇股D04の残存年輪が101であるから、それよりも90年も少ないのである。ここでその年輪差の近似値=90年輪を上のデータに加えてみよう。すると、
(A)西暦952-1063 年 (B)西暦950-1063 年
となって、拝殿蟇股D04の暦年代(西暦1036~1080年)と近似する。これから先の考察は拝殿蟇股D04と同じであるが、神像の方をやや古く見積もるべきかもしれない。いずれにしても、筆者らが推定する拝殿蟇股D03・D04の年代(平安時代後期~鎌倉時代前期)と長谷教授が推定する神像類の年代(平安時代中期~平安末期・鎌倉時代初頭)はよく一致しており、紀氏一族の土着から隆盛期(11~12世紀)に神社が造営された蓋然性がいっそう高まったと言わざるをえない。【続】
《連載情報》
中国科学技術史学会建築史専業委員会主催国際シンポ「木構造営造技術の研究」招聘講演(11月16日@福州大学)
科学的年代測定と建築史研究-日本の木造建築部材とブータンの版築壁跡の分析から-
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中国建築学会建築史分会シンポ「近70年建築史学研究と歴史建築保護-中華人民共和国建国70周年記念」招聘講演(11月9日@北京工大)
東大寺頭塔の復元からみた宝塔の起源-チベット仏教の伽藍配置との比較を含めて-
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